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新宮党の一矢  作者: 次郎
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第三十四話.疑念

 四月下旬、大内軍本体は遂に京羅木山を下り、富田川を渡河し始めた。

 吉川興経や三刀屋久扶ら先鋒は、これに先立って川を渡り、菅谷口まで押し出して要地を確保していた。その目前にそびえる月山富田城は城門を固く閉ざし、静まり返っている。

 雨が止んで数日が経ち、富田川の水位は低くなっていた。

 隆房と元就は、義隆に先行して川を渡り、新宮谷近くに布陣して新宮党に対する備えを固めた。翌日には宍戸、熊谷、小早川ら安芸の国人衆、さらに石見、備後などの国人衆も渡河し、前線に布陣していく。内藤興盛や弘中隆包、江良房栄ら大内家重臣も川を渡り、空白地に布陣した。

 輿に乗った義隆は旗印と共に冷泉隆豊に守られて、悠然と富田川を渡河した。笛や太鼓の音色に彩られた、絢爛たる進軍である。息を潜めた出雲の領民たちは、遠目からその進軍を見物していた。

 最後に、杉重矩に守られた養嗣子の晴持が川を渡り、大内全軍の渡河が完了した。

 総勢五万を超える軍勢が、菅谷口前の平地にひしめき合う。

 義隆にとって、絶頂の時であった。


 新宮谷近くに布陣した元就は、家臣らと共に雨に煙る新宮党の館を遠目に眺めていた。

 この日の朝から再び降りだした雨は、一向に止む気配がなく、天幕を打ち続けていた。元就の隣で空を仰いでいた隆元が、不安げな表情を浮かべる。

「空が暗うございます。しばらく止みそうにありませんな」

「うむ……戦はまた日延べかも知れんな」

 大内勢が富田川を渡って数日、未だ月山富田城攻めは始まらないでいる。先鋒の吉川勢や三刀屋勢は、時折鬨の声を上げて城を威嚇するものの、取りついて攻城戦を行う気配はない。不気味な静けさの月山富田城に、その鬨の声がむなしく吸い込まれていた。

 しばらくすると、大内本陣から桂元澄が戻って来た。

「すでにお屋形様は、先鋒に総攻めの下知を下されているとの事。ただ、戦はその時々の情勢次第。城攻めに取り掛かるその時は、先鋒の吉川殿の判断に委ねられている由にございます」

「つまりあの短気な興経が、未だにその時を探っているというわけか。随分と慎重になったものだな。まさか、怖気づいたとも思えんが……」

「あの従兄弟殿に限って、そんな可愛げはありますまい。いつ気まぐれに戦を始めることか……」

「ほう……隆元、おぬしも興経の事がわかるようになってきたな。確かに戦はいつ始まるかわからんな。決して気を抜いてはならぬぞ」

「心得ております」

 その時、天幕の外に人の気配があった。

「殿、弥山にござる」

「おお、待っておったぞ。入れ」

 天幕の中に、雨に濡れた弥山が入って来た。

「どうじゃ、城には入れたか?」

 元就に命じられた弥山は、毛利勢が富田八幡山に転陣したころから月山富田城に潜入する機会を探っていたが、城の守りは厳重で簡単にはいかず、城下町でその機会をうかがっていた。

 大内の大軍が富田川を渡河すると、領民たちは慌てて四方の村へ逃げ込んだが、一部の領民は塩谷口から月山富田城に逃げ込んだ。弥山はこの一団に紛れて潜入したのである。

「此度、大内の進軍に伴い、尼子は領民の一部を富田城に入れました。拙者もその中に交じり潜入することはできましたが、残念ながら城中枢へ入ることは叶いませんでした。しかし見たかぎり、富田の城内の構えは、以前に拙者が描いた物とほとんど変わっておりませぬ。やはり拙者も、菅谷口からの進攻はよろしくないと存じますが」

 弥山は、かつて鉢屋衆として鉢屋平にいた記憶をもとに、月山富田城の図面を書いて元就に渡していた。その図面を見た元就は、菅谷口が最も強固であると見ていたのだ。

 菅谷口の前面は平地が開けて大軍が駐留しやすいが、進軍するにつれて狭隘な地形になっている。菅谷口にはこの戦に備えて造られたと思われる大門があり、門前まで迫ると曲輪と山に挟まれる形となる。つまり、三方から攻撃されることになるのだ。

「興経はこれを力攻めで突破するつもりのようだ。戦力を比較するならば、無理ではなかろうが……被害も大きくなろうな」

「その菅谷口の事なのですが……少々気になることがありまして」

「気になること? 申してみよ」

「それが……菅谷口の門から西の曲輪に至るまで、敵兵が随分と少ないように見受けられたのです。何故か妙に、間が空いていると申しますか……」

「ほう……?」

 元就は顎を撫でた。目前に敵が迫っているにしては、いかにも不用心である。

 尼子方からすれば、三方から攻撃できる菅谷口で防衛しない手はない。ここにまず精鋭を配置するのが、常道であろう。

「尼子の士気の低下は深刻だと聞いております。もしや、兵の逃亡も起こっているのでは?」

 そう言ったのは隆元である。戦局の悪化によって足軽が逃亡することは、よくあることであった。

「あるいはそうかも知れぬが……」

 元就はそう呟いて黙り込んだ。それが意味することを掴みかねていたのだ。

(菅谷口ほど守りやすい地形はない。これを尼子が使わぬ手はないはずだ。なんぞ別の軍勢でもあるのか……) 

 しばらく思案していた元就であったが、不意に弥山の顔を見つめた。

「おお、そうじゃ……おぬしの言う通り、大西十兵衛が攻めて参ったぞ。ただ、大西は予想以上の難敵であった。結局、こちらが冷や汗をかくことになったわ」

 元就は、先日の河本隆任の館を巡る戦いの事を口にした。

「この辺りは雨が続くと、富田川はすぐに増水いたします。氾濫するほどではありませんが、軍勢の進軍は困難になりましょう。それをよく知る尼子なら、討って出てくると考えておりました。挟撃で尼子を殲滅できなかったならば、大西を称えるべきでありましょう」

「そうかも知れぬな。しかし、おぬしのおかげで助かった。天の機嫌ほど怖いものはないな」

 元就はそう言って笑ったが、その笑みはすぐに消えた。見る見るうちに厳しい表情になっていく。

「父上……如何なさいましたか?」

 父の変化に、隆元は怪訝な表情を浮かべる。元就はしばらく厳しい表情のままで微動だにしなかったが、やがて一言二言と何事か小声で呟き、口を開いた。

「興経は……富田川の増水を待っているのではないか?」

「はあ、従兄弟殿が……何のために?」

 その不意に発せられた言葉に、隆元は首を傾げた。

「……お屋形様を、退却させぬためにだ」

 元就の低い声が、隆元の腹に響く。

「!……い、いや、しかしそれは……」

 隆元は返答に窮した。その言葉の意味する事がわかったからである。

「もしかすると儂は思い違いをしていたのかも知れぬ。興経自身の叛服常無い気性は、今も昔の何も変わっていない。しかし儂にとって気の置けない経世の存在が、それを覆い隠していた。その経世が新庄に帰った今、あれは甥と言えども油断してはならぬ男なのかも知れぬ」

「しかし、戦況は我らに有利に進んでおります。この状況で裏切るなど、興経は自ら死を選ぶようなものではありませんか」

「興経一人ならそうかも知れぬ。しかし、裏切り者が吉川勢だけでないとするならば?」

「まさか……!」

 隆元は絶句した。しかしその表情は、半信半疑であった。

「何故、あの興経が未だに合戦を始めないのか。何故、菅谷口の大門に敵兵がいないのか。何故、三刀屋や本城ら鞍替えした者ばかり先鋒を争うのか。……これは儂の早合点かもしれぬ。石橋を叩いても尚、這って渡る儂のな。しかし、どうも胸騒ぎがするのだ。それは確認しておかねばなるまい」

 元就はそう言って立ち上がった。隆元らも慌てて立ち上がる。

「父上、どちらへ?」

「吉川の陣に行く」

「そ、それは危険では……」

「様子を見に行くだけだ。確証を掴まねばならぬ。通、支度せよ」

「はっ」

 命じられた通は天幕を出て行った。家臣は元就に具足を付ける。

「しかし儂も老いたな。今更慌てるなど、愚の骨頂じゃ」

「何を仰いますか。大内の誰一人として、吉川殿に何の疑いも抱いていなかったのです。天をも欺く所業でございましょう」

 自らを卑下する元就に、兜を持つ福原貞俊が言う。貞俊の父は元就の従兄弟であり、貞俊は若くして毛利の重臣の一人であった。その誠実さが元就に愛されている男である。

「ふむ……天をも欺く所業、か。もしや、謀聖は生きているのかも知れぬな」

「まさか!」

「もしくは、その亡霊か……何にせよ、興経一人で出来る事ではあるまい。困ったことよな」

 元就はのんびりした口調で言ったが、経久を思い出すと慄然とした。謀聖の存在は、恐怖以外の何物でもない。

「父上、大内への知らせは如何いたしましょう。お屋形様や内藤殿にお知らせした方がよろしいのでは?」

「まだ興経の裏切りの確証はない。その上、儂はこの早期決戦に反対だと見られておる。疑念の段階ではお取り上げ下さるまい。それにな、隆元。儂にはまだ甥を信じたいという気持ちもあるのだ。取り越し苦労ですめばよい、とな」

 それは元就の本心であった。そしてそれに、老いも感じた。

(吉川が再び敵となれば、美国もまた悲しむであろう。経世とも再び戦わねばなるまい。しかしそう考えれば、経世を新庄に帰らせたのも策略か)

 考えれば考えるほど、状況に対する疑念が湧き上がってくる。やはり自らの目で確かめる必要があるのだろう。

 元就の隣で、弥山が呟く。

「雨が降り続いて、もう随分経ちまする。富田川の水位もかなり上がっておりましょう。間に合えばよいのですが」

 元就は空を見上げた。

 雨はまだ、止みそうにない。

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