第五十四話.負け戦
天文十二年(一五四三年)五月二十五日、追撃を逃れた大内義隆は、冷泉隆豊らに守られて、ようやく山口に帰陣した。
晴持の死は、帰還してしばらくの後に、冷泉隆豊から伝えられた。その嘆きは、推して知るべしであろう。
「おお、晴持……晴持よ! 何故だ……あの美しかった顔が、どうしてこのような……!!」
義隆は、人々が目を背ける晴持の遺骸にすらしがみついて哭いた。
すでに晴持の体は腐臭を放ち、その美しかった唇も崩れかけていた。義隆は何度も、その唇をなぞる。
「冷泉、卿らは一体なにをしていたのか。おめおめと、よくも余の前に居られるものだ。恥を知れ!」
義隆の怒りは、寵愛する隆豊にも向けられた。怒りに任せて投げた扇子が、隆豊の頭を打つ。武断派の諸将に対する怒りは、尚更であった。
「隆房はどこにおる。興盛は? 彼奴らはどこへいった!」
怒りに震える義隆に、相良武任が答える。
「此度の敗戦によって、領国は動揺しております。それは、お膝元の周防、長門の国人衆も例外ではなく、陶殿や内藤殿らは、手勢を率いてこれらを鎮撫しております。しばらくは、帰陣すること叶いますまい」
この武任の言葉は、間違ってはいない。しかし武断派の諸将が、何かと理由を付けて義隆の御前にいたくないのは当然であろう。
「武任、やはり余は後悔しておる。なぜそなたの意見を聞いて、遠征を思いとどまらなかったのか。そうすれば、晴持をこんな目に合わせずに済んだものを!」
義隆の言葉に、隆豊はただ平伏して耐えるしかなかった。
「まったく隆房らは、口先ばかりで頼りにならぬ。武任、武断の者どもに、守護代の任は重すぎよう。任を解こうと思うが、どうか?」
その怒りにまかせた言葉に、猫背の武任が慌てて言上する。
「陶殿や内藤殿は、代々大内家にお仕えする大身でございます。方々をおいてほかに、守護代の任を務める力と格式を持った者はおりません。勝敗は時の運、なにとぞ気をお静めくださいませ」
「余は、守護なるぞ。余は王じゃ。王の思う様にならぬと申すか!」
「王者であればこそ、御慈悲を」
初老の武任のかすれた声は、昔から不思議と義隆を落ち着かせるものがあった。
やや気を静めた義隆が、哀れな息子の手を取る。
「……話はまた、後日とする。晴持と二人にしてもらえぬか」
その言葉に、隆豊と武任は立ち上がる。
「隆豊、許せ。取り乱したわ」
「……はっ」
その言葉にこみ上げるものがあった隆豊は、声を震わせて答えた。
別室に移った隆豊と武任は、膝を突き合わせた。隆豊は包み隠さず、すべてを語った。
「陶と内藤は、共謀して若君を葬った。杉重矩も同様だ。許せるものではない」
事情を聞いた武任は驚きの表情を浮かべたが、隆豊よりは冷静であった。
「若君おかれては、さぞかし御無念のことであろう。しかし、お屋形様を確実に逃すことに注力するならば、兵の分配は致し方ない面もあろう。謀ったとまでは言い過ぎではないかな」
不満げな表情を浮かべる隆豊に、武任は諭すように言った。隆豊はこの初老の男を、かねてから柳の木のようだと思っている。
相良武任。世間では、文治派の首魁と目されている人物である。
しかし隆豊は、この男がそんな大それた人物ではないことを知っていた。
先程の、隆房らを庇い立てする言動を見て分かる通り、武任には武断派と対立するつもりはまったくなかった。
しかし彼の不幸は、隆房と二分するほどの義隆の寵愛にあった。結果、武断派を快く思わない者たちは武任の周囲に集まり、文治派を形成するに至っている。
そういった動きにはある種の不可解なものがあったが、隆豊には大体のことが分かっていた。ようは武断派に煙たがられている京から来た公家衆が、対立派閥としての文治派を囃し立てているのだ。
武任としては、いい迷惑には違いない。この男にあるのは、右筆からここまで取り立ててくれた、義隆への恩義だけなのだ。しかしその気質が逆に、隆豊のような男を惹きつける結果ともなっている。
「ならば謀った云々は別儀にしても……ことの次第は、お屋形様のお耳に入れておくべきではないか」
「冷泉殿、我らの敵は身内に非ず。尼子の脅威は、すぐにも現実のものとなろう。この状況で、お屋形様と武断派との間に不和などあってはならぬのだ。此度は、今までにない大きな負け戦であった。非常の時は、目をつぶらねばならぬこともある。とにかく今は、お屋形様の御心を安んずることが肝要であろう」
武任の言い分はもっともであった。隆豊も納得せざるを得ない。
「よろしいな、冷泉殿」
「……承知している。まずは戦の後始末だな」
この負け戦の立て直しは、簡単ではないだろう。仲違いをしている余裕はないのだ。
翌日、早々に晴持の葬儀が執り行われた。
葬儀の一切は、武任が取り仕切った。
武断派の諸将が間に合わなかったのは、言うまでもない。
敬久が石見から新宮谷に戻ってくると、時を同じくして月山富田城から多胡辰敬がやってきた。新宮党帰陣の知らせを聞いたのだろう。
「若、やりましたな。渡辺通と申せば、諸国に聞こえる毛利の驍将。若の御名も天下に響き渡りましょうぞ」
辰敬は自らのことのように喜んでいた。待ち望んでいた時であった。
「うむ。天の時が私に味方して、弓に神威が宿ったのだ。義隆の首ではないが、身に過ぎる大功よ」
「なんの、若の修練の賜物にござろう。国久様と誠久様は?」
「お二人はゆるりと凱旋じゃ。私は急いで早に伝えたくてな。父上も早う伝えてやれと申された」
「それは良うございましたな。奥方様もさぞかしお喜びになりましょう」
敬久の館は、しんと静まり返っていた。敬久が帰還を告げると、奉公人の利吉が慌てて姿を現した。
「た、敬久様……奥方様が……」
「どうした、利吉?」
尋常でない利吉の様子に何事かを察した敬久は、殊更にゆっくりと館に入った。そうしなければ、鼓動で胸が張り裂けそうだったからだ。
薄暗い部屋には、白い着物を着た女が床についていた。その顔には、白い布が被せられている。
「……!」
よろけように部屋に入った敬久は、ゆっくりと布をめくる。冷たくなった早の顔は、穏やかであった。
「早……!」
敬久は、声を絞り出した。絶句した辰敬も、その場に立ち尽くす。
「病は少しずつ良くなっていたはずだ。なのに、どうして……」
早の冷たくなった手を握りながら、敬久は早の首筋にある傷を見つけた。白い肌に赤い溝が、異様な対比で目に飛び込んでくる。
「……病ではないのか!」
振り向いて問う敬久の前に、利吉が平伏する。
「申し訳ございません。昨日のことでございます。朝から御加減も良く、敬久様のことを案じておられたのです。久しぶりにお元気で私も安心していたところ……少し目を離した隙に、ご自身で首を……」
後半は言葉にならず泣き崩れた利吉に、敬久は呆然と視線を向ける。出陣の日、雨に打たれて着物を干していた姿が、まぶたに浮かぶ。
「狂気が、早を殺したというのか」
「申し訳ございません……申し訳、ございません!」
利吉は何度も頭を下げた。
「利吉、おぬしのせいではない。私のせいだ。私がもっと、しっかりしておれば……」
「若……」
「そうだろう、辰敬」
辰敬は早の穏やかな顔を見つめた。苦しみから開放されたような、安らかな死に顔であった。
「若、奥方様は病で亡くなられたのです」
「辰敬……何を言っているのだ。早は……」
「若の御為にござる。ご自害となれば、口さがない世人のつまらぬ憶測を呼びましょう。若の面目が立ちますまい」
「私の面目のために、偽れと?」
「その為だけではございませぬ。これは、奥方様の名誉のためでもございます。苦しみから開放された奥方様を、良き妻として冥土にお送りするべきと存じまする。奥方様のためにも、何卒……」
辰敬は苦悶の表情で頭を下げた。非情で言っているわけではないことは、敬久にも分かる。
「これではまるで……負け戦じゃ」
敬久は声震わせて、静かに呟く。
早の安らかな顔だけが、唯一の救いのように思えた。




