第三十二話.悪戯
尼子からの降将、三刀屋久扶の陣営は、大内の本陣である京羅木山の麓にある。
静まり返った夜更け、そこに本城常光や三沢為清ら、内応を画策する将たちが秘密裏に集結していた。
集まった諸将は、事前に内応を約していた者たちだけではない。尼子の調略は昼夜を問わずに続いており、一時的に大内になびいた出雲や石見の国人衆たちの中にも、再び尼子に帰参せんと願う者たちもいた。内応者の数は、確実に増えていたのである。
そこに興経が、悠然と現れた。
「おうおう、新宮党を撃退した勇将の登場じゃ」
常光が、冷やかすように言う。
「茶化すな。軽くいなしてやったまでじゃ」
興経はそう言ったが、満更でもない様子であった。ゆっくりと周りを見渡す。陣営の中は無数の灯明皿から炎が揺らめき、内応者たちを照らしていた。
「随分と増えたな。しかし、よもや事が漏れはしまいな?」
「心配はなかろう。あの馬鹿殿、もう勝った気でおるわ。まさか膝元で謀議が練られているなどとは思うまいて」
常光が声を上げて笑う。丁度その時、久扶が一人の男を伴って入って来た。黒装束に黒頭巾の、漆黒の闇に溶け込みそうな男である。
「ふん……忍びか」
興経が鼻で笑う。久扶がこの場に連れてきたということは、尼子方の忍び、つまり鉢屋衆賀麻党であることは明白であった。久扶を中心に諸将が座に着く。
「まずは、諸将の血判を賜りたい」
そう言って懐から起請文を取り出したのは、黒装束の男であった。その声は、以外にも若かった。
「なんだと?」
そう気色ばんだのは、興経である。
「貴様、我らが信用できんと言うのか」
「晴久公の御意向でござる」
「若殿は事ここに来て、今更我らの忠誠をお疑いあるか。何とも小さいことよ」
「興経殿、やめんか」
久扶がたまらずたしなめる。
「経久公はどうお考えなのだ。まさか公も、我らを疑っておいでなのか」
「拙者は、貴殿の意見を聞く立場にない。ただ主命に従うのみでござる。そのためならば、この命惜しくはござらぬ」
黒装束の男は、静かにそう言った。決して引く気配はない。
そんな二人を見て、久扶が間に入る。
「興経殿、この起請文は、晴久公に忠誠を誓うだけのものではない。杵築大社に納め、天津神の御加護を得るためのものだ。須佐之男命に、我らの覚悟を見せねばならんのだ」
興経は、しばらく黒頭巾から覗く双眸を凝視していたが、やがて引ったくるように起請文を取った。
「……ふん!」
興経は、荒い息を吐いて署名すると脇差を抜き、手のひらで刀身を力の限り握りしめた。
もちろん尋常なやり方ではない。飛び散る鮮血が、起請文を濡らす。
「おい、やりすぎだ!」
常光が驚いて制止する。
「これで文句なかろうが」
興経は慌てる一同を他所に、黒装束の男に薄ら笑いを見せた。鞘に収めんと振った脇差から鮮血が飛び、黒装束の男にかかる。しかし、黒装束の男も動じる気配は見せなかった。
場の緊張感が張り詰めたまま、諸将は無言で次々と起請文に血判していく。全員の血判が終わった事を確認した黒装束の男は、起請文を懐に入れ、別の書状を取り出した。
その書状を受け取った久扶は、諸将の中央でそれを開く。一同は皆身を乗り出して、炎に照らされる書状を食い入る様に見つめた。内容に目を通す時間、長い沈黙が場を支配する。
「……ついに、決行か」
やがて常光がそう呟き、一同が騒めいた。書状には、具体的な作戦の手順が記されていたのだ。
諸将が一通り書状に目を通した事を確認し、黒装束の男が口を開く。
「富田城内の準備も、近々整いまする。晴久公におかれましては、諸将寸分違わず策に従うよう、仰せにございまする」
「……確かにこれは、良い策と存ずるが……しかし問題は、大内義隆を誘き出すことができるかどうか」
そう言ったのは備後の国人、山内隆通であった。
備後山内氏は元々、備後守護山名氏に守護代として仕えた家柄であったが、山名氏が衰退した後も、独立してその勢力を保ってきた。
隆通の先代である直通は、かつて反乱に敗れた妹婿、塩冶興久を匿っていたが、興久は経久に圧迫される直通の苦境を見て、その命を自ら絶った。
その結果、元就が山内に接近して、渡辺通の毛利家復帰を契機に山内と和睦したが、尼子経久が面白くなかったのは当然であろう。
経久は、毛利と山内が和睦した翌年の天文五年(一五三六年)には、早くも山内氏の本拠地甲山城を攻略した。直通は強制的に隠居させられ、外孫の隆通が跡目を継いだが、当然これは経久の意向を受けての相続であった。
吉田郡山城で尼子が敗退した後、隆通は興経らと共に大内に鞍替えしたが、これは偽りであった。隆通は、経久に心酔していたのである。
その隆通に答えたのは、常光であった。
「義隆は存外、単純な男だ。書状にあるように尼子の不利を喧伝し、覚えめでたき忠臣に総攻撃を注進させれば、容易に乗ってくるだろう」
「覚えめでたき忠臣とは?」
「ここにいるぞ」
常光は、隣の興経を指さした。興経は血が噴き出る手のひらに布を巻き、顔をしかめていた。
「……後で痛がるなら、やらねばよかろうが」
「うるさい!」
呆れた顔をする常光に、脂汗を浮かべる興経が叫ぶ。
「まあとにかく、この興経は義隆にえらく気に入られておるからな。ここにきて、大内が決戦を急いでいる気配もある。興経が勝機があることを進言すれば、京羅木山から下りてくる事は間違いなかろう」
「しかし……義隆はともかく、隆房らが乗ってくるか?」
「義隆は最近、隆房の意見に耳を貸してはおらぬようだ。兵庫頭も義隆におもねるだけで、己の考えなど持っておらぬ。何より義隆は戦に飽きて、公家や寵童と享楽に耽っているとなれば、尚更よ」
「もし、下りてこなければ?」
「下りてこなければ……」
常光は久扶に視線を送る。
「……下りてこなければ、再び晴久公に御指図を仰ぐだけじゃ。勝手な行動は、晴久公の御不興を被ることにもなりかねん。再び機会を待つことになろうよ」
「経久公の御指図、だろうが」
諸将を見渡しながら答える久扶に、興経がそう言葉を投げた。経久が生きていると信じている興経にとって、晴久の存在は飾り物にすぎない。
咳払いをした久扶は興経には答えずに、黒装束の男に向き直った。
「策の詳細、確かに承った。一同心を合わせ、晴久公の御意に従うとお伝え願いたい」
「承知いたした。諸将の皆様も、大内に内応を気取られること無きよう……」
「分かっておるわ!」
不機嫌に叫んだ興経をよそに、黒装束の男は一つ近くの灯明皿の炎を吹き消す。
男の黒い装束は闇に溶け、ゆっくりとその気配を消した。
黒装束の男は三刀屋の陣営を抜け、東へ走り出した。しばらくして城下町に近づいた頃、一つの影が並走する。
「若、いかがでございましたかな?」
「やれやれ、角爺は苦労性だな。この程度の御役目、できぬと思っているのか?」
黒装束の男、弥雲は並走する老人の顔を見て苦笑した。いかにも心配そうな表情が、おかしかったのである。
「若は賀麻党の唯一の後継ぎじゃ。万一の事があれば、この爺の命もありませんからな」
「敵中とは言え、味方のもとに行くのだ。造作もない」
「では内応の諸将は、策を承知しましたかな?」
「承知はしたが……」
弥雲はやや口ごもり、角爺に吉川興経の態度を説明した。
「起請文を取るなど、よくあることだ。何故あそこまで激昂したのか……」
そう首を傾げる弥雲を見て、角爺は声を上げて笑う。
「それはあれですな。使いである若が、思いのほか若かったからでしょう。気に入らなかったんですな」
「それだけか? それだけで血を流すのか?」
「吉川興経という男は、そういう男だと聞いておりまする。ああいう悪戯にも躊躇なく血を流せる男には、くれぐれもお気をつけなされ。たとえ味方であっても、背中を見せることのなきよう」
「わかった。今日は、良い事を学ばせてもらったのだな」
そう答える弥雲の瞳は、純粋であった。海堂がこの場にいれば、舌打ちしたに違いない。
丁度その頃、月山富田城の城下町の近くで、鉢屋衆に馴染み深い男が城下を探らんと暗躍していた。やがて男は、城下町に入ろうとする弥雲と角爺を見つけて、身を隠す。
「あれは角爺か……ならば隣は、おそらく弥雲か?」
元就の間者、弥山は二人の姿を見て薄く笑った。
昔、弥山が鉢屋賀麻党の跡取りであった頃と同じように、今は弥雲に陰に日向についている。そんな角爺の姿に、弥山は奥歯を噛みしめた。
「丁度良い、これも天命か。ここは一つ、宣戦布告といくか」
弥山の唇が、醜く歪んだ。当時幼かった弥雲に直接の恨みはない。しかし彼が賀麻党の跡取りである以上、復讐の餌食になってもらわねばならない。それが弥山から全てを奪った、叔父の弥一郎への復讐になるのだ。
城下町に入った弥雲と角爺は、互いに目配せをしながら町家を駆け抜けた。もちろんその道筋は不規則で、その足は速い。
「驚いたな。一体何者だ?」
「間違いなく忍びでありましょうが、これは……」
城下町に入った時から後をつけられていることを感じた二人は、全力でこれを振り切ろうとしたが、追跡者は一定の距離を保ったままついて来る。月明りに照らされる弥雲の額に、汗がにじむ。
「かなりの手練れのようですな」
「それだけではない。町の造りに精通していなければ、こうもいくまい」
やがて人気のない袋小路に至り、二人は足を止めて息を潜めて背後を警戒した。風の音だけが、耳に入って来る。
「……そう怯えなくてもよかろう」
風に乗って、くぐもった声が辺りに響いた。その地の底から湧き上がってくるような人外の声音は、何らかの細工が施されているようであった。
「何者だ!」
辺りを見まわして、弥雲が叫ぶ。
その弥雲の姿を見た弥山に、悪戯心が湧いた。
「怖いか、小僧。体が震えているのがわかるぞ」
辺りに不気味な笑い声が響いた。角爺は周囲の気配を感じとろうとしたが、その声や気配からも、位置を特定することはできなかった。
「教えてやろう。儂は東から来た天狗じゃ。尼子と賀麻党に、深い恨みを持つ天狗じゃ。賀麻党の忍びどもよ、首を洗って待っているがいい。これから儂の復讐が始まる。尼子と賀麻党は、必ず滅ぶだろう。今宵はその挨拶じゃ」
町家の屋根で気配を消した弥山は、芝居じみた言葉で二人を脅す。周囲を見回す二人の慌てぶりが、心地よい。
「鉢屋弥雲、貴様には死んでもらう。そしてその首を、弥一郎の足元に投げつけてやろう。一体どういう顔をするか、楽しみだな。必ず殺す、必ず殺すぞ」
弥山は一際大きな声で笑うと、屋根を伝って飛んだ。終始芝居じみていたのは、気持ちが高揚していたからだろう。
弥山は、胸のすく思いに心を震わせながら、闇の中へ飛び去っていった。
弥雲と角爺はしばらく警戒して周囲を探っていたが、気配が完全になくなった事を確認して、同時に息を吐いた。
「何者だ、今のは? 天狗などと……」
弥雲は天を仰ぎ、額の汗を拭う。
「さて、どこの痴れ者か……手練れであることは間違いなさそうですが」
「尼子と我らに恨みがあると言っていたが……」
「我らに恨み持つ者など、ごまんとおりまする。あてにはなりますまい」
鉢屋賀麻党は、尼子と共に出雲制圧に暗躍してきた。恨みを持つ者など、あげれば切りがない。
「しかし……俺の事を知っていた。この城下にも詳しいようだ。以外と我らに近しい者ではないのか」
その弥雲の言葉に、角爺の背筋に冷たいものが走る。
「……もしかすると、本物の天狗かも知れませんな」
「馬鹿な!」
角爺は、笑う弥雲の背中を押す。
「さあ、城に戻りましょう。晴久公がお待ちでございましょう」
「ん、そうか……お待たせするわけにもいかぬな」
慌てて走り出した弥雲の後ろ姿を見ながら、角爺は光る月を見上げた。
(まさか、弥山様ではあるまいか……いや、そんなはずはないな。あの方は間違いなく死んだはずじゃ)
そんなことが思い浮かんだのは、角爺の心にある深い後悔からだろう。
弥山の死は、この老人の心に大きな傷となって残っていたのだ。




