第三十一話.甘露の味
洞光寺の攻略には失敗した大内勢であったが、平賀隆宗を窮地から救った興経の武勇は、義隆に激賞された。隆宗は感涙にむせび、事の次第を義隆と兵庫頭に報告していたのである。
「流石はかの鬼吉川の末裔よ。今鎮西の異名、偽りではないな。そなたが余に忠誠を誓こうてくれること、無上の喜びじゃ」
「お屋形様の仰せの通りにございます。尼子に新宮党がいようとも、大内には吉川がおりまする。新宮党も、恐るるに足りませんな」
大内重臣の居並ぶ中、義隆と兵庫頭は、興経の報告を聞いて大いに喜んだ。
義隆の言った鬼吉川とは、興経の曾祖父、経基の異名である。経基は、吉川氏中興の祖とも言われる名将で、興経はその再来とも呼ばれていた。
しかし隆宗と興経の報告は、事実とは弱冠異なる。報告では、吉川勢と新宮党は互角で戦ったことになっていた。もちろん興経も、誠久と互角に渡り合い、撃退したことになっていた。
かねてから武勇に優れる新宮党に誰をぶつけるか、大内の首脳陣にとって、頭を悩ませる問題であった。
――隆房の周防兵を使うか、安芸の毛利勢か……。
そう考えていたところに、今回の戦があった。実際に新宮党と引き分けた吉川興経の存在は、確かに鬼吉川の再来と言っても過言ではなく、義隆の信頼を増々厚くしたのである。
「しかし益田殿は……此度はあまりよろしくありませんな。平賀殿を見捨てて退却したというのは……」
兵庫頭は平伏する益田藤兼を一瞥し、溜息をついた。
「申し開きのしようもございませぬ。如何なる御裁きでも、お受けいたしまする」
隆宗が生きて帰って来た以上、言い訳は通じない。事前に隆房そう言われていた藤兼は、己の言い分を押さえ、ただひたすら従順に頭を擦り付けた。それは、隆房の指示であった。
隆房が、その隣に進み出た。
「お屋形様……新宮党の武勇は天下に聞こえております。何分、益田勢は小勢でございました。我が方の全滅を防ぐため、藤兼殿が速やかに退却したことは致し方ないことと存じます。藤兼殿はまだ若い。此度は、寛大な御処分をお願いいたしとうございまする」
隆房も、くどくどと長く庇い立てはしなかった。若いことを理由に許しを請う方が、義隆の心に響くとわかっているからである。
「しかし……軍紀がございますぞ。味方を見捨てて退却したとなれば、全軍の士気にもかかわりましょうぞ」
兵庫頭は、隆房にそう言う。その二人を見比べながらにやりと笑った興経が、口を挟む。
「田子殿、よいではないか。未熟な子供の面倒は、我らで見てやるしかあるまい」
その言葉に、藤兼の肩が震えた。しかし顔を上げることはしなかった。藤兼はうつむいて、耐えた。
義隆が扇子を叩いた。一同が視線を上げる。
「藤兼の忠誠は、余もよくわかっておる。此度の戦には、若い者も多い。未熟を理由に処罰しておっては、切りがあるまい。藤兼、此度はそなたにとって良い経験になったであろう。なお一層、励むがよい」
「ははーっ! この藤兼、必ず思し召しに沿えますよう、精進いたしまする」
不満気な兵庫頭をよそに、藤兼ほっと胸を撫で下ろして平伏した。しばらくして頭を上げ、隆房に目配せする。
しかし視線の先にいる隆房は、藤兼の視線を受けても特に反応を示さなかった。
ただぼんやりと、義隆を見つめるのみであった。
元就は、興経の叔父、経世に会うために吉川の陣を訪れた。
「義兄上、よく来て下さった。ささ、どうぞこちらへ」
経世は、元就をもてなす為に酒宴の用意をしていた。とは言っても、もっぱら酒を呑むのは経世で、元就にはいつもの如く、餅と宇治の茶を用意していた。
「しかし、いつも申し訳ないな。某だけ酒というのは……」
「何を言う。儂には餅と茶が、この上ない贅沢よ」
元就は屈託なく笑い、餅を頬張る。
「しかし経世……此度、興経は大きく天下に面目を施したな。お屋形様も大層お喜びだと聞く。あの新宮党に一泡吹かせたとなれば、この戦の前途も明るかろう」
義隆が興経を誉めそやした一件は、その場にいなかった元就にも伝わっていた。
「いや、まったくだ。あの乱暴者でひねくれ者が、天下に名を轟かしおった。お屋形様の覚えもめでたいとなれば、この戦だけでなく、吉川の前途も明るいというものだ」
杯を重ねる経世は、上機嫌であった。長年期待をかけてきた甥の活躍に、酒がすすむ。
「思えば父上が死んで十数年、あやつの短慮には散々苦労させられてきたが、ようやっと報われる時がきたと思えば、積年の苦労も吹き飛ぶと言うもの。今に興経は、義兄上にも劣らぬ名将になるぞ」
経世はよっぽど嬉しかったのか、手放しで興経を褒める。今までの興経の行状などは、すっかり忘れてしまったかのようだった。
そんな経世と元就のいる陣所の裏は、険しい山になっている。元就が茶をすすりながら目を向けると、その山道の入り口に一人の男が立っていた。
「あれは……興経か?」
「そのようだが……」
怪訝そうな元就の声に、経世も目を凝らす。
そこに立つ興経は、ふんどし一丁であった。
興経は手にしていた天狗の面を被ると、目の前にある巨大な岩を抱え、奇声を上げながら山奥に消えていった。声だけが、いつまでも響き渡る。
「……変わった鍛錬をしておるな」
「ああいうのを見ると、やはり不安にもなってくるのだが……」
経世は軽く頭を抱える。
「おお……そうだ、義兄上。言っておかねばならんことがあったのだ。某は一度、国許の新庄に戻らねばならなくなった」
「なんぞあったか?」
「うむ……兄上がな」
「……経友殿か」
宮庄経友は経世の兄であり、興経のもう一人の叔父である。経世と違って昔から尼子と繋がりが深く、家中の尼子派の中心人物であった。
今回、興経が大内に付く決断をした後は、表面上その方針に従ってはいたが、その心の内はわからなかった。吉川と尼子の交わりは、昨日今日の始まりではない。
「先日、新庄から使いが来たのだが……どうも兄上が不穏な動きを見せているらしい。尼子の調略を受けて、家老の大塩とともに何ぞ起こす気かもしれぬ。興経は自分が新庄に戻って事を治めると言うが、総大将のあやつを戻す訳にもいかぬ故、某が国許に戻ることになった。しかし……まったく迷惑なことよ。興経の働きのおかげで、吉川はやっとお屋形様の御心をつかんだというのにだ」
吉川の尼子派は、今回の戦に出陣していない。それが仇になったと言うことだろう。背後の新庄で反大内の兵を挙げられては、堪ったものでなはい。
「経世、安芸の国人の内情はどこも同じだ。儂も、家中の尼子派の統率には苦労した。あまり手荒なことを考えると、兄弟相争うことにもなりかねんぞ」
元就にとってのそれは、弟の元網であった。そしてその結果は、毛利にとって最悪の結末であった。
「それは、兄上次第だ。この期に及んでもまだ、家中を二つに割ろうとするならば、吉川の家のためそして興経のため、非情にならねばならんだろう。もちろん某は、話し合いのために戻るつもりだがな」
経世はそう言って元就に向き直り、姿勢を正す。
「義兄上、申し訳ないが某のいない間、興経のことをよろしく頼みまする。あやつの周りには剛の者がそろっているが、何分若い奴らばかりで思慮が浅い。義兄上の気に入らないことがあれば、容赦なく興経を叱りつけてもらいたい。某からも、義兄上の助言に従うよう言っておく。何とぞ、興経のことをお願いいたす」
頭を下げる経世の杯に、元就が再び酒を注ぐ。
「何、興経にはもう、助言など必要なかろう。儂の言うことを聞くとも思えんしな。これからは大内も、陶殿や弘中殿ら若者の時代になる。我ら老人の出る幕は、もうないのかもしれんな」
「老人などと……義兄上らしくない。まだまだ働き盛りでござろう」
経世が目を丸くする。
「いや、これは前々から考えておったことじゃ。此度の戦にしても興経だけではない。平賀殿や益田殿、敵は晴久に新宮党の三兄弟。戦場には若い侍の覇気が満ちておる。尼子経久はある種の化け物であったが、長く生きすぎたのかも知れぬ。我らももう立派な老いぼれよ。儂もこの戦が終わって吉田に帰ったら、少しづつでも譲れるものを隆元に譲っていこうと思っているのだ」
これは元就の、偽らざる思いであった。いくら体に気を使っていたとしても、人間はいつ死ぬかわからない。元就はすでに父の寿命を超え、兄の倍近くを生きている。権力の移譲は目の前に迫る問題でもあった。
実は最近、長陣の疲れも感じていた。
疲れ知らずで戦場を駆ける若者たちを見ていると羨ましくもあり、時の流れを感じざるを得ない。戦に胸躍らせる感覚も、随分と鈍くなっていた。衰えを感じていたのだ。
――もう十分、やってきたではないか。穏やかに生きてもいいのではないか。
近頃は、そんな思いも胸に去来した。若者の台頭に感じる悔しさも薄れ、諦めとともに死んでいった者たちのことが頭に浮かんだ。
長陣は予想以上に、元就を疲れさせていたのだ。
吉川の陣から帰ってきた元就を、隆元が待ち受けていた。
「隆房様がいらっしゃっているのですが……」
「珍しいな……どうした?」
「いや、随分酔っていらっしゃるようで……」
困惑する隆元を留め、元就は一人で陣屋に入る。
簡易的に作られた陣屋は、狭く薄暗い。隆房はその真ん中で、ぽつんと座っていた。
「どうされたか、隆房殿」
「おお、元就殿……待っておったぞ」
隆房は元就の顔を見て、瞳を輝かせた。白く美しい頬が朱に染まり、得も言われぬ色気を感じさせる。
「……随分と酔っておられるようだが」
元就は何となく目を逸らす。
「元就殿、元就殿は人生の先達でござろう。是非、私の話を聞いて下され」
隆房は多少、呂律の回らない調子で言う。
「一体、どうされたのか?」
「私は昔から、お屋形様のお考えが手に取るようにわかるのです。私が根回しをしさえすれば、お屋形様は私のお考え通りの行動をして下さる。まるで私が、支配しているように。ああ、何と不敬なことか!……そうやってやることに、私は慣れてしまっている。昔は身体も心も重なりあっていたものが、どこか私は冷めているのです。それにもかかわらず、田子の存在が恨めしい。私はそんな自分が、嫌になるのだ」
(……やれやれ、ひどく酒に呑まれておるな)
突然の隆房の醜態に、元就は呆れた。酒の所為と言ってしまえばそれまでだが、あまりにも迂闊であった。その行動が、元就への信頼からきているとしても、である。
「隆房殿、酒は程々になされ。人間誰しも鬱憤はたまるもの。己を見失ってはなりませぬぞ」
「そうだ、元就殿。元就殿は……酒を呑まないと聞いております。酒は甘露じゃ、何故やせ我慢する?」
隆房は虚ろな目つきで、元就に詰め寄る。
「某の父と兄は、共に若死にしておりますが、二人ともよう酒を呑んでおりました。特に兄は浴びるように呑み、二十五で亡くなりました。過度の酒は、命を縮めることになりましょう」
「ほう……さすがの元就殿も、死ぬのが怖いのか?」
そう言った隆房の表情には、やや揶揄する雰囲気が感じられた。
「もちろん、戦場で死することは恐れはいたしません。しかし、酒に殺されることは迂闊な者のすることでございましょう」
「迂闊?」
「一国の守護代であり、王を補佐する立場でありながら、一国人領主のもとに酔って現れ、内々の愚痴を言う。しかも共も連れずに一人で来たとあっては、その立場上危険この上ない。これを迂闊と言わずしてなんと言いましょうや」
「……」
はっきりした元就の物言いに、隆房は黙ってしまった。しばらく元就を見つめていた隆房は、
「そんなものですか」
と呟き、小声で「失礼する」と言って、陣屋を出て行った。
入れ替わる様に、酒と肴を運んできた隆元が入って来る。
「隆元……隆房殿は、かように酒癖の悪い御方であったのか?」
「私が山口にいた頃から、酒はよく呑む御方でした。しかし、今日ほど酔われているお姿を目にするのは初めてでございますが……」
隆元も困惑した表情を浮かべる。
「やはり、鬱憤がたまっておいでなのでしょうか? 近頃はもっぱら、田子様が全てを差配しているとも聞いておりますし……」
「其は別儀であろう。隆房殿がまだ若いのは仕方がない。しかし、我ら国人の命運は大内に懸かっておるのだ。その要となる隆房殿には今一つ、大人になっていただかねば困る」
元就はそう言いながら、内藤興盛の言葉を思い出していた。元就に隆房への助言を頼んできた興盛の心情は、こういう状況にもあったのかも知れない。
(愛し合った男女ですら、こじれれば余計に憎みあうものだ。男同士となれば、さてどうなるか……君臣の間に、いらぬ亀裂が入らねばよいが……)
隆房は義隆の寵童であった。それが今後の君臣の関係にどういった影響を及ぼすのか、それは元就にもわからなかった。




