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新宮党の一矢  作者: 次郎
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第四十九話.天狗が来りて

 毛利、小早川の軍勢を蹴散らした尼子勢は、息つく暇もなく続けざまに大内軍の中備えに襲い掛かった。

 中備えの中心は、安芸の国人衆であった。

 しかしこの宍戸、熊谷、香川ら、尼子に鞍替えすることのなかった国人衆たちもその士気の低下は著しく、組織的な反抗をすることもできぬまま潰走することになった。散り散りになり、山中を落ち延びる。

「……どこをどう走っても、地面がゆらゆらと揺れているようだ。生きた心地がせぬ」

 周囲を見渡しながら進む宍戸隆家の隣で、熊谷信直が呟く。戦国武将として様々な窮地を脱してきた信直でも、この状況は薄氷を踏む思いなのだろう。その泥だらけの額に、脂汗が浮かぶ。

「幾度の死地をくぐり抜けてきた貴殿が、そんな弱気では困るな。安芸までの長い道中を思えば、ただでさえ気が滅入ってくるというに……」

 隆家は苛立たしげな声で応じた。若い隆家は、一回り近く年上の信直から虚勢でも強気な言葉が聞きたかった。しかしもちろん、状況がそうでないことは十分承知してはいたが。

 隆家の主従と信直は少数ながら、一塊となって西へ逃げていた。この星が輝く夜空も、もう何度目であろうか。

 ほとんど戦うこともなく敗走していた信直は、かつて武田氏に仕えていた頃の同僚、香川光景らと共に退却していたが、出雲鳶ノ巣川で落ち武者狩りの一揆衆と遭遇した。

 敗走する軍勢にとって落ち武者狩りは、敵勢に勝るとも劣らない脅威であった。

 信直は乱戦で家臣や光景とはぐれ、一人さまよっているところを隆家主従と合流したのである。

「熊谷殿、もう一度聞くが……元就殿のことで分かることはないのか? 何か思い当たることは……」

「毛利のことは知らぬが……鳶ノ巣川の近くで、小早川の沼田衆はうろついておったな。主とはぐれたとか……」

「……小早川殿、か」

 隆家はそう言って目を逸らし、ため息をつく。

 信直にとって隆家と合流できたことは幸運であったが、隆家としては当てが外れた。わざわざ危険を冒して前線に踏みとどまっていたのは、元就の安否を確認したいがためで、他の国人衆を救うためではなかったからだ。

(義父を見捨てて私だけ帰ったとなれば、しんが何というか……)

 隆家と元就の娘、しんは仲睦まじい夫婦であった。しかし誰よりも元就を敬愛するしんが、父を見捨てて帰った夫にわだかまりを持つことは十分にあり得た。勝気な妻にどう言われるか、分かったものではない。

 何より毛利の衰退は、いまや宍戸の衰退でもあった。毛利の存在なくして、尼子の圧力を凌ぐことはできないのだ。

「殿! かすかに馬のいななきが……」

 不意に家臣が声を潜めて呟いた。

「何、まことか!」

 驚いた隆家が耳を澄ますと、確かにその耳にも馬のいななきが聞こえた。

 それだけではない。明らかな軍勢の気配が、こちらに向かってくる。

 隆家主従と信直は、慌てて付近の草むらに身を潜めた。夜の闇が、一行の姿を覆い隠す。

「宍戸殿……隠れてやり過ごせるのか?」

「分からぬが……音を立てて逃げるよりましであろう」

 やがて身を潜める一行の目前に、軍勢が姿を現した。丸に三つ引きの吉川の旗が、松明に照らされ風に揺らめく。

(……興経か!)

 隆家は内心で舌打ちをした。今この時に、出会いたくない男である。

 軍勢の中心にいた興経は馬の背に仰向けになり、鞍の上に寝そべっていた。腕を組み、口にくわえた何かから煙をくゆらせている。

(……器用な奴だ)

 妙なところに感心した隆家の隣で、信直の歯が根を鳴らす。

「ぬう、興経めか」

「……熊谷殿、妙なことを考えてくれるなよ」

 信直の様子を見て取った隆家が、小声で諫める。先の陣中における信直と興経の因縁は誰もが知るところであり、もはやその存在は仇敵といっていい。

 ここで動くのはまさに自殺行為でしかない。しかし、その当たり前を信じていた隆家の目論見は脆くも崩れた。

 わずかに動いた信直の肩を、隆家が抑える。

「おい……馬鹿!」

 しかし信直はその手を振り切って、吉川勢の前に躍り出た。

「興経、この裏切り者め!」

「お、おお?」

 急に大喝された興経は慌てて起き上がり、口にしていた物を脇に吐きだした。目の前に現れた信直を見て、目を丸くする。

「おうおう誰かと思えば、負け犬兄弟の兄貴か。気が狂うて出て参ったか!」

「やかましい! 今ここで、俺と立ち合え。あの時の屈辱、今ここで晴らしてくれるわ!」

 そう言って刀を抜く信直の横に、隆家主従も姿を現す。こうなってはもう、隠れていても仕様がない。

「おぬしは……ああ、そうか。宍戸の跡取りか」

 そう言った興経は、どこか夢見心地な表情であった。

「それならばあれか。おぬしは俺の義理の甥というわけか。しかしあれだな。もうその程度の関係など、他人と変わらんな」

(……ここまでか)

 爛々と輝く興経の瞳に絶望した隆家の隣で、信直が吼える。

「馬を降りろ、興経! 尋常に勝負しろ!」

「ああん? 阿保か、お前は」

 興経はめんどくさそうに呟き、家臣の手島興信に合図を送った。興信らは槍を構え、一斉に信直に突きつける。

「……貴様、卑怯だぞ!」

「卑怯だと? めでたい奴だな。なんで俺が、馬鹿正直に貴様と立ち合わねばならんのだ。負け犬など、俺が手を下すまでもないわ」

 歯ぎしりする信直を見て、興経が笑う。

「大将首が二つか。悪くない」

(……すまぬ、しん)

 隆家が心中で覚悟を決めたその時、一陣の風が吹いた。周囲の者たちは一瞬、視界を奪われる。

「!?」

 人々が再び目を開いた時、そこにはいつの間にか山伏の一団が現れていた。

 彼らは隆家主従と信直を囲み、何事もなかったかのように連れて行こうとする。

「なんだ、貴様らは!」

 手島興信の大喝に、一番後ろの山伏が振り向く。その顔を見て、興経がわなわなと震えた。

 隣にいた二宮経方が主君の様子をうかがう。

「……殿?」

「て、天狗……!」

 そう言って絶句する興経を見た山伏は薄く笑い、踵を返す。辺りにほら貝の音が響き渡り、一団はそのまま逃げ去った。

「待て! 逃がすな!」

 経方が慌てて手を上げ、追撃を命じる。

「よい! 経方、深追いをしてはならぬ!」

 しかしそれを制したのは、焦点定まらぬ興経であった。

「しかし……!」

「追えば必ず天狗界に引き込まれようぞ。覚悟のない者が立ち入れば永遠の苦行が待っている。それでもいいのか」

 興経の言葉に、返答に窮した経方と興信が目を見合わせる。

「ついに見たぞ、大天狗。今はまだ早いが、いつかは必ず……」

 経方と興信は遂に言葉を発することができなかった。

 彼らの目には、ただの年老いた山伏にしか見えなかったからである。


 山中をしばらく走った隆家らと山伏の一団は、ようやくその足を止めた。

「やれやれ、間に合うたか」

「……司箭様!」

 隆家は年老いた山伏の姿を見て、驚きの声を上げた。

 司箭院興仙。

 愛宕山の仙人とも天狗とも称されるこの老人は、天狗の法を自在に扱い兵法武術に至るまで極めたとされる、まさに天下の奇人であった。その興仙が、今ここにいる。

「何故このような所へ?」

「何故、とな。そなたのために決まっておろうが」

 興仙は呵々と笑い、目を細める。

 かつては管領、細川政元の側近まで務めたこの興仙は、元は宍戸一族で隆家の大叔父にあたる。毛利元就の盟友、元源の弟であった。

「兄の葬儀での、年明けからしばらく五龍におったのじゃが……大内の勝ち戦を見ておこうと思うて愛宕に帰る道中に寄ってみれば、この有様じゃ。尼子も中々やりおるのう」

「申し訳ございませぬ。また司箭様の手を煩わせることを……」

 隆家は興仙に深く頭を下げた。かつて無実の罪で叔父を殺め、祟りによって失明した隆家に助言を与えて快癒させたのは、この興仙であった。

「何、そなたが無事で良かった。そなたに大事あれば、極楽浄土の元源に申し訳が立たんでな」

 そんな会話を交わす二人の間で、信直が口を開く。

「貴殿があの御高名な司箭院興仙殿でござるか。某は安芸の国人、熊谷信直と申す。此度は命を救っていただいた。深く御礼申し上げまする」

 信直はそう頭を下げたが、どこか狐につままれた心持であった。仙人だの天狗だのという噂は信直も聞いたことがあったが、目の前にいる人物はただの年老いた修験者にしか見えず、この世のものでない外法の習得者には見えなかった。

「いやいや、お気になさるな。儂は隆家を迎えに来ただけでな、そなたはたまたまそれにくっついて運が良かっただけじゃ。礼には及ばぬよ」

「……結果としてお助けいただいたことに変わりございませぬ。興経を前にして頭に血が上り、宍戸殿に御迷惑をおかけした。申し訳ござらぬ」

「そうです、司箭様。興経でござる。こうはしておれませぬ、早う逃げねば追いつかれましょう」

 頭を下げる信直を手で制しながら、隆家が不安な表情を見せる。

「心配せんでもよい。あの程度の敵、まく術はいくらでもあるからの」

 修験者は山の達人でもあった。山岳のことはすべて、彼らの手の内にある。

「それにあの男、おそらく追っては来まい。どうやら良からぬものをやっておるようだのう」

「良からぬもの?」

「人々に夢うつつを見せる秘薬の一つよ。その昔、京で流行ってな……まあ、儂が作ったのじゃが」

「……興仙様」

 そんな興仙の前に、一人の若い山伏が進み出る。

「如何した?」

「東から西に一つ、将星が流れました。どうやら名のある将が一人、冥府に旅立った由にございます」

 その男は、山伏に似つかわしくない真っ白な肌をしていた。どこか品のある顔立ちは公家を思わせ、瞳に怪しい光を漂わせている。

「まさか……元就殿ではあるまいな?」

 隆家は慌ててその山伏に詰め寄る。

「さて、そこまでは……私が分かるのは、その者の未来が永遠に閉ざされた事実のみでございます」

 山伏はそう言うと、満天の星空に両手をかざす。

「興仙様、私はこれよりその者の御霊を弔って参ります。よろしいか?」

「好きにせい」

 興仙の言葉に頭を下げた山伏は、音もなくうっそうとした森の中に消えていった。

「……何者でございますか?」

「あれか……あれは、果心居士という。しかし儂もよくは知らんでの。外法を伝授してほしいと愛宕に来たのだが、そういう手合いは多くてな。小間使いのようにつかっておったのだが、占卜をさせるとこれが中々役に立つ。まあ儂の弟子を名乗る、鶏鳴狗盗の一人よ」

 雲や星、ありとあらゆる森羅万象を関連づけて吉兆を見る占卜は、古くからこの国にある学問の一つであり、人々の行くべき道を示す指針でもあった。そのため占卜は長く人口に膾炙され、これを習得した軍配者を軍師として側においている大名も多かった。決して怪しげな学問ではない。

「司箭様……お願いがございます」

「ふむ……毛利元就のことか」

 興仙は顎に手をやり、撫でる。

「元就殿は今も主従とともに尼子に追われながら、出雲の山中をさまよっておるはず。何とか司箭様の御力で、舅を助けてはいただけませぬか?」

「……それは、できぬな」

 興仙は静かに言った。

「何故でございましょうか。司箭様の御力をもってすれば……」

「できないのではない。やらぬと言っておる。元就の生き死には、天の定めでしかない。元就がここで死ぬなら、それまでの人物だったということよ」

「しかし、司箭様。今や毛利なくしては宍戸も立ち行きませぬ。何としても義父をお救いせねば……」

「なんじゃ、あの嫁が怖いのか?」

「け、決してそのような……」

 慌てて否定する隆家に、興仙は厳しい視線を向ける。

「隆家、そもそも儂がおぬしを救ったのは、兄への手向けのようなもの。本来儂にとっては、宍戸の家の運命すら天命に委ねるべきものじゃ。元就が傑物なのは儂も認めるが、天下にはあの手の臥龍は無数に横たわっておる。天がそれらを篩に掛けるというのなら、儂はそれをただ眺めるのみじゃて」

 興仙はそう言って、それ以上隆家に何も言わせなかった。

「分かったら、早う去ね。儂がしてやれるのもここまでじゃ。もたもたしておっては、おぬしの命もままならぬぞ」

「……はっ」

 渋々了承した隆家は再び深く礼を述べ、踵を返す。

「……おお、そうじゃ」

 興仙は、去りかけた隆家の背中に声を掛ける。

「儂の不肖の弟子が一人、元就の世話になっておるはずじゃ。もし元就が生き残り再びおぬしと会うことができたなら、伝えておいてもらおう。そやつは方術は半人前じゃが、目端が利いて何かと役に立つ。好きなだけこき使うがよかろう、とな」

「……承知いたしました。もし再び見えること叶いましたら……」

 隆家はそう返しながらも、この絶望的な状況でそれが叶うとは思えなかった。

 しかし興仙はただ、笑みをたたえるのみであった。

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