第三話.謀聖の策略
その日の夜、新宮党国久は、誠久、豊久、敬久の三人の兄弟を、館の広間に集めた。
新宮党の居館は、月山戸田城の北麓、新宮谷にあった。
もちろん新宮党の名の由来は、その地名にある。月山戸田城の麓にあるその館群は、それ単体でも強固な施設であったが、月山に築かれた山城、戸田城と合わさることで、それらはさらに強靭な要塞と化した。
そんな館を周囲に多数抱える月山戸田城は、全国有数の山城であった。その雄大な姿は、尼子先代経久と、新宮党先代久幸の、出雲支配の象徴でもあったのだ。
出雲の領民は、日々誇らしげにこの山城を眺めていた。それは経久の、長く積み重ねた善政の賜物であろう。その領民の尊敬の念は、尼子が苦境に立っても揺らぐことはない。
「周防に放った間者によれば、すでに大内は大軍を集めて、着々と戦の準備を整えているという。此度の評定において、我ら新宮党は、国境での決戦を主張したが、評定の結果は籠城となった。そうと決まれば皆心を一つにし、大事に当たらねばならぬ。三人とも、よいな?」
新宮党党首、尼子国久は、張り詰めた冷気の中に並ぶ三人の息子を、じろりと見渡す。すでに老齢といっていい年齢ではあったが、その鋭い眼差しはまったく衰えを見せず、歴戦の強者のそれであった。
国久はかつて、父、経久から「文には疎いが、武にかけては鬼神の如きである」と評された程の猛将であった。長子誠久は、この父の血を色濃く引いているといえよう。
もっとも疎いと評された政においても、年を経るにつれてその手腕も高まり、経久亡き後の、尼子の柱と目されていた。その名声は近隣諸国に鳴り響き、尼子随一といっていい。
「……大内の弱兵など、物の数ではない。国境の平原に引っ張り出して野戦に持ち込めれば、壊滅させる自信はある。しかし……評定の結果、皆の意見が籠城ならば致し方ありますまい。晴久の裁可に、従いまする」
誠久はそう答えたが、その表情には不満がにじみ出ている。
「誠久……何度も言わせるな。口の利き方に気をつけよ。殿、とお呼びせぬか」
国久は、厳しい口調でそう諫めた。こういった注意は、一度や二度ではない。
「……ご本人の前では、そうお呼びする。それでいいでしょう」
「おぬしのそういった考えを、改めねばならぬ時にきているのだ。二度と殿を呼び捨てするようなことは許さぬ。よいな」
「……御意」
誠久はそう言って、大げさに平伏して見せた。
晴久の父、政久が戦死して以来、国久は兄に代わり、晴久に父親のようにして接してきた。
祖父経久は偉大すぎて、父親がわりとはいかなかった。国久が時に晴久を厳しく叱りつけることがあったのは、経久から父親として晴久に接するようにと言われていたからであった。そこにはもちろん、叔父としての情もあった。
また国久の娘は、経久の計らいで晴久に嫁いでおり、叔父であるだけでなく、義父でもあったのだ。
しかし今やその晴久も、尼子宗家唯一無二の当主である。国久はその後見人であり、君臣の別は、はっきりさせておかねばならない。経久が亡くなってから、国久の言動には、そういった意思がにじみ出ていた。
そんな父と兄の姿を見ていた豊久が、口を開く。
「しかし、此度は父上も、出雲の国人衆の動揺を避けるためには、国境にて雌雄を決すべし、と仰っていたはずですが……何か、お心変わりの訳でもおありか?」
「うむ……今宵、おぬしら集まってもらったのは、そのことでな。実は、ある謀の目処が付きそうなのだ。万が一情報が漏れてはならぬと、評定では言えなかった事だが」
国久はそう言って、三兄弟を手招きする。遠慮がちに、あまり寄ってこない敬久には、もう一度強く手招きした。
膝を突き合わせる程に近づいた息子達の顔を、かわるがわる見つめた国久は、やがて声を潜めて、口を開く。。
「安芸新庄の国人領主、吉川興経は知っておろう」
「……知っているも何も、八つ裂きにしても飽き足らぬ」
誠久の声は、自然と大きくなる。国久は、片手でその声を制した。
安芸の国人領主、吉川氏は、藤原南家の血を引く名門で、興経はその十四代目の当主であった。
吉川は、安芸有数の国人領主ではあったが、毛利と同じく尼子と大内に挟まれている地政上、その時々で両者の間を揺れ動いていたが、興経の祖父、国経の妹が経久に嫁いでからは、尼子方に属することが多かった。
しかし興経が家督を継ぐと、その態度は次第に曖昧となった。そしてついに、先年の毛利攻めに尼子が敗退すると、尼子を裏切って、大内に走ったのである。
この興経の鞍替えは、周辺の国人衆に大きな影響を与え、その多くが大内に走るきっかけとなった。誠久が、八つ裂きにしても飽き足らないと言ったのは、そんな背景があったからであった。
「……で、その吉川興経が何か?」
「うむ……興経とはな、すでに話がついておる」
「何ですと?」
豊久が、目を丸くする。
「それはつまり……一度我らを裏切った興経が、今度は大内を裏切ると?」
「興経だけではない。あやつを通じて、三刀屋や三沢、本城らとも密約を交わしておる。その内応者だけでも、かなりの兵力となろう」
国久が名を挙げた者達は皆、先年の尼子の大敗乗じて、大内に鞍替えした者達であった。いずれも、安芸や出雲の有力な国人領主である。
「いや、しかし……にわかには信じられませぬが……」
豊久はそう言って、誠久と目を見合わせる。
国人領主の叛服常なきは、決して珍しいことではないが、昨日の今日である。内応が事実ならば、情勢が大内に傾いている以上、彼の者達にとっても、危険をともなう大きな賭けとなるだろう。その後ろ盾となる何かがなければ、下手なことはできないはずである。
「……豊久、興経がもっとも恐れているものは、何だと思う?」
「さて、何でございましょうか?」
「大殿の存在じゃ」
興経は、尼子を恐れていた。そしてそれは、歴代の吉川の当主すべてが同じであろう。その服属の裏には、尼子に対する恐怖があったのだ。
その中でも特に、興経の恐怖の元凶は、謀聖経久の存在であった。
そもそも、興経が大内に走ったもっとも大きなきっかけは、経久の死の知らせであった。その死が伝わらなければ、尼子にとどまっていたのではないかと、国久はみていたのである。
「興経には、大殿の死は偽りだと伝えてある。それこそが、大内を欺くおおきな謀の一つ、だとな。興経はそれを信じて、此度の謀略に乗ったのだ」
「……なるほど」
豊久は、いまだに半信半疑ではあったが、父の言葉にゆっくりと頷いた。
それに対して誠久は、さらに顔を近づけて、父に尋ねる。
「しかし……興経らがもう一度我らに味方するとしても、わざわざ月山戸田城に引きこもって、敵に出雲を蹂躙させる必要はなかろう。国境で対陣して迎え撃ち、挟撃できる機会に興経を動かせばよかろうに」
誠久には、細かな策略などはどうでもよかった。どこでどう戦うか、それだけが重要であった。
「此度の戦の目的は、ただ大内を撃退することではない」
「……と、仰いますと?」
「大内家当主、大内義隆を出雲に誘き出し、これを討ち取ることだ」
国久のその言葉に、三兄弟は息をのんだ。
「興経からの知らせでは、武断派の重臣、陶隆房が、出雲攻めとともに、義隆の出馬も仰いでいるらしい。情勢は、大きく大内に傾いておる。義隆も大層乗り気だそうだ。興経ら鞍替えした国人達にも、義隆の出陣を進言するよう伝えてある。十中八九、義隆は出陣してくるだろう」
大内がこの戦を、中国の覇者を決める戦と位置付けているなら、義隆が総大将として出陣してくる可能性は高い。この機を逃すほど、大内義隆は暗愚ではない。
「よいか、義隆が出陣してくるなら、よくよく戦場は考えねばならん。国境で戦をしたのでは、例え勝利しても、義隆は簡単に周防まで逃走できよう。しかし、月山戸田城まで十分に引き寄せ、出雲深くまで誘い込み勝利すれば、義隆が出雲を退却するまで、執拗な追撃ができよう。さすれば容易に、その首を討ち取ることができるはずだ」
出雲の懐は深い。大内の敗北となれば、尼子だけでなく、在地の国人や石見の国人らも追撃に加わり、そして領民や野伏せりも、落ち武者狩りに動くだろう。義隆が、長く続くその追撃を逃げ切ることは難しい。
「なるほど……そのための籠城策でございますか」
今度は豊久も、納得したようであった。
「しかし、父上」
再びそう言ったのは、誠久である。
「何か」
「その謀、考えたのは父上か、それとも殿か?」
誠久にとって謀略は、戦場の武功の添えもののようなものに過ぎない。その内容より、誰が考えたかが重要である。国久の策なら信じ、晴久の策なら怪しむ。それだけのことであった。
「……この謀は、生前の大殿がお考えになったものだ」
「まさか……大殿が?」
誠久は、目を丸くして驚く。それは、弟二人も同様であった。
「先年の、吉田郡山城の敗退以降、大殿は、いずれ大内が出雲へ侵攻することを予見しておられた。支配下にある国人衆の多くが、大内に走ることもな。大殿は床に臥せりながらも、自ら筆を取り、興経に書状を書き続けた。己の死の報を謀の一つとし、大内を欺く。義隆を誘き出すためにな」
その国久の言葉を聞いた誠久は、僅かに顔を伏せた。その大きな目に、涙がにじむ。
誠久は、激情の人であった。彼の脳裏に、在りし日の経久が浮かび、その姿はやがて、晩年の衰えた姿に変わっていった。死の床で夢と現の間を行き来していた経久が、その命の燃え尽きるまで、尼子の為に戦い続けていたという事実は、誠久の心を激しく揺さぶったのだ。
「父上……俺は大殿の生き様に、再び敬服いたした。もう迷いはない。大殿が命を削って誘き出そうとした大内義隆を、必ず討ち取って御覧に入れる」
床に頭を打ちつけんばかりに平伏した誠久の隣で、豊久も平伏する。敬久もそれに倣うように首を垂れたが、何か気に掛かるような素振りを僅かに見せた。
「……敬久、何か気になることでもあるのか」
「いえ、何も……」
「先程からおぬしは、何も意見を言っておらん。遠慮いたすな、申してみよ」
国久に促された敬久は、誠久の様子をうかがう。
案の定、誠久は不機嫌な表情を浮かべていた。経久の策略に従い、義隆を討つ。この上何を聞くのか、といった様子であった。
「よい、申せ」
再び国久に促された敬久は、父に向き直る。
「……某が気になるのは、興経のことでございます」
「興経の、何が気になるのだ」
誠久が隣から、苛立たしげに呟く。
「……興経の母は毛利元就の妹で、興経にとって元就は伯父にあたります。またその元就の正室も、興経の父の妹で叔母にあたります。おそらく今回の裏切りも、その血縁の元就を頼ってのことかと思われます。あそこは重縁で血が濃い。その、何と言いますか……つまり、一度元就の懐に入ってしまった以上、再びこちらに戻って参りましょうか?」
敬久は遠慮がちではあったが、己の危惧することを素直に述べた。
「なるほど……確かに普通ならば、その懸念もあろうな」
国久は、満足気にゆっくりと頷く。こういったことは、誠久の頭にはないことであろう。
「しかしな、それは杞憂というものだ。何故なら興経は、元就を完全に信用してはおらん。此度元就を頼ったのは、他に頼る縁がなかったからに過ぎない。興経には経世という叔父がいるが、これが元就と気脈を通じておるらしい。この経世は吉川一族の重鎮だが、興経は、元就がこの経世を通じて、吉川家の舵取りに介入してくるのではないかと、警戒しているのだ。」
吉川経世は、興経の父、元経の弟で、吉川の家中では大内に近い人物であった。若くして吉川の当主となった、興経の後見人の一人であったが、何かと興経の行状に厳しい人物でもあった。
「興経からの内々の書状にも、そういった元就を警戒する心情が記されている。興経にとって元就を裏切ることは、何の躊躇もないであろう。そのことは、懸念に及ばぬ」
国久はそう言って、再び三兄弟を見つめる。
「よいか、お前達。一門は宗家にとって、もっとも頼もしい藩屏である反面、何かと煙たがられる存在でもある。これは決して他家だけの問題ではなく、我らも同様なのだ。振る舞いは、よくよく考えねばならんぞ」
国久に目を向けられた誠久は、頭を掻きながら頭を下げた。
「よし、よかろう。城での評定で、我らの方針は決まった。戦はおそらく、雪解けの後となろう。それまで決して、兵の調練を怠たるな。大内の兵どもに、新宮党の恐ろしさを思い知らせてやるのだ。よいな」
「はっ」
この夜の話は、その三兄弟の返事で終いとなった。兄二人が退出した後、敬久は声を潜めて尋ねる。
「父上……あの、お尋ねしたいことがございます」
国久は少し顎を引き、次を促す。
「大殿の面前で弓を射た、あの時の事なのですが……」
あの一件から、もう三か月近い時が経っていたが、敬久は、あの時の父の真意を聞くことができずにいた。国久からはどことなく、あの時の話を避ける気配があったからである。二人の兄もいない今、敬久は意を決して尋ねた。
「……敬久」
「はっ」
「大殿は、あの時疲れておいでであった。あれは一つの、大殿の不名誉かも知れんな。もうあのことを、二度と口にしてはならぬ……忘れよ。よいな」
国久は、敬久の返事も聞かずに、広間を出て行った。残された敬久は、ゆっくりと床に座り込んだ。
国久のその答えは、釈然としないものではあったが、敬久にとっては、それでも十分であった。忘れろと言われれば、考えることをやめればよい。
国久の指示があれば、それに従う。あの時、その言葉に疑念を抱き、従わなかったことに後悔があったのだ。
新宮党の行く末は、国久が決める。敬久は、それに従うのみであった。