第四十七話.哀れ、貴公子晴持
海路で撤退する晴持は、細川是久や福島親弘といった直臣に護られながら、船の浮かぶ中海に向かって逃げていた。
直臣といっても、その数は少ない。一塊になって退却する軍勢の中心に晴持がおり、周囲にはその直臣を圧倒的に上回る石見兵がいた。
「……何やら、目つきの悪い奴らじゃのう」
輿に乗った晴持は、思わずそう口にした。現在の己を取り巻く環境など、この貴公子に分かるべくもないが、その兵たちの忠義のない眼差しは、晴持にも何となく感じられた。
結局のところ、国人衆の大半にとってこの戦は駆り出された戦に過ぎない。大内か尼子か、どちらかにつかねば生きてはいけず、そうなればその命には抗えなかった。彼らは、自らの望まない戦で死地にいる。そんな兵たちが晴持に不遜な視線を向けることは、その状況からは当然と言えた。
その晴持の近くで、不満げな表情で馬を走らせる男がいる。
(これはやはり、理不尽ではないか)
この男、名を敷地持秀という。幼い頃から晴持の筆頭近習として仕え、主君と共に一条家からやってきたこの男は、晴持にもっとも長く仕えている者でもあった。
(お屋形様も、酷なことをなされる。御自分が生きのびることができればそれでよいのか)
話を聞かされていないこの持秀にも、海路勢の異様さは察せられた。
しかしその行儀の悪い兵たちの眼差しの向こうに、隆房の意思があることには気がついていなかった。彼の目にはただ、義隆の非情としか映っていなかったのだ。
「若君、もう間もなく中海でございます。今少しの御辛抱ですぞ!」
輿と並走する福島親弘が、晴持に声を掛ける。
「うむ。ようやっとこの出雲からもおさらばじゃ。山口に帰ったら、思う存分好きなことをやるぞ」
「それはようございます。某も、連歌のお相手をさせていただきまする」
親弘は、引きつった笑いを浮かべてそう答えた。この親弘も、自らの運命は悟っている。死後の子孫の栄達と義隆への忠義が絡み合い、彼らの精神を辛うじて支えていた。
細川是久や福島親弘といえば、それなりに名の知れた大内家臣である。それがこの少数の手勢しか連れていないのだから、もはやその名も晴持の運命に箔をつけるためのようなものでしかない。
「持秀も付き合えよ。たまには余の自慢の笛を、そなたにも吹かせてやろう。京の名人を招いての酒宴といこうぞ。ああ、楽しみじゃ」
今からそう愉悦の表情を浮かべる晴持が、持秀は途端に哀れに思えてきた。幼い頃からその我がままに閉口させられることも多かったが、苦楽を共にしてきた主君に違いはない。
しかし哀れなのは、この持秀も同様であった。幼い頃から晴持に仕えてきた持秀は、そのお守をするしか生き方をしらない。一緒に死んでやることしか、この男にはできなかった。
やがて林を抜けると、月夜に浮かびあがる中海が見えてきた。
「若君、海が見えてきましたぞ!」
「おお、やっとか!」
中海を指さす親弘に、晴持は感嘆の声を上げた。月夜に照らされる親弘の顔も、逃げのびる可能性が増したことに上気する。
しかしその希望は、一瞬にしてかき消えた。
刹那、空気を切り裂く矢音の激しいいななきが、晴持主従を襲う。笑みを浮かべたままの親弘の頬に、鈍い音を響かせて無情の矢が突き刺さった。射貫かれた衝撃で、その首がくの字に曲がる。
「え……」
半ば自らの顔を貫通した矢に手をかけた親弘は、そのまま白目を剥き馬上から人形のように崩れ落ちて、地面を転がった。
「う……うわ、うわー!」
その親弘の死に様に、半狂乱になった晴持が叫ぶ。すでに間近に迫った尼子清久の軍勢から、続けざまに矢が飛んでくる。
「皆の者、若君をお守りせよ!」
兵を指揮する細川是久が、大音声で叱咤した。しかし軍勢の大半を構成する石見勢の動きは鈍く、おろおろするばかりである。
晴持の輿にも、無数の矢が襲い掛かった。
「若、こちらへ!」
輿の持ち手が矢に倒れたことを見た持秀が、晴持に手を伸ばす。晴持はその腕にしがみつき、持秀の馬に移った。
持秀は力の限り馬を叱咤し、一心不乱に駆けさせた。やがて中海に浮かぶ、大きな軍船の姿が見えてきた。
岸にはすでに、軍船に移るための小舟が用意されていた。
軍船は岸に限りなく近づいていたが、それでも晴持が泳いでいける距離ではない。
何よりも海は大きく荒れてた。持秀は鎧を着けたままの晴持の手を引いて小舟に乗せ、自らは鎧を脱いで海に入った。
「細川様も、お早く!」
「儂は良い。いけ、持秀! 若君を頼む!」
どうやら細川是久は、ここを死地と定めたようであった。隣で槍を振るう右田弥四郎と目を合わせ、名乗りを上げて敵陣に突入していった。
持秀は岸から小舟を押し、そのまま海中に入って動力となった。船の上で、晴持は手を合わせる。
「細川、福島、右田……そなたらの忠義、忘れはせぬぞ」
「よくぞ、申された。方々も喜んでおりましょうぞ!」
晴持の口から出た言葉は、持秀にとっても意外なものであった。この窮地にあって、彼の中で何かが変わりつつあるのかも知れない。
小舟はすぐに軍船に到着し、横づけされて晴持が移った。遅れて何艘かの小舟も到着し、近習ら直臣も軍船に移る。
「船を出せ!」
船上に上がった持秀が船長に叫んだが、その瞬間大きく船が揺れた。
見ると、船の右舷に多数の石見兵がしがみついていた。岸から尼子勢に追い立てられ泳いできた彼らは何とか船によじ登り、目の前の死から逃れようとしていた。
「た、助けてくれ!」
「貴様ら、手を放せ! この船は若君のための船ぞ!」
「持秀、乗せてやってはどうか。この者たちも人間、誰しも死にたくはなかろう」
晴持のその言葉に、持秀は自然と目頭が熱くなった。船べりから次から次へと、甲板に石見兵が上がってくる。
しかし、あまりにもその数は多すぎた。
あっという間に軍船はすし詰めとなり、座る間もなくなった。堪らず船長が持秀に泣きつく。
「これ以上は無理にございます。沈んでしまいますぞ」
「ちっ、ここまでじゃ! 手を放せ!」
持秀は再び叫んだが、石見兵は止まる様子もなく、続けざまによじ登ってくる。ただでさえ風は強く波は高い。さらに船が大きく揺れた。
「やむを得ぬ、やれ!」
刀を持った持秀が、他の近習に叫んだ。鞘ですがりつく者たちの腕を叩き、海中に落としていく。
この行為に、船べりにしがみつく者たちは激高した。
そもそも大内に対する忠誠などない者たちである。怨嗟の声を上げ、船を大きく揺らし始めた。
「おい! やめぬか!」
大声で叫ぶ持秀の隣で、晴持は震えるばかりであった。
(こんなはずでは……こんなはずではなかったのに……!)
晴持は、生まれ故郷の土佐中村を思い出していた。
土佐の盟主、一条房冬の次男として生まれた彼には、二つ年上の兄がいた。知勇兼備で名高い現当主、一条房基である。
この房基は幼い頃から才気煥発で、晴持は何かとこの出来の良い兄と比べられることが多かった。
晴持も文事に関しては非凡なものを持っていたが、房基は全てにおいてその上をいく器量を備えていた。加えて母親である正室の玉姫は、皇族である伏見宮の姫であり、大内義興の娘と言えども側室である晴持の母とは、大きな差があった。
そんな周囲の目に嫌気が差した晴持は、次第に遊興にふけるようになり、父の房冬もこの次男に期待することをしなくなった。いつしか家中の誰も、腐った晴持を顧みる者はいなくなった。
しかし、転機は突然訪れた。
母の弟にあたるあの大内義隆から、養子縁組の話が舞い込んできたのである。
大内と言えば、西国の覇者とも言える大大名である。対して土佐一条氏は五摂家の一つ、一条家の庶流で名門ではあったが、天下をうかがえるような勢力を有しているわけではない。
晴持は父と兄、そして家臣らを見返す最高の好機を得た。いずれは彼らを従えることを夢見て、意気揚々と大内に乗り込んだのである。
「船長、構わんから沖に出せ。振り落とすのだ!」
持秀の指示に従い、船は強引に沖に向かって進み始めた。しかし沖に出ても、しがみついた石見兵は手を離すことはなかった。ここで手を離せば溺れ死ぬことは目に見えているのだから、むしろ当然であると言える。
ここで先に乗船していた石見兵が、すがりつく者たちを助けようと手を伸ばし始めた。右舷に人が集まり、船が大きく傾く。
我慢できなくなった晴持の近習の一人が、ついに刀を抜いた。
「やめよ!斬ってはならぬ!」
持秀の制止もむなしく、近習はすがりつく石見兵の腕を斬り落とした。片腕を失った石見兵はもんどりうって海に落ち、あっという間に沈んでいく。
海中に沈む同胞を唖然とした表情で見ていた者たちは、憎悪の表情で再び船を揺らし始めた。船上でも揉み合いが起こり、船の傾きは限界に達した。
「ち、父上! お助けを!」
晴持が船上を滑りながらそう叫んだ時、船は水飛沫を上げついに転覆した。船上の者たちは海に投げ出され、阿鼻叫喚が闇夜に響く。
「ぷは! だ、誰か! ぶは!」
真っ暗闇な海に落ちた晴持は、周囲の状況も分からずに必死にもがいた。しかし土佐でも周防でも貴公子として育てられた晴持が、達者に泳げるわけがない。その上、誰よりも豪華な晴持の鎧は誰よりも重かった。
「若! いずこに! 晴持様!」
唯一、鎧を脱いで身軽であった持秀は目を凝らして主君の姿を探したが、暗い海に激しい水飛沫が広がるのみで、その姿を見つけることができない。
薄れゆく意識の中で晴持は、自らを包む義隆の大きな手を思い出していた。
まるで宝物を愛でるようなその手が、初めは好きではなかったが、それにも次第に慣れていった。王の機嫌を損ねないことが、彼のすべてになっていったのだ。
海中に涙を流す晴持は、その腕を求めて暗闇をもがいた。
暗闇の中で、投げ出されたすべての者が恐慌状態に陥っていた。近習の者たちも誰一人として主君がどこにいるかわからず、晴持は石見兵に揉みくちゃにされながら海中に沈んでいった。
晴持を追っていた冷泉隆豊は、西回りで中海に向っていたが、立原幸隆率いる尼子勢に遭遇し、その追撃を受けていた。
主力を本隊に預けていた隆豊らは小勢であり、尼子勢の執拗な追撃を迂回しながらかわすことに、時を費やさざるを得なかった。隆豊らが身を潜めて中海に到着した頃には、もう夜明けが近づいていた。
「船はもうないようですが……無事出航したのでしょうか?」
平賀清恒がそう言って、わずかに灰色に変わりつつある中海の砂浜に目を凝らす。
「……いや、よく見てみよ」
隆豊が指さした先には、雑木林があった。その砂浜に近い雑木林には松明が揺らめき、尼子の宗家とも新宮党とも違う、四つ目結の旗が揺らめいていた。
「殿……敵が船で追撃せず、あそこに留まっているということは……」
「……」
清恒の問いに隆豊は答えなかった。ざわざわと嫌な予感だけが、その脳裏を掠める。
どうやら尼子勢は、夜明けを待っているようであった。明るくなってから砂浜を探索するつもりなのだろう。
隆豊らは尼子勢に気づかれぬように距離を取り、海に近づいた。
荒れた海は、何度も大きい波を浜に打ちつけていた。薄暗い砂浜は濡れて不気味に光り、隆豊の不安を一層強くする。
尼子勢を避けるように西側に進むと、うっすらと遠く砂浜に黒い影がいくつも転がっていた。まだ暗い砂浜を、無言で駆け抜ける。
駆け寄った隆豊らの眼前に転がっていたのは、想像していた通り最悪の光景であった。溺死した無数の大内兵が、木片と共に砂浜に打ち上げられていたのだ。
「……皆、溺れ死んでおるようです」
しばらく絶句していた隆豊は、首を振って亡骸を調べ始めた。彼らは海流に巻き込まれたのか、鎧や着物がはぎ取られた者もあった。
「……獰猛な野犬が近くにおるやもしれぬ。気をつけよ」
近くの亡骸の間近でしゃがんだ隆豊が、そう呟いた。その死体の顔面は、獣にやられたように激しく損傷していた。
「殿、あれを!」
生き残りがいないかと目を凝らして進んでいた清恒が、隆豊に鋭い声をかける。その視線の先には、数人のうごめく影が何かに群がっていた。
「犬畜生ではない。人間か」
すわ尼子勢か、と刀に手をかけた隆豊らがわずかににじり寄ると、その気配に気づいた影たちが振り向いた。
そのやせこけた男たちは隆豊らを確認すると、怯えた表情で悲鳴を上げた。隆豊らが抜刀すると戦う素振りも見せず、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「どうやら、落ち武者狩りの類のようですな。強い者には手を出せぬ、弱い連中でござるよ」
清恒は刀を鞘に納めながらそう呟いた。おそらく付近の村々にも大内敗走の報は伝わっているのだろう。
落ち武者狩りは、大半が農民で構成される自衛的な存在であったが、専業的にこれを行う集団もあり、敗残兵にとってはきわめて危険な存在である。ただ清恒も、かつて信濃から落ち延びる際に散々これと遭遇しており、それを切り抜けてきた自信があった。
「野伏せりか。下劣な奴らめが」
舌打ちした隆豊は、彼らが群がっていたものを凝視した。その薄い暗闇に横たわるぼんやりとした白いものは、ぞくりと彼の心胆を寒からしめた。
頬を震わす隆豊は、ふらふらとそれに近づく。
それは鎧も着物をはがされた、全裸の骸であった。周りの死体と違う日焼けしていないその肌に、隆豊は心当たりがあった。
「ああ……若君……晴持様!」
駆け寄った隆豊は、その遺体を愛おしそうに抱きかかえる。その誰よりも豪華な鎧と着物は、すべて落ち武者狩りにはぎ取られていた。
抱え上げた晴持の傷だらけの死に顔は、苦悶の表情のまま固まっていた。喉には激しくかきむしった痕が残り、うっすらと開かれた目は濁ってこの世の何も映してはいない。
「あの気品にあふれた若君が、このようなお姿に……」
隆豊は泣いた。今やただの肉塊と化していた晴持は、生前煌びやかで美しかっただけに、より一層哀れであった。
しばらく亡骸を抱きしめていた隆豊は、涙を隠すことなく顔を上げた。
「……清恒」
「はっ」
「もし陶が、ここまでしてお屋形様を山口まで逃がすことができなければ……儂は陶を斬る。内藤も杉も斬る。そしてその首を、この晴持公の墓前に添えてくれるわ。必ずな……」
隆豊は念仏を唱えながら、何度も晴持の顔を撫でた。強張っていた表情は次第にほぐれて穏やかな表情になったが、その濁った目を決して閉じることはなかった。
その仏の肖像のような美しい表情は、隆豊にはせめてもの救いのように思えた。




