第五十六話.兄、誠久
敬久は、新宮谷の近くにある寺にいる。
早の葬儀は身内のみで執り行われ、彼女はあっという間に灰になった。その位牌は今、敬久の胸に抱かれている。
(……灰になっても綺麗なものだ)
敬久は灰の中の白い骨を見て、嫁いできた日の早の姿を思い出した。しかし何度思い起こしても、その表情を思い出すことができない。
寺を出た敬久の頬を、暖かくなった風が撫でる。
葬儀のすべては淡々と進み、一つの感慨も湧かなかった。ただ解き放たれた感覚だけが、敬久を包んでいた。
「敬久!」
石段を位牌を抱えて降りる弟に、うしろから豊久が声をかけた。敬久は振り向いて、ゆっくりと頭を下げた。
「兄上、申し訳ござらぬ。大内に大勝した、この新宮党の晴れやかな時に……」
「いや……人の生き死には仕方あるまい。ましては病ではな」
「……はっ」
多胡辰敬の助言どおり、早の死は公には病によるものとなっていた。その真相を知るのは、敬久と辰敬、奉公人の利吉のみであり、国久や豊久にもその事実は伏せられていた。
「しかし、あまり気を落としている暇はないぞ。この好機に我らは大内を圧倒し、尼子は西国の覇者となるのだ。お前も新宮党の大将の一人として、死にもの狂いで戦い続けねばならぬ。父上もそれを望んでおられるのだからな」
大内大敗の報は瞬く間に諸国に広まり、天下を大きく揺るがせている。西国はこれより、動乱の時代となるだろう。
「心得ております。父上と誠久兄は、月山富田城に?」
先程まで葬儀にいた国久と誠久の姿は、もうなかった。今頃は、月山富田城に向かう途上であろう。
「ああ、兄上は此度の総大将だからな。戦勝報告はせねばなるまい。しかし、話を聞いたぞ」
「話とは?」
「お前の戦の話だ」
豊久は、敬久と共に石段を降り始めた。
「渡辺通と申せば、西国に聞こえた猛将だ。それを討ち取ったのは良い。しかし仮にもお前は、新宮党の大将の一人だぞ。兵を差配せず自ら乱戦に突っ込むなど、決して褒められたものではない。大将首を取ったからといって浮かれるな、自らの立場を考えろ」
「……仰せごもっともにございます。ただ、誠久兄にはお褒めの言葉をいただきまして……」
敬久はそう言いながら、素直に喜色を表情に表した。
「お前は兄上とは違い、天下無双の剛勇ではない。ああいう戦ができるのは兄上だけだ。大将が先頭に立って斬り結ぶなど、自重せねばならぬぞ」
「はっ……」
「それに、兄上が褒めたのはおそらく武勲のことだけではない。刀を一振、献上しただろう?」
石見で工作していた豊久は、帰還したばかりであった。しかし吉田忠国に聞いた話だけで、おおよその状況を理解していた。
「はっ、渡辺通の刀でございます。某には、無用の長物ゆえ……」
敬久は帰陣した際に、一振の刀を誠久に戦利品として献上していた。渡辺通が握っていた、あの刀である。
刀に詳しくない敬久であっても並の刀でないことが分かる、美しい輝きを放つ名刀であった。
「兄上はずっと、己の剛力に耐えうる刀を求めていた。なにせあの怪力には、出雲の鋼も音を上げるからな。あんなに上機嫌の兄上は久しぶりに見たぞ。あれはいいものだ。お前も中々、ご機嫌取りがうまくなったな」
「機嫌取りなど、そんなつもりでは……」
渡辺通を討ったものの、元就を逃した敬久に、初め誠久は仏頂面であった。しかし、敬久から献上された太刀の刀身をみた誠久は瞳を輝かせ、弟の肩を叩いて喜んだ。
――さすがは俺の弟よ、よくやった!
敬久は生まれてこの方、ここまで誠久に褒められた記憶がなく、感激に胸を熱くした。しかし、それを後ろで見ていた父国久が呆れていたのは、いうまでもない。
「勘違いするな、敬久。俺は本心から褒めておるのだぞ。此度の戦の話を聞いて、改めて思ったのだ。兄上にはやはり、機嫌よく戦をさせておくのが一番だとな。まあ、子供のようなものよ」
随分な物言いであるが、豊久にはもちろん悪意はない。誠久という男はそういうものなのだと、昔からそう思っていただけであった。
「思えば剣術であろうが槍術であろうが、子供の頃から兄上にとっては遊びのようなものだった。国のためでも家のためでもなく、純粋に戦を楽しむことができる者、それが新宮党の誠久よ」
「確かに戦を楽しむことこそが、誠久兄の強さの根源かも知れませぬ。そして求める、新宮党の戦も……」
「だがそれでいいのは、兄上と三十騎衆だけだ。戦とは本来、事前の状況と策でおおよそが決まる。後は戦術と陣形よ。兄上の精鋭頼みの戦は、今後はあらためねばならぬ」
「しかし……誠久兄にご納得いただけましょうか?」
「問題はそれだ。兄上は、策に頼ると兵どもが弱くなると思っている。練度と戦術は別儀だと、分かってもらわねばならぬ。皆がああいった力に頼る戦をできるわけではない。戦は、槍衾でするものよ」
どうやら豊久は、新宮党の軍勢を改革しようとしているようだった。
今後、尼子が多正面に軍を進めるとなれば、新宮党も分散して行動しなければならないだろう。さしもの誠久も、その身を裂くことはできない。
「まあいざとなれば、父上に兄上をご説得いただくまでだ。新宮党の備えに関しては、父上も同じ意見だからな」
久幸が戦死して以降、豊久はすでに新宮党の舵取りを半ば取り仕切っている状態であった。本来ならば、長男で跡継ぎでもある誠久を差し置いての行動は、許されるものではない。
しかし当の誠久が戦以外にまったく興味がなく、豊久にすべて丸投げにしているのだから、そうなるのは必然であった。誠久がそんな調子であれば、党首であり父である国久も結局それを黙認せざるをえない。
分かれ際、とぼとぼと歩く敬久に、豊久が後ろから声をかける。
「人の生き死には、天のさだめによるものだ。己を責める必要はないぞ」
敬久が振り向くと、豊久はすでに踵を返し歩き出していた。
位牌を抱いた敬久は、去りゆく兄の背中に向けて、ゆっくりと頭を下げた。
館に戻った敬久は、誰もいないがらんとした広間に入った。位牌を床に置き、その前に座る。
「早、ここも静かになるな。いや、そなたはそもそも騒がしい女子でもなかったか……」
位牌はもちろん、敬久の問いに答えない。
続けて口を開こうとした敬久であったが、何一つ言葉は出てこなかった。この夫はあらためて、妻との思い出がほとんどないことに気がつく。
涙は、出なかった。己のことも薄情だと思う。そして居心地の悪い罪悪感だけが、敬久を支配していた。
広間に入り込む太陽の光は、次第に壁を照らし始め、広間を茜色に染めていた。そしてそれもやがて、薄暗い闇に変わってゆく。
どれほどの時間が経っただろう。敬久自ら明かりを灯した時、不意に荒々しい足音がした。床が激しく軋み、風が吹き抜ける。
「これは、兄上……」
広間に入ってきたのは、誠久であった。右手に徳利、左手に二つの盃を持った誠久は、弟の正面にどかっと座る。
誠久は無言のまま、二つの盃に酒を注いだ。
「……」
言葉を待つ敬久を意に介さず、誠久は自らの盃に口をつけ、あっという間に飲み干す。
再び酒を注ぐ誠久をみて、敬久も白い甘露を一息に飲み干した。久々の酒は五臓六腑にしみわたり、敬久の心をじんわりと温める。
誠久は徳利を掲げ、空になった敬久の盃に無言のまま酒を注いだ。しんと静まり返る館に、時おり徳利と盃の接する音だけが響く。
何杯めかの盃を飲み干した頃、いつの間にか頬を濡らしていた敬久は、天を仰いで嘆息した。
兄はただの一言も発することなく、弟の盃に酒を注ぎ続けた。




