第五十五話.妹よ
備後から山内直通の兵に守られて安芸に戻った元就一行は、長き遠征を終えて吉田に帰還した。
吉田郡山城の周囲は、迎えの領民らでごった返した。その者たちの笑顔は、元就の善政の証と言えるだろう。
「お帰りをお待ちしておりました」
妻の美国も、笑顔で元就と息子たちを迎えた。彼女はおずおずと前に出た少輔次郎の頬を叩き、そして抱きしめて、涙した。
「生き残れたのは、奇跡的だった。儂も次郎もな。しかし……むしろ死した方が、面目を失わずに済んだのやも知れぬ」
「またそのようなことを……生きていてこそではありませんか。御仏のご加護の賜物でございましょう」
そう答えたのは、杉大方であった。元就の知る限り、他の誰よりも信心深い。
「御仏ですか」
元就は短く、そう答えただけであった。
元就ら主従は、帰還してからすぐに死んだように眠った。疲労は限界まで蓄積し、回復には数日の療養を待たねばならなかった。
その間、散り散りになっていた将兵も徐々に吉田に戻り、無事を喜びあう。しかし当然ながら、いつまでも帰還しない者たちの家族らは悲嘆にくれた。
「この元就が生きて戻れたのは、死した者どもの献身によるものだ。毛利はこの恩を、決して忘れぬ」
休養を取った元就は、福原貞俊らに命じて遺族への手厚い保護を約束した。やはり一番に訪れたのは、渡辺通の遺族の元であった。
「通は、儂の身代わりとなった。いや、儂ばかりではない。生きて帰った者たちは皆、通に救われたのじゃ。毛利は未来永劫、渡辺の家を厚く遇するであろう」
そう言った元就は、通の最後を語って聞かせた。通の妻は平伏して泣き崩れ、幼い嫡男も声を合わせて泣く。
「元就様の身代わりとなり、盾となれた主人は果報者でございます。その上、このようなありがたいお言葉……主人も、草葉の陰で喜んでおりましょう」
声を震わせながら答える妻の後ろには、若い女が静かに座っていた。女は涙を流すことなく、ただじっと唇を噛み締めて、元就の話を聞いていた。
凛とした、美しい娘であった。
通の屋敷を出た元就は、共にいた桂元澄に尋ねる。
「あの娘……あの後ろにいた娘は誰か?」
「通の妹でございます。何時ぞや、元茂が出雲でお話した……」
「ああ……あれがそうか」
元就は、出雲で通らと火を囲んで語らった事を思い出した。結局、あの時の若者の多くは、生きて安芸の地に戻ることはできなかった。
元就が再び暗鬱に沈んだ時、背後から声がかかる。
「お持ち下さい、元就様!」
そう叫んで出てきたのは、その妹であった。着物が汚れるのも構わず、地べたに膝をつく。
「私は通の妹で、春と申します。元就様、無礼を承知でお願いがございます。兄を討ったのが何者か、私は知りたいのです。仇の名を、是非ともお教え頂きとう存じます」
その春という妹に続き、通の妻が慌てて出てきた。
「これ、お春。なんと無礼なことを……」
「よい、気にいたすな」
元就はそう言って、春の眼差しを見つめた。その凛とした瞳は、元就の心を打つ。
「……尼子敬久。新宮党の男じゃ」
「新宮党の、敬久」
春は噛みしめるように呟いた。その瞳に、憎悪の炎が揺らめく。
「元就様、私は幼き頃から、兄と共に武芸に勤しんで参りました。男にも引けを取らぬ自信がございます。尼子との戦の折には私も戦場に馳せ参じ、是非とも仇討ちを致しとう存じます。何とぞ、その機会を私に……」
その春の言葉に、元澄が声を荒らげた。
「調子に乗るな、春! おぬしの力など借りずとも、通の仇は我々が討つ。女の分際で出過ぎたことを申すな、控えよ!」
しかし春は、まったく怯んだ様子を見せなかった。
「声を荒げるな、元澄」
元澄をなだめた元就が、春に語りかける。
「春、といったか。そなたがそのような事を考える必要はない。儂は通と、そなたの幸せを約束した。近いうちに嫁ぎ先も儂が決めよう。そなたの幸せが、何よりの供養になる」
「兄が、そのようなことを……」
春は驚いた表情を見せ、顔を伏せた。しかし春は感涙したわけではなく、再び上げた瞳はさらに鋭さを増していた。
「私は、女の幸せなどいりません。ただ兄の仇を討つことだけが、私の願いなのです。何とぞ、何とぞ……」
春の言葉に、元就の思考が動き出す。
(どんな剛の者も、麗しい女には油断するものだ。それは歴史が証明しておる。古来より、女の刺客がないわけでもない。この娘を荊軻のように使うことができれば……)
荊軻とは、かつて始皇帝暗殺に失敗して処刑された暗殺者の名である。もちろん荊軻は男だが、その刃は始皇帝にあとわずかというところまで迫り、暗殺者の代名詞のようになっていた。
しかし元就は不意に、目眩に襲われた。
この娘は、通の妹ではないか。しかも元就は、この妹の幸せを約束したのだ。使い捨てのようにして、あの世の通にどう言い訳するのか。この考えは、恥ずべきものではないか?
元就は、眉間に指を当てうつむいた。それを見た元澄が、声を荒らげる。
「春、いい加減にしろ! 殿のお心をなんと心得るか」
元就は元澄を制した。そして春に、
「思い上がるな。通の仇を討ちたいのは、そなただけではない」
そう静かに言って、通の屋敷を後にした。
春は、ついに最後まで瞳を逸らさなかった。
「殿……春のこと、お許し下され」
元就の反応を、春の無礼で苛立ったものと思った元澄は、春をかばう。
「通と春は、異国の地で苦楽を共にした兄妹でござる。母親が亡くなった後は、身内のいない備後で二人、身を寄せ合いながら生きてきたと聞いております。それ故に情も深く、感情も昂ぶってしまったのでございましょう」
「元澄、それは無用の気遣いじゃ。小娘の戯言に怒りはせぬ」
「はあ、左様で……」
元澄は首を傾げた。元就の一瞬の逡巡など、忖度できるものではないだろう。
吉田郡山城に戻った元就は、一人、本丸の奥の間に入った。
その狭い一室は、元就が戦略や謀を巡らす時に籠もる場所であった。そこにはすでに、志道広良が座っていた。
「はて……しばらくお会いせぬうちに、随分と御面相が変わられましたな」
痩けた頬に、落ち窪んだ目を虚ろに動かす元就を見た広良は、さも驚いた様子で呟いた。その飄々とした姿も、今は心地よい。
「広良……、儂は隠居しようと思う」
「これは、異な事を……」
開口一番の元就の言葉に、広良は更に目を丸くする。
「地獄を見た。この歳になってもまだ、底があるのだな」
おおよそ、辛酸というものを舐め尽くしたと思っていたのは、元就の増長であった。
その上、未来の毛利を支える若者たちの多くが、この遠征で死んだ。この上ない痛恨事であった。
「それは、まだまだ殿がお若いということでござる。生きて戻ることができたのは、殿に艱難辛苦を与えんがための、神仏の配慮でござろうて」
「神仏は意地が悪いな。長年、朝日に手を合わせた甲斐がない。儂に苦痛を与えて、どうしようというのだ?」
「天の時、地の利、人の和。どれか一つ欠いても、勝利はままなりませぬ。これはこれから天下へ飛翔する、殿への天の戒めでござろうよ」
「……本当にそう思っておるのか?」
元就は、訝しげな視線を向けた。しかし長陣で時を費やし、雨と裏切りに敗北したのは事実である。出陣の時の広良の懸念は現実となったのだ。
「これをのちの糧とするか否かは、殿のお気持ち一つ。しかし殿が隠居するなどと仰っしゃれば、死んだ者たちもその甲斐がござらぬ」
「しかし、儂の威信は地に落ちた。安芸の国人衆も離反し、尼子に鞍替えするだろう。けじめは付けなければならぬ」
「殿のけじめで毛利が滅び、家臣が路頭に迷うは迷惑千万。たとえ修羅になってでも、この困難を乗り越えていただきますぞ」
広良はぴしゃりと言った。若い頃、何度もくじけそうになった元就を叱咤した、あの頃と同じ笑みを浮かべて。
「修羅になってでも、か」
つられて口の端に笑みを見せた元就の脳裏に、一つの事実が浮かび上がる。
(まずは、新宮党か。あれを何とかせねば、毛利に未来はあるまい)
かすかに元就の心に火が灯る。
しかしこの火が大火となるには、まだ時が必要であった。




