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新宮党の一矢  作者: 次郎
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第三十八話.赤い川

 大内勢は、一斉に川を渡り始めた。

 数名の足軽と騎馬武者が濁流に入り、様子をうかがいながら浅い場所を探す。運の悪い者は深みに入り足を取られ、流れに飲まれて下流に転がった。義隆の道を確保するために兵たちは次々と具足を脱ぎ、横に大きく広がって川を進む。

「このようなことになるならば、お屋形様の船だけでも用意しておくべきでございました」

 船奉行でもある隆豊は、そう臍を噛む。

「言うな、冷泉。このような仕儀になるとは誰が考えようか? 気にやむことはない」

 義隆は、決して家臣を攻めるようなことはしなかった。それが王として当然であるように。

 隆豊は深々と頭を下げた。

 背後からは尼子勢が迫り、大内勢の陣形を突き崩していた。本城、三刀屋勢は激しく突撃をかけ、平野は血だらけの大内勢が死屍累々と無残に転がる。義隆の周囲は慌ただしくなり、堪えられなくなった晴持が震えて声を上げた。

「ち、父上、もう渡りましょう。尼子勢の叫び声が聞こえまする!」

「うむ……隆房、どうか?」

「先達が川の道を確保いたします。今少しの御辛抱を」

 富田川は国人衆の家臣らも次々に入り、濁流の中をもがきながら進んでいた。やがて数名の兵が、対岸にたどり着く。

「よし、お屋形様の周りを固めよ。速やかに渡り切るのだ。進め!」

 義隆の輿が入水し、足軽と騎馬がこれを囲む。それを見届けた隆房が、馬上の晴持に叫ぶ。

「若君も輿に乗られよ、馬では危のうござる!」

「うむ、用意せよ!」

 義隆の予備の輿に乗り、晴持も川を渡り始めた。確かに晴持の馬術では、馬での渡河は無理であろう。輿の上のその姿を確認した隆房は、旗印を抱える家臣に何事か耳打ちした。家臣は何度か振り返りながら、晴持の後に続いた。

「全軍、川を渡るぞ! 周防兵はお屋形様を囲め! 他の者は矢嵐に備えて横に広がれ! 固まって的になってはならぬぞ!」

 隆房の号令によって、大内勢の渡河が始まった。それを見た毛利、宍戸ら安芸国人衆もこれに続く。富田川は、広範囲に渡って大内方の兵であふれた。

「大内義隆が渡河を始めておるぞ!」

 敗残の大内勢を突き破って進軍してきた尼子勢は、ついに義隆を発見した。足軽隊はそのまま川に入って追撃を始め、先陣を切って現れた大西十兵衛は弓隊に一斉射を命じた。

「放て! あの旗印の前にいる、輿に乗った者を狙え!」

 本来、総大将のもとにいるはずの旗印は、晴持の真後ろに付いていた。その旗印をめがけて、凄まじい矢嵐が襲い掛かる。晴持を囲む精鋭たちは刀を抜き、濁流に足を取られながらも矢を叩き落とした。

 晴持は頭を抱えて、輿の上で震えていた。豪華な装飾の兜が、大きな金属音を響かせて矢を弾き返した時、この繊細な若者は気を失った。

 やがて尼子勢に本城、三刀屋勢も加わって、矢の雨は無差別に川に降り注いだ。

 川に広がる万余の大内勢は、どこを射ても誰かに当たるような状態であった。不運にも射られた兵たちは体勢を崩し、濁流に足を取られ川面を転がる。足を滑らした馬も中々立ち上がることができず、次々と矢の餌食となった。

 蒼白の義隆は輿の上で刀を抜き、無茶苦茶に振っていた。輿を担ぐ足軽が射られて川の中に沈むと、また別の足軽が泳いできて輿を担ぐ。

 何とか義隆の後ろにたどり着いた隆豊の家臣、平賀清恒が長尺の槍を大きく回し、矢を弾き飛ばした。輿には、無数の矢が突き刺さる。義隆は何度か、気を失いそうになった。

「お屋形様、今少しの御辛抱、向こう岸はすぐそこにござる」

 半ば泳ぐように走る馬にまたがった隆房が、義隆を励ました。その腕には、何本かの矢が刺さっていた。

「隆房、大事ないか!」

「心配ご無用。お屋形様に向かった矢が我が身に刺さったと思えば、むしろ誉れにござる。我ら盾となり、矢を受けまするぞ」

「……すまぬ、隆房!」

 そう言って顔をくしゃくしゃにする義隆の姿は、離れて渡河する元就にも遠目に見えた。義隆が無事であることに、ほっと胸を撫で下ろす。

「義父上、御無事で!」

 通らに護られた元就のもとに、宍戸隆家が馬を寄せてきた。

「おお、隆家殿も大事ないか? そなたに何かあっては、儂はあの世で元源殿に合せる顔がない」

「御心遣い、感謝いたしまする。しかし我が祖父のこと、某が三途の川に行っても追い返されることでありましょう。むしろ義父上に何かあれば、某の方こそ合わせる顔がございません」

 隆家はそう言って笑った。

 隆家の祖父であり、元就の盟友であった宍戸元源は、昨年の暮れに宍戸氏の本拠地である五龍城で死去していた。出雲遠征中の隆家に知らせが届いたのは、年が明けてからすぐである。豪放磊落の、まさに傑物であった。

「しかし、我が方にもわずかながら希望が見えてきましたな。間もなくお屋形様も向こう岸に辿り着きましょう。京羅木山に入れば、状況も変わりましょうぞ」

「で、あればよいが……」

 元就は楽観できなかった。彼の目には、この敗戦は致命的に思えたからだ。

 毛利や宍戸、熊谷ら安芸国人衆が四苦八苦しながら川を進む中、一番に対岸に辿りついたのは、沼田の小早川であった。岸の草むらに、小早川の家紋である左三つ巴の旗が立つ。

「あれは正平殿か。速いな」

「沼田の衆は水辺に強うございます。水戦をやらせても一級品でございましょう」

 通の言葉を聞きながら、元就はゆっくりと顎を撫でた。 

(水戦となれば、我らではああはいかぬ。沼田でも竹原でも、確かに小早川の水軍はほしいところだが……」

 元就は弥山のとの話を思い出しながら、そんなことを考えていた。そんな余裕が生まれたのも、対岸が近づいたからであろう。幸い毛利勢の被害も、大内本軍に比べれば微々たるものであった。 

 

 先行した冷泉隆豊に導かれ、遂に義隆の輿が対岸に到着した。

 隆房や興盛ら家臣団、国人衆らも次々と岸に上がる。気絶していた晴持は目を覚ましていなかったが、命に別状はないようであった。

「……何たることか」

 振り向いた義隆は、大きなため息をついた。

 未だ矢が降り注ぐ富田川では、兵たちが次々と倒れ、川面に沈んでいく様子が見えた。大内勢の渡河はまだまだ続いていたが、追撃する尼子勢もその数を増し、矢の勢いは衰えることを知らない。富田川の流れはまだらに死体でせき止められ、血で濁った赤い水が、敗れた大内の旗とともに下流に流れていく。王のために、彼らは川の汚れた石となった。

 死屍累々の川を見つめながら、義隆は雨に震え、やがて嗚咽を漏らした。

 意気揚々と山口を出発したことが、昨日の事のように思い出される。義隆は隆房の名を呼び、その手を握った。

「まずは京羅木山に戻りましょう。敗残兵を集めて軍勢を立て直し、戦略を練り直さねばなりますまい」

「敗残兵、か……」

 義隆の手が震えた。

「こうなっては致し方ございませぬ。しかしお屋形様がご健在であれば、必ず反撃の機会は参ります。今は一時、この屈辱に耐えましょうぞ」

 川から這い上がってくる家臣を見つめながら、王は頷く。隆房も頷き、全軍に号令した。

「京羅木山に退く! 兵を集め、守りを固めるのだ。まだ我々は敗れたわけではないぞ。京羅木山で必ず、再起するのだ!」

 隆房の鼓舞は、離れた毛利勢にも伝えられた。ずぶ濡れの隆元が、不安げな様子で父に尋ねる。

「父上、今すぐにでもお屋形様のもとに行くべきではありませんか? お屋形様を励まし、我らの忠義をみせる時でありましょう」

 しかし元就は、かぶりを振った。

「しばらくお目にはかかれまい。そもそも興経が尼子から大内に鞍替えした事には、儂も一枚噛んでおるからな」

「まさか……我らも疑われていると?」

「お屋形様も、今は気が動転しておられよう。重臣方にも、快く思われない方がおろうしな」

「裏切るつもりの者は、もうとっくに裏切っておりましょう。その上、興経の反意を知らせたのは我々ではありませんか。それもすらも伝わらぬと?」

 隆元は、明らかに不満な顔を見せた。

「疑心暗鬼とは厄介なものだ。我らの心は隆房殿には伝わっておる。お屋形様から直接お召しがあるまでは、時を待て」

 こんな時でも、あくまで元就は慎重に見えた。しかしそれ以上に、興経の事は元就にも不覚であった。実は義隆に、合わせる顔がなかったのである。


「ぬう、逃がしたか!」

 自らも狂ったように矢を射ていた本城常光は、対岸に消えていく旗印を見ながら歯噛みした。尼子勢から、一斉にため息が漏れる。

 そんな尼子勢をかき分けて、ゆっくりと興経が現れた。

「なんだ、逃がしたのか」

「……なんだ、ではないぞ。遅かったではないか!」

 常光は、興経に詰め寄る。

「怒るなよ……おぬしに、大将首を取らせてやろうとしたのだ。討ち取れなかったのは、神仏の加護がなかったからだ」

「神仏の加護、だと?」

「おぬしらの信心が足りなかったと言っておるのだ。義隆は出雲に来てから、杵築大社にも鰐淵寺にも呆れるほど寄進してきた。神仏の加護も金次第だぞ」

「むう……」

 常光は唸って、口をへの字に曲げた。

「まあ、焦るな。本当の戦いはこれからよ。あの状態で、京羅木山を支えられるわけがない。義隆は退き口で、死ぬ事になろうよ」

 興経は、うっすらと笑った。

 程なくして尼子重臣、亀井秀綱から使者がやって来た。大内を追撃しながら渡河し、京羅木山を包囲せよとのことであった。

 大内にとっての地獄は、まだまだこれからであったのだ。

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