第五十二話.大将首
弓を構え、草むらに身を潜める敬久と広国は、三日月のわずかな月明かりを頼りに、辺りの様子をうかがっていた。
誠久に先行して進軍する敬久隊が、毛利元就とその一団に遭遇したのはまさに僥倖であった。その軍勢は圧倒的に新宮党が多く、勝負は見えているように思われた。
しかし毛利勢は、臆することなく突撃してきた。
「かかれ!」
すでに道なき道での戦いとなっていた山での戦いは、陣形などあってないようなものであった。
その上、毛利勢は高所から逆落としで斬り込んで距離を詰めてくる。弓を得意とする敬久隊は、一斉に矢を射かけたが、あっという間に距離を詰められられ、乱戦となった。
「我こそは安芸の国人、毛利元就じゃ。その黒朱の出で立ち、新宮党の武士どもとみた。相手にとって不足なし。いざ尋常に、勝負!」
一際大きな兜を被った武者が、大声で叫ぶ。そしてその男は、新宮党の中心にいる敬久に目を付けた。
「名のある御仁とお見受けする。名を名乗られよ!」
「尼子新宮党、敬久。こちらこそ相手に不足はない、参られよ!」
刀を抜いた敬久も、臆することはなかった。周囲の広国らも抜刀し、毛利勢と激突する。
上段に斬り込んできた元就と敬久の刀が交錯し、火花が散った。繰り返される斬撃の圧力に押された敬久が、必死に踏みとどまる。
(何という圧力……!)
元就の表情は、兜の影に隠れてうかがい知ることはできない。間違いのないことは、その力量が敬久を確実に上回っていることであった。
「殿!」
対峙していた毛利勢の波多野源兵衛を斬り捨てた広国が、横合いから元就に斬りつけた。それを元就がいなしている間に、敬久は後退して闇に紛れた。
(情けない話だ。私は何故こうも弱いのか……)
乱戦は、さらに激しくなった。敬久は暗闇で元就を見失い、敵も味方も入り乱れ、戦場は木々と草むらを利用しての奇襲戦になろうとしていた。
「……殿」
「おおう!」
しばらく草むらに身を隠していた敬久に、背後から広国が忍び寄ってきた。
「脅かすな、馬鹿者」
そう肘で小突かれた広国は、にやりと笑った。この男の明るさは、戦場においても変わらなかった。
「しかし毛利元就め、もう結構な歳のはずだが……何という太刀さばきか」
「確か、国久様より少し若かったはずですが。国久様の御壮健ぶりを思えば、やはり油断はできますまい」
国久は、五十を過ぎた今でもまったく衰えた様子を見せていない。敬久も、そんな父に剣術で勝てる自信はなかった。
徐々に、敬久の周りに家臣が集まってくる。
「殿、ここは無理をする必要はございませぬ。数は圧倒的にこちらが多うござる。距離を取り、包囲して締め上げては?」
「広国、ここは踏ん張りどころなのだ。私自ら、元就を討つ。でなければ、必ず後悔することになろう」
敬久の決意に、広国も口をつぐんだ。
「広国、弓を……」
敬久はそう言って、刀を収めた。
「ここは見通しが悪うござる。近づかれたらどうされます? もし外せば……」
敬久は、受け取った弓に矢を番えた。
「どの道、刀では勝てぬ。刺し違えるぐらいの気概がなければ、あの男を討ち取ることはかなうまい」
一撃で仕留めることができなければ、距離を詰められて勝敗が決まる。
しかし敬久は、弓に関しては絶対の自信があった。中距離で正中を逃さねば、必殺の一撃に成り得るはずなのだ。
辺りが再び騒がしくなる。
周囲の家臣が草むらを飛び出し、毛利勢を迎撃した。弓を構えた敬久と広国は、再び息を潜めて様子をうかがう。
どこかから、枯れ草を踏む音が聞こえる。しかし、それが敵の音か味方の音かも分からない。
その時であった。
敬久の目の端に、何かが光る。
「!」
瞬時に立ち上がった敬久は、一瞬で矢を引き絞った。その方角から、刀を構えた元就が忍び寄ってきていたのである。
わずかな月明かりにも関わらず、その刀身は青白く光っていた。
その刃は完全に、敬久の死角から迫っていた。月明かりがなければ、敬久の命はなかったであろう。
月に裏切られ、照らされた元就は、驚愕の表情を浮かべた。その顔は、若かった。
「ヤァ!」
一瞬の静寂のあと、覚悟を決めた元就が上段に構え、斬りかかってくる。しかしその間合いは、敬久の間合いであった。
「出雲の神々よ、武神須佐之男よ。我に力を与えたまえ!」
弓を引き絞った敬久は小さく呟いて、間髪入れずに矢を放った。渾身の矢は唸りを上げ、闇を切り裂く。
「ぬう!」
うめき声を上げる元就の胸に、深々と矢が刺さる。
それでも元就は、二歩三歩と歩を進めたが、やがて膝から崩れ落ちた。
「お見事!」
「……やったか」
敬久の全身から汗が吹き出す。
敬久と広国はゆっくりと近づいて、倒れた男の顔を覗き込んだ。
「こやつは……毛利元就ではないな」
「影武者でございましょうか?」
月明かりに照らされた男の顔は、明らかに若かった。精悍な顔の、美男である。
広国は、男の鎧に注目した。
「この家紋、確か渡辺家の……もしや、あの猛者と名高い……」
「渡辺通か!」
渡辺通といえば、毛利家中一の猛将であった。かつて新宮党も、吉田郡山城の戦いにおいて苦杯を嘗めさせられており、元就に次ぐ大将首と言ってよかった。
「これは、元就に劣らぬ良い武勲になりましょう。早速、首を」
広国が喜び勇んで刀を抜く。
その地面に横たわる渡辺通らしき男の手には、打刀というより反りの強い、太刀のような美しい刀が握られていた。その刀はまだ、青白い光を放っている。
「この刀が光らねば、やられていたのは私だっただろう。この闇夜の三日月に、感謝せねばならん」
腰を屈め、更に男に近づいた敬久に、不意に下から手が伸びる。
絶命したと思われた男はかっと目を見開き、敬久の胸ぐらを掴んだ。
「殿!」
「いや、良い」
敬久は、広国を制した。その男の力は、すでに弱々しかった。
「儂は……毛利、元就じゃ。毛利……元就じゃ……」
男は血反吐を吐きながら、声を振り絞る。敬久は今まで、こんな人の眼差しをみたことがない。この男の、意地と忠義をみたのだ。
「広国……」
「はっ」
敬久は、大きく心を揺さぶられた。男の瞳から目が離せなかった。
「……この男は、毛利元就じゃ」
「いや、こやつは……」
「元就じゃ! 勝ち鬨を上げよ!」
通を見つめたまま、敬久は叫んだ。広国は一度、刀を収め、天を仰いだ。
「敵将、毛利元就! 新宮党敬久公が討ち取ったぞ!!」
広国は、大音声で何度も叫んだ。周囲の尼子勢が呼応し、鬨の声を上げる。
いつしかその声は、山中に響き渡る。
「……かたじけ、ない」
そう呟いた通は、虚ろな瞳のまま穏やかな表情を浮かべた。脳裏に元就や妻子、妹の顔が浮かび、そのままがくりと首を落とした。
「……広国」
「はっ」
鬨の声に包まれ、敬久は立ち上がる。
「すぐに兄上に知らせよ。敬久が討ち取ったのは、毛利元就にあらず。追撃の手を緩めぬように、とな」
「……承知」
広国は頭を下げ、闇の中に消えていった。
「敵将、毛利元就! 新宮党敬久公が討ち取ったぞ!!」
山中を南に逃げる元就一行は、遠くに響く鬨の声を聞いた。
「父上、あれはもしや……」
隆元は半ば確信しながらも、震える声で父に問う。
(ああ、やんぬる哉。すべてはこの、元就の甘さよ)
元就は隆元に無言であったが、その心中は嘆息であふれた。安芸吉田を出る前から、すべての選択が間違っていたように思えた。
(誠久、そして敬久か。新宮党の若者は輝き、毛利の若者は死ぬ。この老人に、何が残るというのか)
そう嘆く元就は虚しさをこらえ、辛うじて石見を脱出した。




