第四十三話.ただ、戦功を
大内勢が立て籠もる京羅木山をもっとも近くで監視していたのは、尼子の重臣、大西十兵衛高由であった。高由は黒々とした髭で覆われた顎を撫でながら、京羅木山を凝視する。
「かまどの煙が多いな。大内は動くぞ」
「動く、とは?」
「撤退に決まっておろう」
高由の言う通り、京羅木山から立ち昇る炊事の煙は、ここ数日中で一番多く見えた。大規模な軍事行動の前に兵の胃の腑を満たすことは、当然のことであろう。
「しかし、あまりにあからさまでは……我らに感づかれぬように退くのでは?」
「あの大軍だ。大内も秘密裏に撤退ができると思ってはおるまい。押し通るつもりであろうよ」
あれほどの大軍での撤退など、出雲においても前例はない。追撃を失敗すれば息を吹き返す可能性のある、危険な軍勢である。
「直ちに晴久様と、新宮谷の国久様に使いを出せ。大内に撤退の動きあり、とな」
「はっ……新宮谷にもでございますか?」
「此度の戦は、新宮党が采配を取る。晴久様の命であるぞ」
「心得ました」
伝令に走る家臣を見送り、高由は腕組みした。
「久方振りに、誠久様と轡を並べるか。楽しみだ」
そう言って高由は、にやりと笑った。
かつて高由は、誠久とともに新宮党久幸に武術を学んだ、言わば兄弟弟子のような関係であった。その昔ともに味わった、数々の苦行が脳裏によみがえってくる。
「晴久様と誠久様が手を携えれば、大内など物の数ではない。いや、いずれは上洛して天下を……」
武勇に優れた高由は、尼子十旗の一つである大西城を任された晴久の重臣であった。今回の戦においても、富田川を渡ってきた元就を撃退し、晴久に激賞されている。
そんなこの男の志は高い。その胸に思い描かれた光景は、晴久が新宮党を従えて上洛する姿であった。
高由は目を閉じて、胸を震わせた。
館で支度を整える敬久は、奉公人の利吉から刀を受け取り、腰に差す。配下の者たちはすでに軍装を整え、月山富田城へ向かっていた。登城が遅くなれば、また誠久に叱責されかねない。
晴久の命により、主要な軍勢はすべて月山富田城に招集されていた。大内追撃の総大将は、おそらく国久になるだろう。
「利吉、早のことを頼んだぞ」
夫の出陣に妻の早の姿はなかった。しかし、敬久にそれを咎める様子はない。
「奥方様のことは、お任せください。御存分の御働きを」
敬久が外に出ると、直臣の吉田広国が待っていた。
「殿、奥方様が……」
「ん……」
広国の視線の先に、早がいた。彼女は庭で、着物を干していた。
「何をしている?」
敬久と広国が早に近づく。ここのところ出陣が続き、敬久が早の姿を見るのは久しぶりであった。
「何って……貴方の御着物を干しているのではありませんか」
その早の言葉に、背後の広国が息をのむ気配が感じられた。
「……そのようなこと、下女にやらせればよい」
「御出陣でございますか?」
早はそう言って笑顔を浮かべる。
「ああ……行ってくる。後を頼んだぞ」
「是非、武勲をお立てなされませ。早は心待ちにしております」
「分かった。さあ、もう冷える。屋敷に入って休め」
「もう少し、もう少しで終わりますの」
「おい、利吉! 利吉!」
敬久は屋敷に向かって利吉を呼んだ。慌てて出てきた利吉は、仰天して早を屋敷に引き入れた。
「利吉、くれぐれも頼むぞ」
「はい、必ず」
雨は朝からしとしとと降り続いている。そんな雨の中、早はびしょ濡れで敬久の着物を干していたのだ。
「……広国」
「はっ」
「戦じゃ。大内義隆の首、何としてでも取らねばならぬ」
「……御意!」
敬久は、ひたすら戦いに没頭したかった。馬に跨った彼は一度も振り返らず、館を後にした。
尼子の主力が終結した夜明け前の月山富田城は、咳一つしない静寂に包まれていた。城の前に集結した兵たちの顔は炎に照らされ、その松明の音と光だけがゆらゆらと揺れている。
中央に座する晴久の左右には、国久と誠久がいる。その周囲を囲む家臣たちは緊張の面持ちで、一点を見つめていた。
その視線の先で敬久は、ゆっくりと弓を引き絞る。長い間から放たれた矢が空を切り、的の中心を射貫いた時、兵から一気に歓声が上がった。
吉凶を占う敬久の矢は、この上ない吉兆であった。
「敬久、見事なり!」
矢の行方を見守っていた晴久は、立ち上がって敬久を称えた。晴久の前に進み出た敬久は、うやうやしく頭を下げた。
「皆の者、見よ。出雲の神仏は、我らの大義をお認めになった。今こそ決戦の時、大内の息の根を止める時ぞ!」
高らかな晴久の宣言に、一同から地鳴りのような声が噴き出す。その晴久が手をあげると、地鳴りは一瞬で静まる。
晴久は、ゆっくりと一同を見渡した。
「はて……清久の姿が見えぬが?」
晴久は、興久の遺児で、自らの従兄弟でもある男の名を口にした。大内追撃のため、清久にも出陣命令を下していたはずである。
「恐れながら、申し上げまする」
その問いに答えたのは、亀井秀綱であった。
「先程、清久様からの使者が参りました。清久様は、大内に呼応した国人に館を攻められ、先月から要害山城に立て籠もっておられる由にございます。幸い、大内敗走によって包囲も弱くなり、間もなく敵勢を蹴散らし参陣するとの事。ただし、月山富田城は遠く、追撃する軍勢にそのまま加わるとのことでございまする」
「つまり、清久はここには来ぬと?」
「御意」
「ふむ……それは残念なことよ。余はもう随分と長く、清久の顔を見ておらぬ。清久も久々に、余に会いたがっておると思っていたが……なんぞ、顔を合わせづらい事情でもあったか?」
晴久の微妙な言い回しに、家臣たちが顔を見合わせる。清久の怪しげな行動は、秀綱や清宗ら一部の重臣のみに伝えられていることで、家中で共有されていることではない。
「……おそらく館を攻められ、要害山城に逃げ込んだことを恥じておいでなのでございましょう。やむを得ぬ仕儀と心得まする」
秀綱が、もっともらしくそう言った。今はまだ、公にする話ではない。
「ふん……まあよかろう」
晴久はそう言って、居住まいを正した。
「新宮党国久、これへ」
「はっ」
国久が、うやうやしく晴久の前に跪く。
「叔父上を、大内追討の総大将に任ず。今や大内義隆は死地におる。これを生かして山口に帰すな」
「承知、仕る」
晴久は、膝を扇子で勢いよく叩いた。
「全軍、出陣じゃ!」
「おおー!」
城中に、出雲の猛者たちの声が響き渡った。
晴久が下がった後、国久の周囲に尼子の重臣が集結した。
「豊久が石見で国人衆をまとめながら、大内の退路を断つため南下する算段になっておる。しかし石見には、大内に与する国人衆もまだまだ多い。これを過度に当てにしてはならぬ。我らはただ、逃げる大内を遮二無二に攻め立てよ」
国久の言葉に、晴久直臣の本田家吉が進み出る。
「敵は海路を使うやも知れませぬ。敵が分散した時の配分は如何に?」
「それは問題ではない。敵の士気は落ち、戦力の差は歴然としておる。鉢屋衆に大内要人の退路を探らせ、ひたすらそれを追撃すればよい。まず優先されるは義隆の首、そして次に、跡継ぎ晴持の首じゃ。策や力の配分で時を費やしてはならぬ。此度は、拙速を尊ぶ戦ぞ」
「……御意」
ゆっくりと頭を下げる家吉に、誠久が声を掛ける。
「本田、細かいことを言うな。義隆も晴持も、すべて新宮党が討ち取る。貴様らの出番などないぞ」
「これは頼もしいお言葉……不肖家吉、誠久様を介添え仕る」
家吉は顔色一つ変えず、そう返した。
「ふん、足を引っ張るなよ」
誠久はそう言い様、槍を引っ掴んだ。
「馬引けぃ! 出陣じゃ!」
その誠久の号令に、武将たちが動き始めた。鎧の黒鉄が震える音が、周囲に響き渡る。
そんな中、残された国久と敬久のもとに、二人の少年が駆け寄ってきた。
「おお、来たか孫四郎、次郎四郎」
国久は少年たちを見て、目を細めた。
孫四郎は誠久の嫡男であり、国久の一番年上の孫であった。一方、次郎四郎は経久の弟で毛利攻めで戦死した、下野守久幸の遺児である。晴久に臆病野州と罵られた、あの久幸の忘れ形見であった。
「これより我ら新宮党は、大内の追撃に出陣する。そなたらは残った者たちとともに、しっかり新宮谷を守るのだぞ。もし何か事あれば、子供と言えども、そなたら二人が一と二の大将じゃ。よいな」
「はい!」
二人の少年は、大きな声で答える。
にこやかに頷く国久と敬久のもとに、多胡辰敬がやってきた。
「これは頼もしい返事の若君でござる。国久様、新宮党の未来は明るうござるな」
「返事はいつも良いのだがな……遊んでばかりおって困っておる。まだまだ海の物とも山の物ともつかぬわ」
国久はそう言って笑った。子供二人をわざわざこの場に連れてきたのは、出陣前の緊張感を肌で味わわせるためであったのだ。
「辰敬、此度は功を立てる良い機会じゃ。そなたも前線に出て、存分に功を立てるがよかろう」
「これはありがたいお言葉。お気遣い痛み入りまする。しかし此度は、晴久様よりその警護を仰せつかっておりまする。某はこの月山富田城から、新宮党の方々の武運をお祈りいたしましょう」
辰敬はそう言って、敬久に向き直る。
「若、ここは正念場ですぞ。戦場というものは死なんと戦えば生き、生きんと戦えば死すもの。命を惜しまれるな、新宮党の名こそ惜しまれよ。さすれば道も開かれましょう」
「分かっている。必ず功を上げて館に戻ろうぞ」
敬久はそう言って弓を握りしめた。
「父上、行って参ります」
「うむ……儂が行く前に、露払いはしておけ」
国久は頷いてそう言い、出陣する敬久の背中を見送った。
「すまぬな、辰敬。儂が言わねばならぬ事、すべて言うてもろうた」
「なんの、出過ぎた真似をいたしました。お許し下され」
「いや……どうもあやつは昔からぼんやりして、儂が言うても響かぬでな。誠久にも怒鳴られてばかりだった。最近は多少、目の色も変わったようだが、このままではただの臆病者で終わってしまう。それでは困るのだ」
「恐れながら国久様。若の臆病さは、冷静さの裏返しであると存じます。その上、大変慈悲深く家臣にも慕われ、真っすぐな御気性で人を惹きつけまする。いずれ間違いなく、大成なさるお方であると某は信じております」
「……辰敬」
国久は辰敬から目を逸らして背を向け、天を見上げた。
「あれは分家の三男坊よ。ただ槍働きをすればよい。命を惜しまず戦えば、それでよいのだ。それ以上望む必要はない」
国久は、まるで自らに言い聞かせるように呟く。
その背中からは、国久を良く知る辰敬も、感情を読み取ることはできなかった。




