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新宮党の一矢  作者: 次郎
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第四話.西国の覇者

 周防長門の山口を本拠地とする戦国大名、大内義隆は、長きに渡り同地に根を張る、大内氏の第三十一代当主である。

 大内氏は元々、地方で国司の補佐を行う在庁官人であったが、時代が進み国司の下向がなくなってくると、直接的な支配者として、徐々にその支配体制を確立していった。

 鎌倉幕府崩壊後、後醍醐天皇による建武の新政が行われると、ついに周防守護職に任じられ、名実ともに周防の支配者となった。

 その後に開かれた室町幕府は、三代将軍、足利義満の時代に南北朝が統一され、全盛期を迎えることとなるが、地方での守護大名の反乱や、幕府内の権力争いなどで徐々に衰退し、ついに管領家の家督争いに端を発する、応仁の乱が起こるに至った。

 そんな中、大内氏は、勢力の隆盛と衰退を繰り返しながらも、第三十代義興の頃になると、室町幕府の管領代にまで任じられ、将軍の後見人となり、絶大な権力を振るうようになった。

 その嫡男、義隆も、父の後を継ぐ形で、周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前の六カ国守護に任じられ、さらに従三位に昇叙されるなど、足利幕府のみならず朝廷からも高い位を得て、その名声は諸国にまで鳴り響いた。

 まさに大内氏は、西国の覇者であったのだ。

 その大内氏の本拠地山口は、その地形が京の都に似ていたことから、西の京を目指して造られ、大内氏の経済力を頼った文化人や、応仁の乱で荒廃した京から逃れてきた公家達が集まり、その栄華は義隆の代に最盛期を迎えていた。

 後に、大内文化と呼ばれる文化が、花開いていたのである。

 その大内氏の居館、山口館は、その大内文化の中心として恥じない、威風ある館であった。その北に築かれた別館である築山館は、さらに華美な装飾が施され、諸国からの賓客をもてなすための、外交の館であった。

 天文十一年(一五四二年)年初、その築山館の大広間には、大内家の重臣たちはもちろんのこと、新しく大内の傘下に入った国人衆も招かれて、評定が開かれていた。

「此度はまさに、尼子討伐の好機にございます」

 大広間にそう声を響かせたのは、譜代の重臣、陶隆房である。

 陶氏は大内氏の庶家で、代々その大内氏に仕えた、譜代の重臣の家柄であった。

 その当主、隆房は、この時二十二歳。眉目秀麗な若武者であった。

 隆房は、少年の頃から美男として知られ、義隆の寵童としても知られていた。義隆は若い頃から衆道に傾倒し、隆房はその一人であった。

 隆房が長じるにつれ、そういった関係は次第になくなり、今は主君と家臣の結びつきに変わっていたが、今も義隆が隆房を重用することに変わりはなかった。

「吉田郡山の敗戦で、尼子晴久の人望は地に落ちました。今まで尼子に従っていた国人衆も、その器量を疑い、次々に離反しております。さらにあの経久が死んだとなれば、これ程の好機はございません。

 今お屋形様が、大軍を率いて御出征なされば、出雲の国人衆は恐れおののき、尼子に与する者は誰もいなくなるでしょう。長年の尼子との因縁を断ち切るのは、まさに今、この時をおいて他にございません」

 武断派の筆頭である隆房の言葉は、威勢がいい。先年の、吉田郡山城の戦いの後詰も、総大将は隆房であった。若くして大内軍の中核にいる隆房には、言葉の端にも自信があふれていた。

 その隆房の言葉に、大広間の上段の間に座る大内家当主、大内義隆は、大きく頷いた。お屋形様とは、義隆のことに他ならない。

 金泥の襖に囲まれ、華美な着物に包まれた義隆からは、武士というより、公家のような雰囲気が漂っていた。その姿はそのまま、山口の文化を体現しているといっていい。 

 評定はこの日まで何度も重ねられていたが、義隆の心は、すでに出征に大きく傾いていた。しかし、この日まで最終的な決定がなされなかったのは、大内の家臣団を二分する文治派の筆頭、相良武任の強硬な反対があったからである。

 隆房の発言を受けた義隆は、その武任に発言を促す。

 義隆の前に進み出て平伏した武任は、ゆっくりと面を上げ、義隆を見つめる。

「尼子を甘くみてはなりません。晴久は毛利攻めには失敗しましたが、それまでは播磨方面にまで進出し、勢力を広げることに成功しております。

 また、安芸や石見にはまだまだ尼子に組する勢力も多く、特に石見の尼子は、精強であります。我らが出征中、この敵が南下してくれば、退路を断たれる恐れもございましょう。

 さらに精鋭、新宮党も、先年の敗走で党首久幸を失ったにもかかわらず、今は国久を中心にして、より戦力を増していると聞いております。これとまともに当たるのは、得策とは申せません」

「泣く子も黙る、新宮党か」

 義隆は、苦虫を嚙み潰したような表情で呟いた。

 新宮党の勇名は、天下の誰もが知るところであった。これとまともに戦うべきでないという武任の主張は、衆目の一致するところであろう。

「武任、ならばそなたは此度、どうせよと申すか」

「当面は出征して戦うより、新しく傘下に入った国人衆の方々とともに他の国人を調略し、それらを厚く遇し、出雲にくさびを打っておくことが肝要かと存じます。その上で、出雲の背後の諸勢力と連携して、出雲を取り囲みつつ徐々にその威勢を削いでいけば、自ずと向こうから首を垂れて参りましょう。今はまだ、武を用いる時ではないと存じます」

 出雲の東、因幡や播磨の諸勢力が、晴久の侵攻を苦々しく思っていたのは、いうまでもない。敵の多い晴久をじっくり攻めるという武任の戦略も、理にかなっていた。

 この武断派と文治派の主張は、ほぼこれまでと同じであった。しかし今回の評定は、またそれらとは異なった立場の者達が、大広間に座している。

「……吉川興経、そなたの意見はどうか?」

 義隆に直接問いかけられた興経は、武任と入れ替わるようにして、その面前に座した。

「尼子の隆盛は、ひとえに経久の信望によるものでございます。晴久は、当主の器にあらず、家臣の中からも、その器量を危ぶむ声が聞こえる有様です。某も晴久に会ったことがございますが、経久には全てにおいて、到底及びませぬ。今、態度を決めかねている国人衆も、お屋形様御出陣の一報を聞けば、雪崩を打ってはせ参じるものと心得まする。

 此度、某とともに参りました三刀屋や本城は、出雲の地理に詳しく、尼子の本拠地戸田までは、無人の野を行くが如くでございましょう。もし某に先鋒をお申し付けくだされば、必ず晴久を討ち取ってご覧に入れまする」

 興経は、音に聞こえた猛将である。特に弓の腕前は抜群で、かつての剛勇、源為朝になぞらえて「今鎮西」と呼ばれたほどであった。

 そんな興経の勇ましい発言に、義隆は出征の思いを一層強くした。

 さらに興経は、こんな事も口にした。

「某は、先代義興公に御名を賜り、ひとかたならぬ恩義を頂きましたが、此度、久方振りに山口を見るに、今のお屋形様の治世は、かつての義興公を超えるやも知れませんな。経久の足元にも及ばぬ晴久とは、まさに雲泥の差でございましょう」

 その興経の言葉は、義隆の自尊心をくすぐった。

 尼子討伐は、かつて足利義稙を奉じて京に上り、天下人とも称された父、義興にも成し遂げられなかった功績である。山口にいる公卿から、父の偉業を聞かされていた義隆からすれば、これほどの好機はない。文化だけでなく、武名で諸国に名を轟かし、父を超える時がきたのだ。

 その後も大内に鞍替えした国人衆から、義隆の出征を願う懇願がなされた。

 それらの意見によって、義隆だけでなく、評定全体においても、出征の武断派が優勢となった。文治派からは、反対の意見が出されたが、義隆の決意を覆すには至らなかった。それ程に、興経ら国人衆の発言は、義隆の心を掴んだのだ。

「……そろそろ意見も出尽くしたであろう。皆の者、余は決めたぞ」

 義隆は、大広間の一同を見渡す。

「出雲に、出征することとする。かつてこれ程までに、尼子の力が弱まったことはない。これは天が与え給うた、千載一遇の好機である。彼奴等はかねて、出雲の杵築大社に圧力をかけて、意のままにしているという。尼子は、神々に見放されたのだ。余は、必ず尼子を討伐する。各々これより準備にかかれ」

「お待ち下され、お屋形様。今一度、御再考を……」

 そう言って、相良武任が再び進み出ようとする。

「控えよ、相良殿」

 陶隆房の鋭い声が、武任を制した。その瞳は、憎悪に燃えている。

「お屋形様が裁可なさったのだ。貴殿が何の口を差し挟むか」

 隆房は昔から、何かと賢しげに口を挟んでくる武任が気に入らない。

 名門陶家の当主である隆房は、義隆の寵愛だけで右筆からのし上がってきた、その武任の経歴も気に入らなかった。大内家の大事を、この男とは語れないと思っていたのだ。

「……武任、そなたが余を思う忠心から、反対していることは分かっておる。しかし此度の出征は、もう決めたことだ。今後、士気を削ぐ反対論はならん。よいな」

 幾分かやわらかく、義隆が武任を制した。

 義隆にそう言われては、武任ももう何も言えなかった。

 この時、大内の尼子征伐が決まったのである。


 評定が終わった後、陶隆房は、大広間から退出する人々の中で、末席に座っていた馴染みの男に声を掛けた。

「やあ隆元、久しいな。息災であったか」

「これは隆房様、お久しゅうございます」

 そう笑顔を見せたのは、毛利元就の嫡男、隆元であった。

 この若き毛利の跡取りは、この評定には父の代理として、吉田郡山からやって来ていた。隣にはその家臣、赤川元保がいる。

 隆元は元々、人質としてこの山口に滞在していた。その間、義隆を烏帽子親として元服し、一字を賜って、隆元と名乗った。隆房とは歳も近く、その時代は深い親交もあった。

「評定の結果は、見ての通りだ。元就殿にも、ご承知おき願いたい」

 実は隆房は、事前に書状を送り、尼子攻めの賛否を元就に尋ねていた。

 もし出征に賛成ならば、評定でともに義隆を説得しようと考えていたのだ。元就は歴戦の古強者であり、義隆の信頼も厚い。隆房も武人として、尊敬する部分が大いにあった。何としてでも、その賛意は欲しかった。

 しかし、その返答の書状は、曖昧であった。

 言葉を濁してはいたが、どうやら元就は乗り気ではないらしい。そうなると、隆房としては評定に来てもらっては困る。義隆は必ず、元就に意見を求める。その時、武任と同じく反対されては困るからだ。

 元就もそんな隆房の気持ちを察したのか、何も言わずに評定に隆元を寄越してきた。評定の決定に従う、ということであろう。

「隆元、此度は大戦になろう。毛利の働き、期待しておるぞ」

「はっ」

 頭を下げる隆元を見て、隆房は満足げな表情を浮かべる。

 尼子討伐が成れば、大内に再びの上洛の機会が巡ってくる。これは、その第一歩であった。


 同じ頃、評定が終わって築山館を出た二人の男が、声を潜めて話していた。

「……しかし、驚いたぞ、興経殿。おぬしの口から、あのようにすらすらと言葉が

出ようとは……」

 そう言ったのは、今回大内に鞍替えした国人領主、本城常光である。先程の興経の姿は、常光の知る、平素の興経ではなかった。

「なんだ、その言い方は。俺がただの、猪武者だと言いたいのか」

「そうであろうが」

「まあ、そうだが」

 興経は、特に気にする様子はない。自覚があるからだ。

「俺は、経久公の書状通りに言っただけだ。しかし、うまくいったな」

 武勇しか取り柄のないこの男としては、上出来であろう。興経は振り返り、今しがた出てきた築山館を眺めた。

「それにしても、大内義隆はあんなものか。まったく、感じるものがなかった。初めて経久公に会った時は、震えが止まらなかったものだが」

「経久公と比べるのは、酷というものだ。山口をここまでにしただけでも、大したものだろう」

 義隆を褒める常光に、興経は鼻を鳴らして笑う。

「何が大したものか。こんな偽物の都が何になるのだ。大体、俺は文化とかいうものが、嫌いなのだ。義隆とはとても、そりが合いそうにない。その点はやはり、経久公だな」

 そう言った興経は、築山館を一瞥してから、常光とともに館を後にした。

 興経は本当に、経久が生きていると信じていたのである。

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