第四十六話.新宮谷の郷愁
「いやぁ、敬久殿、久しいな。息災であったか」
久々にあった清久は、満面の笑みで敬久の手を取る。この従兄弟は、一人で敬久の陣中にやってきた。
「……お久しゅうござる」
いきなりの清久の馴れ馴れしさに、さすがの敬久も困惑した。
もちろん一門衆で集まることがあれば顔を会わすことはあったが、このように直接話すことは滅多になかった。長じてからは、初めてかも知れない。
「近頃は中々親しく交わることもなかったが、子供の頃はよく新宮谷に行って共に夕暮れまで遊んだものだ。いや、本当に懐かしい」
そう目を細める清久の表情は、心の底からそう感じているように見えた。
確かにそう言われれば、敬久にも色褪せた思い出がないわけではない。新宮党三兄弟と晴久、そして清久の姿と新宮谷の夕暮れの情景が、うっすらと脳裏によみがえる。
「ところで、伯父上はどこにおられるのかな? 誠久殿や豊久殿の姿も見えぬようだが……」
ひと通り敬久と言葉を交わした清久は、周囲を見渡しながらそう言う。
「ここには、私しかおりませぬ。兄は前備えですでに揖屋に入っております。父は後備えで後方に、豊久兄は、此度の追撃には参加しておりませぬ」
すらすらと答える敬久に、隣の広国はわずかに顔をしかめたが、敬久は気づかない。
「おお……それは残念至極。久方振りにお会いしたかったのだが……」
清久は、さも残念そうに呟く。しかしその姿は、胸を撫で下ろしているようにも見えた。誠久や豊久が清久を快く思っているはずがなく、それは清久も同様だろう。
「ならば揖屋に入った主力を率いているのは、誠久殿か。我が手勢は残念ながら間に合わなくてな……」
「そうですか……」
「で、敬久殿。大内が今、どこを逃げているか知っておるか?」
「我々は前備えの主力に追いつくために、進軍を急いでおりました。残念ながら、大内の動きはまだ掴んでおりませぬ」
敬久は、秀水から聞いた大内勢が陸と海に分かれて撤退していることを口にしなかった。清久の真意が掴めなかったからである。一応、敬久なりに警戒していたのだ。
「おいおい、敬久殿。ここまで来てまだ、大内の動きを掴んでおらんのか。物見や間者を放っておれば、粗方のことは分かるだろう?」
清久はそう言って、敬久の甲冑を軽く小突く。
「はあ……」
「某の手の者が得た話では、大内はどうやら陸路と海路に分かれて撤退しているようだ。揖屋に集結する我らが主力は、陸路を追撃するようだな」
「ほう、陸路を……」
敬久は顎に手をやり、初めて聞く素振りを見せる。
「ということは……大内義隆は陸路に?」
「そう考えて間違いなかろうな」
清久がゆっくりと頷く。ここまでのところ、虚報で敬久を偽るつもりはないようだった。
「では海路は?」
「……海路の敵勢は数が少な過ぎる。おそらくは陽動であろうな。で、敬久殿。ここからどうなさるおつもりか?」
清久は、探る様に言葉を繋ぐ。
「どうと言われましても……単独で動くことは考えておりませぬ。兄が陸路を追撃しているのなら、それに合流いたします」
「ふむ、そうか……まあ、そうであろうな。では某は、海路に行くとしようか」
その清久の言葉に、敬久は内心胸を撫で下ろした。誠久と清久が顔を合わせれば、いらぬ諍いを起こすのではないかといった予感があったからだ。
「それでは某はここで失礼するとしよう。のんびりして大内を逃がしては、元も子もないからな。誠久殿にはよろしくお伝え願いたい。お互い、晴久公に捧げる良い武勲を上げたいものよな」
「は、ご武運を……」
清久は頭を下げる敬久を見て、去りかけた足を止める。
「敬久殿……彼を知り己を知れば、百戦して殆からず、という。戦に臨んでは、今少し間者を使って探りを入れてはどうかな。さすれば万一自分が間者に探られていたとしても、それにいち早く気づくこともできよう」
「御忠告、痛み入りまする」
敬久はそう言って、再び頭を下げた。しかし彼が顔を上げた時には、すでに清久の姿はなかった。
程なくして揖屋に入った敬久の軍勢に、迫ってくる小勢があった。
誠久の配下、三十騎衆の吉田忠国である。
「げぇ……兄上」
忠国の姿を見た広国が、思わず声に出す。
「何がげぇ、だ。遅かったではないか」
忠国が広国に詰め寄ろうとするのを見て、敬久が事情を説明しようと口を開く。
「忠国、今そこで清久殿に会ったのだ。それで少し遅れた。兄上はもう出陣なされたのか?」
「……清久様? お会いになったのですか?」
忠国が訝しげな視線を向ける。
「先程、中海に向かわれた。海路の大内勢を追撃するつもりらしい」
「行かせたのですか?」
「……行かせたが?」
「それは何とも……よろしくありませんな」
そう言った忠国は、渋い表情のまま誠久からの指示を敬久に伝えた。途端に青ざめた敬久の額に、冷や汗が流れる。
忠国は、その隣で頭を掻く広国に視線を向けた。
「広国、お前が付いていながらこの様は何だ」
問答無用で顔面を殴りにかかる忠国の拳を、広国は紙一重で避ける。
「いやいや、兄上……」
「なぜ避ける?」
「考えてみて下さい。ここが戦場なら、飛んでくるものは槍でも矢でも避けねば死にます。某も武士の端くれでございますれば……」
「妙な屁理屈をこねるな。取りあえず殴られろ」
「それは、あまりにも理不尽ではありませんか。これはただの行き違いというやつでござる。敬久様も某も、その御指図を聞いたのは今しがたですぞ」
「ならば、誠久様の前でそれを言ってみるか?」
忠国の言葉に、広国は沈黙した。たとえ理不尽であっても、誠久の言葉は絶対なのだ。
「……忠国、私は今から清久殿を追う」
敬久は青ざめた表情のまま、そう呟く。
「追ってどうされる?」
「追い抜いて、逃げる晴持を討つ。今ならまだ間に合うかも知れぬ」
「……それはやめておいた方がよろしいでしょう」
忠国はゆっくりと頭を振った。
「何故か?」
「清久様の狙いが分かりませぬ。もし裏切りの心があって晴持の合力にきたのなら、敵の軍勢はこちらの数を上回ることになりましょう。挟撃されるようなことになれば、命を落とすことにもなりかねませんぞ」
「しかし……兄上の御指図に背くわけにはいかぬ。命をかけてでも、晴持の首取らねば……」
繰り返す敬久に、忠国は諭すように言う。
「こうなってしまった以上は、致し方ございますまい。御身とその軍勢を死なすわけには参りませぬ。誠久様にはありのままご報告なされませ。ある程度のお叱りは御覚悟いただく。ただ……」
忠国はそう言って、広国を睨みつけた。
「某の拳を避けたこの不肖の弟が、すべての責を負いまする。誠久様と合流いたしましょう」
「やはりそうなりますか……」
広国は目を瞬かせ、天を仰ぐ。兄の言葉はこの男の予想通りであった。
「何、心配めさるな。誠久様も、弟君を殴り殺すようなことはなさいますまい。まあ、加減の保証は致しかねますが」
尚も不安そうな敬久に、忠国はそう言って笑った。
「急げ、急げ! 大内勢は目の前ぞ!」
敬久らの軍勢と別れた清久は、兵を鼓舞しながら中海への道を駆けていた。
その瞳はぎらぎらと輝き、血に飢えた獣のようであった。その隣に、重臣の加藤久通が馬を寄せてくる。
「うまくいきましたな」
「ふん……敬久が情報に疎いのか、新宮党が疎いのか。丸腰の晴持が海路にいることに気づいておらんとはな」
嘲笑する清久は、晴持が海路を逃走していることをすでに掴んでいた。あっさり海路を譲ったあたり、敬久はやはりそのことを知らないのだろう。
主従はゆっくりと、馬の足を止めた。
「馬鹿な奴だ。みすみす大将首を逃すとはな」
「で、如何なさるおつもりですか? 晴持を助けて義隆に恩を売るか、首を取って晴久様に差し出すか……」
「大内はもうお終いだ。義隆にしても、無事山口に帰れるとは思えん。晴持の首を武勲にするしかあるまい」
清久は、大内が出雲から撤退すると確信した時点で、すでにこれを見限っていた。沈みゆく泥船に乗るつもりはない。
「しかし、大内も情けない。あれだけの軍勢がありながら負けるとは……俺も危うく道を誤るところであったわ」
「確かに無駄骨にはなりましたが……」
「実際に会って分かった。義隆は天下を静謐する器ではない。公家のようにしなを作ってぼんやりと上座に座り、血の匂いを嫌う。儂の言う事にも耳を貸さず、その濁った眼はものの真偽すらつかぬ。あれでは出雲平定など、夢のまた夢よ」
清久は裏切ろうとしていた自らを棚に上げ、義隆を罵った。そこにはぬか喜びをさせられた、手前勝手な怒りがあった。
「しかし大内が衰退するとなれば……これから如何いたしましょうか?」
「……また地道に、一門での地位を上げるしかあるまい。そのためにも、晴持を討ち取る武勲は上げておきたい。新宮党の上をいっておけば、必ず好機はやってくるだろう」
「と、仰いますと?」
「晴久にはまだ、幼い長童子しか子がおらん。もし晴久に変事があった時、一門の地位を上げておけば……」
変事とはもちろん、晴久の死にほかならない。一門衆筆頭として幼い跡継ぎの後見人に収まれば、思うがままである。
「それは確かに……しかし、晴久様が殿を重用なさいましょうか?」
「晴久は新宮党を警戒している。牽制する意味で、必ず俺の地位を上げてくるだろう。そのためには何としても、晴持の首が要る」
「一門での地位を上げるのはよろしゅうございましょう。しかし……」
「しかし、何だ?」
清久は、久通の歯切れの悪い言葉に苛立った声を上げる。
「……此度、大内の侵攻が失敗したのは天命でございましょう。これを機に、危ない橋を渡るのはおやめ下され。これは神妙に奉公せよとの、天に御座す経久公の天啓ではありませぬか?」
「ちっ、貴様はまたそれか」
清久は舌打ちして、うんざりした表情を浮かべた。この清久に仕える筆頭家老の加藤久通は、かねてより事あるごとに清久の野望を諫めていたのだ。
「父の代から仕える貴様も分かっておろう。晴久は、尼子の正統な血を継いでおらん。此度、大内を利用して晴久を排することは失敗したが、いずれ好機は巡ってくる。その時は必ず……」
「晴久様の血統についても、もはやそれを立証する術はございませぬ。そして出雲の誰もが、それを疑ってはおらぬのです。その体制を揺るがすことは、容易ではありますまい」
「父上がそう言っておった。それ以上の証拠があるものか!」
清久は、堪らず大声で叫ぶ。それはこの男の、生きる意味のすべてであった。
「重ねて申し上げます。殿は興久公の遺領の相続も許され、尼子一門衆の重要な地位にもおられまする。それでよいではありませんか。後を継がれる彦四郎様も、御立派に成長しておられる。この御子息を大事とお思いならば、要らざる野心より神妙な御奉公を……」
「黙れ! 要らざるとは何事か!」
「ははっ、ご無礼を。しかし……」
「もうよい、喋るな」
清久は手を上げて久通を制した。しばしの沈黙が流れる。
「……とにかく、晴持じゃ。彼奴を討ち取り、我が名を天下に鳴り響かせてくれる。新宮党に遅れはとらぬ。誠久にも豊久にもな」
幾分冷静になってそう言った清久は、不意に顔をしかめた。
「……嫌なことを思い出した」
「嫌なこと、でございますか?」
「子供の頃、よく新宮谷に父上と一緒に遊びにいった。誠久は子供の頃から乱暴者で、豊久はいたずらばかり。幼かった敬久はいつもぼんやりしておった。まあそれは今と変わらぬようだが」
清久は、雄大な新宮谷の情景を思い出した。敬久に語った話は、嘘ではなかった。
「あまりに敬久がぼんやりしていたので、いい加減腹が立ってな。ある時、二人きりになったのを見計らって頭を殴りつけてやったのだ。泣き出しそうになったので泣くなと脅しつけたら、無言のままぼろぼろと涙をこぼしておった」
「それはまた、ひどい子供ですな」
「子供のやることだ、そんなものだろう。しかしそこからが地獄だった。どうやって気づいたのか、誠久が飛んできたのだ」
「なんとそれは……たとえ子供であっても、あの御仁が飛んでくれば恐ろしいでしょうな」
久通は脳裏に誠久の姿を思い浮かべて笑ったが、子供の頃の姿はうまく想像できない。
「笑うなよ。本当に死にかかったのだ。父上と伯父上が止めに入らねば、殴り殺されておったやも知れぬ」
清久はそう言いながら、激しい郷愁に駆られた。
「それも今となっては……楽しい思い出ですかな?」
「さあな、そんな風に考えたこともない」
清久はそう言ったが、わずかに頬を緩めた。
「しかし……晴久様とも思い出はございましょう」
「久通、もう言うな。詮無きことよ」
久通から目を逸らした清久は、背を向けて月夜を見上げた。
「もし父上が死んでおらねば……」
清久は小さくそう呟くと、無言で馬の尻を叩いた。
馬は前足を上げていななき、追撃を再開した。




