第三十五話.鬼従
吉川の陣中にいる興経は、眼前にそびえる月山富田城を見つめながら、その時を待っていた。その悠然とした城の姿に、かつての経久の姿を思い出す。
尼子経久の正室は、興経の祖父、国経の妹であった。
それ以来尼子と吉川は、縁戚として深い繋がりを続けてきた。しかし吉川が、常に尼子一辺倒だったわけではない。
幼くして父、元経を病で亡くした興経は、元服して大内義興の偏諱を受けた。経久が内心面白くなかったのは、言うまでもない。
だからといって、尼子と吉川が全面的に敵対したわけではなかった。興経を後見していた国経は経久の義兄であり、尼子に対する配慮も忘れなかった。しかし国経死後、興経はこれといった下準備もなく鞍替えを繰り返すことになる。
「良い名を貰うたのう、興経」
国経死後、久々に尼子に帰参した興経に経久はそう言って、その顔を見つめた。
その老人の瞳の深淵は只々深く、感情の色を見せない。
「大殿、恐れながら経の字は我が吉川の通字でもございます。某といたしましても大殿の御諱を是非にも賜りたいところでございましたが、吉川経経では如何にも不都合にて、断念した次第でございます」
興経は人を食ったようにそう言った。経久が僅かに扇子を鳴らし、そばに控える亀井秀綱が鋭い眼光を飛ばしたが、興経はまったく意に返さない。生きた心地がしないのは、経友や経世ら吉川家臣団であった。
そもそも、元服前の興経がそれを決められたはずがない。そこに国経の意思があるのは間違いなかった。その辺り、尼子と大内に挟まれた国人衆の苦しさがうかがえる。
「興経……儂の経の字は、畏れ多くも出雲守護であった京極政経様からいただいたものじゃ。おいそれと、人にくれてやるわけにもいかぬ。第一、儂は興経良い名を貰うたなと言うただけじゃ。他意はないぞ」
経久はゆっくりと、笑みを浮かべる。
有力な国人領主が、上役の権力者に偏緯を受ける事は、一種の習わしであった。
名は人を縛る。そこには、言霊による支配構造があったのだ。
経久の代になって、尼子の勢力は大内の勢力と実質的に拮抗していたものの、名目上、経久の立場は出雲一国の守護代にすぎない。七ヶ国の守護を兼ねた義興とは家格において大きな差があった。
「儂もかつて大内殿と共に上洛した折に、三男興久に一字頂いた。名門大内から偏諱を賜るなど、これに勝る栄誉はあるまいて」
「なるほど……だから興久殿は、あのような最後を遂げられましたか」
「……殿!」
たまらず経友が声を上げた。命知らずな興経の発言に、その場が凍り付く。
隣にいた経世は、わずかに平伏したまま経久の様子をうかがった。興久が死んでから呆けたとの噂のある経久が、どんな表情をするのか単純に興味があったのだ。
「……ならば、詮久の詮をやろう。詮経と名乗るがよい。今からでも遅くはなかろう?」
経久は、傍らにいる孫を顎でしゃくりながら呟くようにいった。晴久ではなく、まだ詮久と名乗っていた頃である。
経久のその表情からは、笑みが消えていた。かといって、怒りの色を見せているわけでもない。その表情からは、感情がすっかり抜け落ちてしまっていた。
(ふん、冗談ではない!)
興経は、心の中でそう叫んだ。興経は、経久の隣にいる詮久を歯牙にもかけていない。その名で縛られ、支配下に置かれる事は御免こうむりたいところであった。
「それは……なんともありがたきお言葉。しかし、そういたしたいのは山々なれども、某は生来の臆病者でござる。勝手に頂戴した名を変えて、義興公の祟りを頂戴するのは本意にあらず。何とぞ、御容赦のほどを……」
「ほう……貴様のような男でも、祟りを恐れるのか?」
経久は、心の底から不思議そうな表情をした。
「祟りなど恐れはいたしませぬ。ただ、夢枕に立つ義興公を殴りつけるのは、某でも躊躇いたしまする。義理を欠いては、神仏の怒りに触れましょう」
「祟りは恐れぬが、天罰は恐れるというわけか。勝手なものよの」
その経久の言葉に、興経は無言で頭を下げた。
「……興経」
そう声を掛けたのは、詮久であった。
「聞くところによるとそなたは、武芸の鍛錬と共に、天狗になるための修行をしているとか。天罰を恐れる男が、外法の術を得んとするその戯れは、何のためか?」
その詮久の言いように、興経は思わず出そうになった舌打ちを堪えた。怒りを抑え、詮久に答える。
「戯れとは、滅相もない。某は幼き頃から、天狗に憧れておりまする。天狗の使う百の外法を会得することが、長年の夢。某は本気でござる」
「ほう……天狗のような、怪力乱神が実在すると?」
「京の愛宕神社には、天狗になった修験者が住まうと聞きまする。その者の存在が何よりの証拠でござろう」
「……興経よ」
経久がつまらなそうな顔で呟く。
「おおよそ怪力乱神というものは、何らかの意図を持った者が創り出した幻想に過ぎぬ。この世は、自然の理によってのみ成り立つ。それが営みというものだ」
「いやいや、それは老人の感慨というもの」
興経は、平然とそう言い放つ。後方に座る経世は、体からどっと汗が噴き出る不快感に耐えねばならなかった。
「何故そう思う?」
経久は表情を変えない。
「……我が父元経は、祖父国経より先に死にました。子が親より先立つは、自然の理に反しまする。そこには、何者かがおりましょう」
興経が語ったのは、それだけであった。
「……それだけか?」
「左様にござる」
その興経の姿に、経久は虚ろに頷いた。何となく、興経という若者がわかった気がしたのだ。
「興経、教えてつかわそう」
経久は遂に、にたりと笑った。
「人の生き死には、自然の理によって成り立っている。しかしこの出雲では、例外がある」
「……それはどのような?」
「この尼子経久の、意思じゃ」
「!?」
顔を上げた興経は、震えあがった。経久の空虚な瞳の奥から、二匹の鬼がこちらを覗いているように見えたのだ。
「そ、それはそうでございましょう。大殿は、出雲の主……」
興経は激しいめまいを感じ、そう言って平伏した。言葉からではなく、その瞳から興経は悟った。
「……おお、そうじゃ。天狗といえば、以前に京の三条殿より頂いた面があったはず。名工の作と聞いておる、後で新庄に送ってやろう」
そう言った経久は、もう穏やかな笑みを浮かべていた。
「はっ!……ありがたき幸せ」
興経は、這いつくばる様に平伏した。その興経の変貌ぶりに、経友と経世も目を見合わせるのだった。
その後すぐ新庄に帰った興経は、家老の大塩右衛門に命じて父、元経の死を調べさせた。経世は驚き、興経に問う。
「一体どうしたのだ。今さら兄上の事を……」
「わからんのか、叔父貴。親父は経久に殺されたのだぞ。いや、父だけではない。ひょっとすると祖父も……」
「何を馬鹿な事を! 兄上も父上も、病で亡くなったのだ。何を証拠にしてそのようなことを……」
「叔父貴は、経久の目を見なかったのか。あの目がそう語っておったわ」
しかし、いくら調べても元経が殺された証拠は出てこなかった。それでも興経だけは、経久の謀略だと信じて疑わなかった。
――尼子経久は、人ではない。鬼に乗っ取られた化け物だ。
興経は、一人そう確信していた。
「申し上げます。毛利勢に動きがあるようです」
その家臣の報告に、興経は我に返った。どうやら随分と長い間、物思いにふけっていたようである。
「うむ……富田川の様子はどうか?」
「水位はかなり上がっているようですが、未だ完全な遮断とはいかないようです。いかがいたしましょうか?」
興経に尋ねられた、二宮経方が答えた。
「経方、陣触れじゃ。支度をいたせ」
「川が増水しきるまで、お待ちにならないのですか?」
「あのはしっこい伯父貴が動いているのだ。何かに感づいたのやもしれぬ。理詰めでこられては、誤魔化す自信もないわ」
そう言った興経は、側に置いてあった天狗の面を手に取った。かつて経久から送られた、名工の作である。
(名を縛られずとも、今はこの面に縛られている。あの化け物が死ぬまでは、まあ仕方あるまいて)
興経は経久の瞳を思い出しながら、体を震わせた。
「経方……香を焚かせろ」
しばらくして家臣たちが香を焚き始め、怪しげな香りが陣中に漂う。それをゆっくりと胸いっぱいに吸い込んだ興経は、目を爛々と輝かせた。
吉川勢は、にわかに騒がしくなった。
元就が通らを伴って吉川の陣に近づくと、その軍勢はすでに陣形を整え、進軍を開始していた。通過する足軽の隊列は、近づいてきた少数の毛利勢を見て緊張の面持ちを見せた。
「もう動き出しておったか」
「殿、あれを!」
通が吉川勢の一角を指さした。騎馬隊の屈強な侍たちの中心に、天狗の面をつけた異様な男の姿がある。男は元就らの存在に気がつくと、ゆっくりとその面を外した。
「!?」
面の下から現れた興経の顔は、赤い紅と黒い墨で禍々しい化粧が施されていた。その鬼のような形相を見た元就は、言葉を交わさずとも興経の裏切りを悟った。
「興経、貴様は!!」
「伯父貴よ!やはり、我らは交わらぬ運命にあるようだな。所詮、甥と伯父も他家なら他人も同然よ。吉川は毛利の思い通りにはならぬわ!」
そう叫んだ興経は再び面をつけ、抜刀した刀を天に突き上げた。
「天運は我にあり。出雲の鬼神は、吉川を守護しておるぞ。余所目をくれるな、我に続け!!」
その号令に吉川勢は鬨の声を上げ、駆け出した興経に続いた。月山富田城に進撃する興経ら本隊とは別に、二宮経方の率いる軍勢が毛利勢に襲い掛かってくる。
「殿、お引きを!こちらの数では持ち堪えられませぬ」
様子見で来た毛利勢は、まともに吉川勢と戦ができる人数ではなかった。馬首を返した元就に全軍が続く。
「陶殿と合流し、全軍をもってお屋形様のもとに参じる。元澄、そなたは一隊を率いて内藤興盛殿の陣に向かえ。興経の裏切りを内藤殿にお知らせし、お屋形様に退いていただくのだ」
「承知!」
そう叫んだ元澄は、数名の騎馬武者と共に毛利勢を離れた。
二宮経方率いる吉川勢を何とか振り切った元就主従は、さらに二手に別れた。元就と通は、隆房の陣に向かう。
「しかし殿……全軍で馳せ参じるとなれば、背後を新宮党に脅かされることになりましょう。まともに追撃をくらえば、我らもただでは……」
「通、世は信義で成り立っている。少なくとも儂はそう思っている。かつてお屋形様は、吉田への尼子の侵攻に、決死の援軍で応えて下さった。その大恩に報いるためには命を捨てねばならぬ。大内の倒れる時は、毛利の倒れる時と心得よ」
元就のその言葉は、決して通にだけ言ったわけではない。
自らに言い聞かせる言葉でもあった。




