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新宮党の一矢  作者: 次郎
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第三十六話.転落

 月山富田城へ動き始めた吉川勢に続いて、本城、三刀屋勢も進軍を開始した。その空白地に入るように、後続の三沢、山内勢も続く。

「吉川勢が動き出した由にございます」

 物見からの報告を受けた兵庫頭が、義隆に言上した。

「ようやっと動きだしたか。よし……兵庫頭、我らも進軍じゃ」

「はっ!」

 吉川らの動きに呼応して、大内本軍も前進を始めた。左右の内藤、弘中勢も同じくこれにならう。

 降りしきる雨に遮られ、輿に乗った義隆にも前方の様子はよく見えなかった。ただこの王の目には、輝かしい未来だけが映っていた。

「お待ち下され、お屋形様」

 しばらくしてその義隆のもとに、冷泉隆豊がやって来た。今回、隆豊は義隆の護衛を監督する立場であり、禁軍ともいうべき直臣の精鋭を義隆の前面に展開していた。忠誠心の高い、少数精鋭の強者たちである。

「おお、冷泉……どうしたか?」

 義隆は、隆豊の事を好んで冷泉と呼んでいた。

 冷泉氏は元々の氏を多々良といい、大内氏庶流の武家であった。その多々良が冷泉を名乗り始めたのは、隆豊の父興豊が、妻の祖先に公家の冷泉家にゆかりのある人物がいた事に目をつけ、自ら称した事が始まりになっていた。

 そういう意味では隆豊はれっきとした武士であったのだが、過度な公家趣味を持つ義隆がその冷泉という氏を名乗る隆豊を気に入っていたのは、自然の流れであるとも言えた。冷泉の名も、王を彩る装飾の一つであったのだ。

「戦が有利に進んでいるからといって、大将御自ら月山富田城の面前にお出になることはございません。あくまでここは敵地でござる。しっかりと腰を据え、興経ら先鋒の吉報をお待ちになられるが上策かと……」

 隆豊はそう言いながら、内心で舌打ちをしていた。

 先鋒の興経らの後ろには、本体前衛として杉重矩と石見衆が入っており、先鋒の後について進軍を開始していた。

 しかし前衛が進んだからといって、義隆までそれに馬鹿正直についていく必要はない。本来それを諫めるべき兵庫頭は、戦略はともかく戦術に明るいとは言い難く、肝心の隆房は新宮党の抑えにまわっている。兵庫頭が己の力量を把握しているのならば、義隆に隆房を側に置くよう進言すべきで、それをしない兵庫頭の背後にある文治派の影を、隆豊は嫌悪したのだ。

 隆豊自身は、武断派とも文治派とも距離を置いている。彼らの主導権争いは戦後の事であって、今はこの戦にすべてを注力しなければならないのだ。

「冷泉、興経は申した。余の姿と大内の旗印を見れば、富田の城兵は恐れおののき戦わずして軍門に降るであろうと。それゆえ昨日も興経から、吉川勢の前進に合わせて余の出馬を請う書状が届き、余も約した。今はまさにその時ぞ」

「いつの間にそのような約定を……」

 隆豊の苛立ちは、自然と義隆にも向けられた。隆豊ら大内重臣に約定の話など、一切なかったからである。そしてその苛立ちと共に、わずかながら興経に対する疑念も生まれた。

 かといって、興経らの行動そのものに大きな疑いを持つまでには至らない。義隆のもとを辞した隆豊は自陣に戻り、家臣の名を呼んだ。

「清恒! 清恒はおるか!」

 隆豊その声に、反応する者はなかった。周囲を探すと、その男はなんと馬上で居眠りをしていた。

「寝とる場合か!」

 隆豊に頭を叩かれた大柄な男は、慌てて周りを見渡した。

「はっ、申し訳ございませぬ」

 この男、名を平賀清恒という。遠く信濃の国の国人、平賀城城主である平賀源心の次男であったが、父源心は甲斐の守護、武田信虎と争い、その家臣である教来石景政に討ち取られたため、清恒は隆豊を頼って周防に落ち延びていた。隆豊の妻の一人が、清恒の姉だったからである。それ以来、清恒はその武勇を買われ、常に隆豊の近くにあった。

「決して気を緩めてはならぬ。どうにも知らぬ事ばかりで事態が進みすぎる。変事が起こった時は、貴様が武勇を発揮する時ぞ」

「心得ております。此度こそ、殿に拾っていただいた御恩返しをいたしまする」

「ならば、居眠りなどするな!」

 隆豊は今一度、清恒の後頭部をはたいた。

「はっ、できるうる限り」

 男はそう言って巨躯を縮ませ、再び頭を下げた。


 やがて義隆の目に、月山富田城の姿がはっきりと見えてきた。その威容を見た兵庫頭が、感嘆の声を上げる。

「さすがは世人に天空の城と呼ばれるだけはありますな。これだけ雄大な山城は、そうそうありますまい」

「そんなものか? 余には山城など、無駄に見えるがのう」

「はあ……無駄、と仰いますと?」

「いかに堅固であろうとも、国に攻め込まれ城を包囲された時点で、勝負は見えておる。ならば平素、外交や交易に重きをなした館を中心にした方が、そもそも攻められるような事にはなるまいて。その点、我が山口館は都の中心に鎮座し、新たな世にふさわしい佇まいよ。山城に登城して足腰を鍛えるなど、愚の骨頂じゃ」

「さすがはお屋形様、仰る通りでございます。所詮、尼子はその程度。お屋形様の足もとにも及びませぬ。この戦、大勝は間違いございませんな」

 兵庫頭がいつも通り義隆におもねった頃、再び隆豊がやってきた。 

「忙しいのう、冷泉。またどうしたか?」

 義隆はそう言ったが、決して煩わしい顔は見せなかった。

「やはりどうにもおかしゅうござる。少しお引きになった方がよろしいのでは?」

「何故か?」

「事が容易に進みすぎております。このようにあっさりと月山富田城の姿を拝めるなど……先程から、吉川勢や三刀屋勢の背中が見えぬのも気になります。菅谷口の大門はもう間近だというのに、彼奴等は何処に?」

「すでに城門を破り、曲輪に攻め込んでいるのでしょう。尼子の士気は落ち、抵抗もできますまい」

 兵庫頭がそう口を挟む。しかし隆豊は、そんな兵庫頭を無視して義隆に続ける。

「すでに我々の陣は間延びし、狭隘の地に入っております。しかも四方からは聞こえるのはこの雨音のみ。異様でございます」

「ふむ……」

 義隆は扇子を叩き、ゆっくりと周囲を見渡す。そこには先程まで感じなかった不気味な静けさと、単調な雨音があった。その雨音と隆豊の狭隘という言葉に、にわかに重い圧迫感が漂う。漠然とした不安が義隆を襲った。

「……確かに、興経らの動きが見えぬのは気になるか。ここは冷泉の言う通り、少し陣を戻してもよいか……」

 義隆はそう言ったが、別に興経らを疑っているわけではなかった。ただ漠然とした不安に、嫌悪を抱いたからであった。

 義隆が、少し不満気な兵庫頭に下知しようとしたその時、本陣の右を固めていたはずの内藤興盛が慌ただしく入ってきた。その傍らには元就の家臣、桂元澄もいた。

「お屋形様、一大事にござる。吉川興経、寝返りにござる!」

「……何を言っておる?」

 興盛の叫び声に、義隆は顔色を変えなかった。

「家臣、桂元澄を通じて、毛利殿より注進これあり。興経のみならず、三刀屋、本城、三沢ら先鋒の諸将、寝返りに加担の模様。今すぐお引きを」

 呆気にとられる義隆をよそに、にわかに辺りが騒がしくなってきた。間を置かずに、ずぶ濡れの伝令が転がり込んでくる。

「申し上げます! 杉重矩が家臣、大庭矩景の使いにござる。敵勢、月山富田城より打ち出でて参りました。吉川勢ら、先鋒勢も敵勢に合流したる模様!」

「どういうことか、詳しく説明せい!」

 隆豊が苛立たしげに叫ぶ。

「はっ……吉川殿ら、我が方の先鋒が大門に攻撃を仕かけようとしたところ、門にわかに開門し、あっという間に先鋒の軍勢が吞み込まれてしまったのです。後続の我らが呆気にとられていたその時、門だけでなく山からも、決壊した堤のように敵勢があふれでて……吉川殿らも、敵勢に加わっておったのです。我が杉勢はすでに崩れて退き口の最中、敵はすぐそこまで迫っておりまする」

「謀られたか……ぬう、興経め!」

 隆豊はそう言って刀を抜き、力いっぱい空を切る。一陣の風が兵庫頭をめがけて吹き抜けて、その細身の体を揺らした。

「お屋形様、お聞きの通りでござる。我らは興経らの奸計にはまり、敵地に深入りしすぎております。我が方は完全に浮足立ち、統率された反撃は困難でござる。敵は期せずして、四方から攻め寄せてまいりましょう。ここは一旦退却し、今一度陣を整え、迎え撃つが上策と心得まする。直ちに退却の御下知を!」

 しかし隆豊のその声に、義隆は反応しなかった。ただ虚ろに、遠く見える月山富田城を眺めている。

「お屋形様!」

「……興経は悪い男ではない。何かの間違いではないか?」

 ようやく出た義隆の言葉に、一同は耳を疑った。義隆はまだ、興経の裏切りが信じられないでいたのだ。その表情はまるで夢を見ているようで、現実感が感じられなかった。

 その表情を見た隆豊は、興盛に目配せした。興盛はわずかにうなずくと周囲を見渡し、大音声で叫ぶ。

「お屋形様の御下知が下された。各所に伝令せよ、我が軍は速やかに撤退する。皆の者、お屋形様を取り囲め。必ずお守りするのだ。繰り返し申し渡す、馬廻衆は撤退を伝令せよ!」

「ははっ!」

 そう声を合わせた馬廻衆が、一斉に馬首を返す。慌てて方向を変えた輿は撤退を始めたが、担ぐ従者の一人がぬかるみに足を滑らせ、輿が大きく傾く。ぼんやりしたままの義隆は体勢を崩し、泥の上に滑り落ちた。

「お屋形様!」

「ん……大事ない、大事ないぞ」

 義隆は泥だらけの顔でそう言って、地面を這った。立ち上がろうとするが、ぬかるみに足をとられ、二度三度と転ぶ。

「清恒!」

「はっ!」

 隆豊は清恒を呼んでともに義隆を抱え上げ、輿の上に放り投げた。王は顔だけでなく、その玉座も泥で汚した。

「走れい!」

 隆豊の声に、輿が走り出した。

「退却、退却!」

 馬廻衆も叫び、一斉に駆け出した。

 辺りはすでに騒然としていた。雨音の中から聞こえてくる鬨の声は、敵勢の襲来の前触れであった。

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