第三十七話.追撃する者される者
「ええい、月山富田城からの使いはまだか!」
苛立たしげな声を上げた誠久は、席を蹴って立ち上がった。先程から何度もそうしては広間をうろうろし、床を軋ませている。
「誠久、いい加減にせぬか。悲鳴を上げる床の身にもなってみよ」
国久は床几に座って、立てた刀に両腕をのせたままそうたしなめた。平素、冗談を口にしない男であるだけに、本気なのか皮肉なのかもわからない。
「父上、前面の陶と毛利はもう陣を引き払ったぞ。戦はもう始まっているのではないか」
「我々新宮党は、指図なしに動くなと殿に厳命されておる。城から伝令が来るまで動いてはならぬ」
「ここまでくだらん策に付き合ってきたのだ。その上さらに、義隆の首を他人に渡せというのか!」
誠久はそう叫んで、地団駄を踏む。床が地震のように揺れ、隣に座っていた敬久は大きくよろめき、そのまま後ろに倒れた。それを見ていた豊久はあきれたように笑った。
「申し上げます」
その時、広間に家臣が入って来た。
「城からの使いが来たか!」
「はっ」
「通せ!」
誠久は、目を爛々と輝かせた。
「月山富田城より参上仕る。新宮党におかれましては、直ちに陶、毛利勢の追撃にかかるように。北方より本軍を援護すべし」
現れた使者の物言いは、やや不遜であった。誠久は国久に視線を送る。
国久は、無言で手を上げた。
「者ども、出陣じゃ!」
そう叫んだ誠久は廊下に出ようとしたが、不意に使者の後ろに立ち止まり、その背中を蹴った。
「遅すぎるわ!」
吹き飛ぶ使者を見下しながら、誠久は広間を出て行った。
「……大事ございませぬか?」
敬久は、目の前に転がってきた使者に一応の気遣いをした。
「かはっ……し、心配ご無用にござる……!」
そう言った使者は敬久を睨みつけ、這うように広間を出て行った。その背中に、国久が声をかける。
「殿には、よしなに」
「あれで、よしなには言わぬでしょう」
豊久は苦笑した。この無骨な父親の言動は、やはり本気か冗談かわからなかった。
「しかし父上……兄上の仰るとおり、このままでは我らが大内勢に追いつく前に、義隆の首は転がることになりましょう。実は先程、我が出雲吉田衆の手の者から報告があったのです。城の本隊は吉川ら寝返りの軍勢と合流し、すでに進撃を開始していると。城からの使いは確かに遅すぎますな」
「何が言いたい?」
「どうも城には、我らに武勲を立てられては困る者がいるようで……」
「……下らぬな」
「某もそう思いまする。これで義隆を逃がしてしまえば、元も子もない。しかし奸臣とは、いつの時代にもいるもの。殿にいらぬ讒言をする者が、おらぬとは限りますまい」
「豊久、敬久……おぬしらも早う出陣せよ」
国久は豊久の言葉に答えなかった。
「豊久、誠久に申しつけよ。この戦、我らは本隊の援護に徹する。もし義隆を討ち取れる機会があっても、首を取ってはならぬ。生け捕りにして、その生死は殿に一任するのだ、よいな」
「……兄上がそれに従うと思われまするか?」
「兄を操るのは、得意であろうが」
国久の言葉に、豊久は口をへの字に曲げ立ち上がった。
月山富田城からあふれ出た尼子勢は、あっという間に大内勢を蹂躙し始めた。
牛尾幸清や立原幸綱、大西十兵衛ら先鋒に続いて、亀井秀綱、宇山久兼ら重臣の軍勢も突撃を始めた。陣形を崩された大内勢に、次々と襲い掛かる。
大内勢の前備は、吉川勢らの後備でもあった。すぐに戦になると思っていなかった兵たちの油断と動揺は大きく、組織的な抵抗ができぬまま被害を広げていた。その上、狭隘の地に誘い込まれ、四方から攻められるのだからたまらない。
「潰せ! 踏み潰せ! 一兵たりとも生かして返すな!」
吉川勢と並走する本城常光が叫ぶ。三刀屋、三沢の各軍勢も我先にと槍の穂先を合わせて突撃した。すでに骸となった大内勢を踏みつけながら前進する。
「ふん、常光め。いやに張り切っておるではないか」
鬼のような化粧の興経は、返り血を舐めながらうっすらと笑みを浮かべた。寝返りの諸将にとってこの戦は、尼子への忠節を示す絶好の機会であった。もし義隆の首を取ることができたなら、一族郎党は安泰なのである。
「……興が削がれたわ」
興経は一人呟いた。この男にとって、戦は安泰や安寧のためにあるのではない。
血湧き肉躍る感覚そのものが全てであった。一族郎党の未来など、家臣が考えればよい。そんなものの為に必死になる常光らは、この男には滑稽に見えた。
尼子勢はさらに包囲を狭めつつある。
大内勢は、絶望的に追い込まれつつあった。
義隆は輿に担がれたまま、北西に逃げた。
本隊は、冷泉、内藤勢の必死の防戦によって、辛うじて体裁を保っている状態であった。前備の杉重矩、左備の弘中隆包らも合流したが、その軍勢は敗走して四散していた。再び軍勢として機能するにはかなりの時間を要するであろう。
「石見衆の姿が見えぬな」
興盛は輿の横で、義隆に聞こえないように隆豊に尋ねた。
「石見衆だけではござらぬ。どうやらこの戦況のどさくさに紛れて、鞍替えしている国人もいるようでござる。このままでは、敵は増えるばかりでござろう」
「国人衆の付和雷同は仕方ないが……四面楚歌は困るな」
興盛はそう答えながらも、わずかながら余裕を見せた。目論見より早く、富田川に近づいていたからだ。川を渡って京羅木山に入れば、防衛はしやすい。
「問題は、この雨だが……」
しかし事態は、興盛の思うようにはならなかった。
「……随分と増水しておるのう」
富田川を目の前にした義隆は、他人事のように呟いた。泥だらけの頬を豪奢な布で拭う。その隣では、養嗣子の晴持が震えながら濁流を眺めていた。
富田川の増水は、興盛の予想より早かった。もっともこうした事は、地元の人間にしかわからないであろう。泥水は無情にも、下流に激しく流れていく。
川の流れを見た冷泉隆豊は、ゆっくりと刀を抜いた。
「お屋形様……こうなっては致し方ございませぬ。我が軍は劣勢といえども、まだまだ戦える兵力を十分に有しております。ここはこの川を後ろにして背水の陣を敷き、お屋形様御自ら兵を鼓舞して、決戦に持ち込むが上策と心得まする。何とぞ、御決断を」
義隆は呆然としたまま答えなかった。杉重矩が慌てて口を挟む。
「待て、冷泉殿。確かに我が軍にはまだ余力がある。しかし、戦は士気が上がらなければどうしようもならぬぞ。敵には勢いある。このまま迎え撃って、お屋形様に万が一の事があれば何とする? 川は確かに増水しておるが、まだ渡れぬものでもない。ここは何としてでも全軍川を渡り、再び兵を京羅木山に再集結させ、再起を図るべきであろう」
重矩の言葉は冷静であった。しかしこの男が口にすると、どこか消極的にも聞こえる。
「この川を渡るのに、どれほどの被害が出るとお思いか。敵はすぐそこまできておりまする。流れに呑まれる者もおろうし、川を渡る無防備な時に矢嵐を喰らえば、それこそお屋形様の身も危うくなりましょう。ここは勝負時にござる」
二人の主張は真っ向から対立した。やがて義隆が口を開く。
「万が一……万が一か。余は死ぬのか?」
その時、義隆は初めて動揺を見せた。わずかに取り乱して手を伸ばし、隆豊の手を握った。
「この隆豊が、誓ってそのようにはさせませぬ。しかしそのためには、戦わねばなりませぬ。死を覚悟して戦ってこそ生きる延びるもの。ここはお屋形様の御采配によりて、決戦の御下知を!」
その隆豊の言葉で、義隆は居住まいを正した。動揺は一瞬であった。何か言いかける重矩を制し、刀を手に取る。
「冷泉の申す事、もっともである。余も武士の端くれ、敵に背を向けて死するはこの身の恥辱じゃ。余は戦うぞ。ここで敵を迎え撃つ」
「内藤殿!」
重矩が、すがりつくように興盛に声を掛ける。
「重矩殿、お屋形様は御覚悟を決められた。我らもまた、それに従うのみ。貴殿も覚悟を決めよ」
興盛の言葉に重矩が唸ったその時、辺りが急に騒がしくなった。
「何事か!」
「申し上げます! 陶様の軍勢、毛利殿とともに尼子勢を蹴散らし、合流したる由にござる!」
駆け寄って来た家臣が、大声で叫ぶ。
「まことか!」
隆房はすぐにやってきた。取り急ぎ現れた隆房は、一人であった。
「お屋形様、御無事で!」
「おお、隆房! 隆房!」
その姿を見て、義隆の表情は一気に崩れた。駆け寄って来た隆房を、抱き合わんばかりに引き寄せる。
義隆引き寄せられた隆房は、そのまま義隆ごしに後ろの兵庫頭を睨みつける。
「兵庫頭! このざまは何か!」
その凛とした声に、呆然としていた兵庫頭は雷に打たれたように首をすくめた。誰一人として、彼を擁護する者はいない。
隆房の瞳は、爛々と輝いていた。義隆の危機に、すべて吹っ切れたように見えた。
「隆房、そなたが来ればもう怖いものはない。これより反撃に移る。隆房よ、全軍の指揮を取れ」
「お待ち下され、お屋形様。ここで一戦はなりませぬ」
隆房は、あくまで冷静であった。
「何故か?」
「某はここに至るまで戦況をつぶさに見て参りましたが、敵勢の勢いは嵐の如く猛烈でございます。対する我が方の士気は落ち、これを押し返すことは容易ではありませぬ。その上、我が軍の背後からは新宮党も迫っております。ここで一敗地に塗れ、お屋形様に万が一の事があっては、大内は滅びまする。川の水位は、今の内ならば渡れぬものでもございません。お屋形様の渡河は、必ず我らがお守りいたしまする。ここは、何とぞお引きを」
「むう、そうか……わかった。隆房がそう申すならば、それに従おう」
義隆は隆房の手を愛おしそうに撫でながら、あっさりと前言を翻した。
隆房の言う事は重矩と大差なかった。しかしその凛々しい表情は、最近の鬱屈としていたこの男の顔ではなく、その美しさが場の人々を魅了した。隆豊は眉をしかめたが、隆房が言うのでは仕方がない。渋々、渡河の手配を始めた。
雨は激しさを増している。猶予はもうなかった。




