第三十話.誠久対興経
隆宗は藤兼の去った後、呆然と立ち尽くしていたが、我に返って家臣を呼び、慌てて撤退を命じた。しかしその撤退速度は、明らかに益田勢より遅れていた。
「なんだ、何の騒ぎだ」
「敵? なんで敵勢がいるべ」
洞光寺に取りついていた平賀勢先鋒の足軽たちは、事態がまったく飲み込めていなかった。
彼らが気づいた時には、黒赤の武者集団はあっという間に肉薄し、先頭を行く三十騎衆の黒馬が、一瞬で足軽の首をはねた。
ゆっくりと宙を舞って落ちる生首を見た平賀勢は、一瞬の間を置いて恐慌状態に陥り、統制の利かなくなった平賀勢はばらばらの方角に逃げ出した。
平賀の侍大将は大声を張り上げ部隊の鎮静化に努めたが、黒赤の旗の恐怖はそれを遥かに凌ぐものだった。勢いに乗る新宮党の軍勢は、その逃げ惑う敵勢を容赦なく踏み潰していく。
陣を出た隆宗は、家臣に守られて山道を逃げた。味方の断末魔が、徐々に近づいてくる。
「わ、我が郎党共が……」
「殿が生き残れば、再起も叶いましょう。お早く!」
「こんなことになるなら、父の言う通り尼子に与しておれば……」
隆宗は臍を嚙んだ。
平賀家も他の国人領主と同じように、大内に与するか尼子に与するかで意見が分かれていた。その争いは大内派の祖父、弘保と尼子派の父、興貞の間で合戦に発展し、隆宗と弟の広相は祖父に与して父と戦う事態となった。
結局その合戦は、尼子の毛利攻め失敗の影響があり、義隆の命を受けた元就の介入もあって大内派の勝利となった。
父、興貞は出家し、隆宗が若年ながら家督を継いでいたのである。
「今はそれを言っても詮無き事でございましょう。もう我らは、大内にすがる他ないのです」
「ああ、弱小領主の悲しさよ!」
そう嘆く隆宗の後ろに、土煙を上げる新宮党の騎馬が迫ってくる。
「もはやこれまでじゃ! 草むらに入れ」
「何と?」
「腹を切る! 介錯せよ!」
隆宗は自棄になって叫んだ。
「諦めてはなりませぬ!」
「この首、尼子に渡してなるものか。貴様らは我が首を頭崎城へ持って帰れ。その後は弟の広相を支え、尼子に復讐するのだ」
「と、殿……!」
涙を浮かべる家臣たちが、一人、また一人と馬首を返した。少しでも時間を稼ごうと、捨て石になるためである。
「皆、すまぬ!」
隆宗もまた、涙を流した。
そうこうしている内に、平賀勢の最後尾に追いついた新宮党の騎馬武者が、平賀勢の後衛をなぎ倒し始めた。馬上槍で貫かれた兵が、血反吐を吐いて倒れていく。
新宮党の勢いは、隆宗の予想の遥か上であった。時間を稼ごうとした家臣たちもあっという間に倒れ、血しぶきがあがる。一方的な、殺戮となった。
「せめて、一太刀……」
絶望した隆宗が捨て身の特攻をかけようとした丁度その時、周囲の木々が一瞬騒めいた。
次の瞬間、新宮党の横腹を突くように、騎馬の一団が林から姿を現した。続けて槍を並べた足軽が、新宮党に突撃をしかける。
「今鎮西、吉川興経見参! 死にたい奴から前に出ろ!!」
騎馬の先頭に立つ興経が、大音声で叫びながら槍をしごく。突然の吉川勢の来襲に、さしもの新宮党も浮足立った。
「おお、吉川殿!」
隆宗は瞳を潤ませて興経に近づき、その顔を見つめる。
「生きておったか、平賀。とっとと退却せい」
「かたじけない。恩に着ますぞ」
何度も繰り返し頭を下げる隆宗が乗った馬を、興経はうんざりした表情で蹴り飛ばした。
驚いた馬は一度両方の前足を上げ、一目散に退却していった。平賀の生き残りの家臣も、それに続く。
「やれやれ、弱い奴の尻ぬぐいも疲れるわい」
「殿、如何なさいますか……我らもすぐに退却いたしますか?」
側近の二宮経方が、興経に尋ねる。
「洞光寺攻略が失敗した以上、ここにとどまる意味もないが……このまま退却してもつまらんな。新宮党を少し、捻ってやるのも悪くない」
洞光寺攻略以前に、興経には尼子との密約がある。正面切って新宮党と戦う理由はなかったが、興経はうずうずしていた。久しぶりの本格的な戦なのである。
「御意にございまする。世人は新宮党を天下無双と誉めそやしますが、我らとて劣るものではございませぬ。ここは一つ、天下に吉川ありと見せつけてやりましょうぞ!」
二宮経方の隣にいた、手島興信が吠える。常々、新宮党だけが剛勇の代名詞のように人々に語られることに、不満を抱いていたのだ。
「ならば一つ二つ、首を頂いていくとするか」
「殿、その首が誠久の首でもよろしいか?」
経方と興信の間から出てきた大男が、そう言う。
「もちろんじゃ。すべては戦場で起こったことよ」
「御意。誠久の首、ねじ切ってご覧にいれましょうぞ」
その大男、鈴木太郎左衛門は、吉川家随一の怪力の持ち主であった。太郎左衛門は両手で首を折る仕草をして大口を開け、大声で笑った。
その時、黒い塊が太郎左衛門の口に飛び込んだ。
刹那、風を切る轟音と衝撃音が響き渡る。興経の視界から太郎左衛門が消え、背後の巨木に衝撃音とともに打ちつけられた。
興経が視線を動かすと、一本の黒い槍が太郎左衛門の口から後頭部に突き抜け、大木に突き刺さっていた。吊るされた太郎左衛門は一度だけその巨躯を痙攣させ、ちぎれかかった口からは血が噴き出し、興経の頬を濡らした。
それを手で拭った興経はわなわなと震え、目を剥いて叫ぶ。
「な、なんじゃこりゃあ!!」
槍の飛んできた方向を見ると、新宮党の軍勢の中に一際覇気を放つ男がいた。その男は次の槍を受け取りながら、興経を見てにやりと笑った。
その表情を見てかっとなった興経は、家臣の制止を振り切って槍を構え、駆け出した。遠目ではあるが、その男が何者かはわかっている。先程のような人間離れした技をできる者が、何人もいていいはずはない。
その男も興経を見て、槍を構えて巨大な黒馬を走らせてきた。新宮党の者たちはそれを制止する気配はない。
「安芸新庄の吉川興経だ。貴様も名を名乗れ!」
単騎で近づいてきた男に、興経が叫ぶ。
「新宮党誠久」
誠久は短く答えた。
「おお、やはり新宮党の誠久殿か。久しいな……興経だ」
興経は一転して笑顔を見せた。誠久と交流があったわけではないが、元々尼子に属していた興経である。先の毛利攻めに際しても、何度か顔を会わせていた。
「知らぬな」
誠久は、首を傾げた。
「……なんだと?」
興経の額に青筋が浮く。
「匹夫の名など、一々覚えているものか」
「ほざいたな!」
一瞬で激怒した興経は、槍を構えて躍りかかる。その激しい一撃を軽くいなした誠久は、馬の腹を蹴って走り始めた。興経もそれを追い、並走する。
「天下に豪傑は自分一人とでも思っているのか! その思い上がり、正してやろうぞ!」
興経は、わざと誠久の挑発に乗ったつもりでいた。しかし、この認識は間違っていた。
誠久は、本当に覚えていないのだ。この男の他者への関心は、その程度でしかない。ましてや駆け引きなどまったく考えていなかった。その点で言えばまだ、興経の方が常識的ではあった。
互いに単騎で並走する両者は、一撃二撃と槍を合わせる。斬撃が繰り出される度に甲高い金属音が鳴り響き、飛び散る火花が薄暗い山道を照らした。
(これは予想以上だ。誠久がこれほどとは……)
興経は内心で舌を巻いた。誠久の槍は、この男がこれまで受けてきた中でも間違いなく一番の斬撃であった。そもそも興経と、互角に戦える相手すら稀であったのだ。
「やるな」
そう呟く誠久も同様であった。久々の血湧き肉躍る感覚に、ぎらぎらと瞳を輝かす。
次々と繰り出される攻撃に、興経は次第に己が押されていることを感じ始めた。
誠久の攻撃は、的確に人間の急所を狙ってきた。無駄な動きが一切なく、体力のみならず精神力まで削ってくる。その槍は、興経を殺すことにまったく躊躇のない攻撃であった。死の予感が、その脳裏を掠めた。
「お、おい! ちょっと待て!」
思わず興経は叫んだ。
「俺は興経だ! 吉川興経だぞ!? 敵でないことはおぬしも知っておろう。俺にもしものことがあれば、裏切りの策は成り立たんのだぞ!」
この言葉を発するのは、興経にとって屈辱であった。相手に言わせたい言葉だったのである。しかしこれをあっさり言えるところは、興経の強味でもあった。
しかし誠久は、表情を変えない。
「それがどうした」
「なにぃ!」
「戦場では別儀よ!」
誠久の槍さばきは苛烈さを増した。受け損ねた刃先が何度か興経の頬を掠め、僅かに鮮血を飛ばした。
(このままではまずい……こいつは、本気で殺る気だ!)
興経は誠久の槍を紙一重でかわしながら、何とか活路を見出そうと辺りに視線を走らす。しかし、すでに二宮経方や手島興信ら家臣からは距離が離れ、その救援は求められそうもない。
二騎が並走する山道の興経側は、茂みの向こうが崖になっているようであった。
いよいよ槍を持つ手の痺れが限界に達した興経は、腹を括った。
「ええい、ままよ!」
興経はそう言い様、茂みに飛び込んだ。誠久はそのまま山道を真っすぐ進み、追ってくる様子はない。茂みを抜けると、急に天と地が逆さまになる。
興経はそのまま、馬と共に崖を滑り落ちた。
敬久は別動隊を率いて、誠久と別の山道を進んでいた。
上の山道から、鬨の声が聞こえてくる。
「誠久兄は、上か」
「我らが新宮党の精鋭をもってすれば、あっという間に敵を殲滅いたしましょう。どうやらこちらの出番はなさそうですな」
直臣の吉田広国とそんな会話をしていると、突然目の前に大小の岩が転がり落ちてきた。それに続いて、人間と馬まで転がり落ちてくる。
落ちてきた男は、しばらく苦し気な表情で唸っていたが、呼吸を整えるとかっと目を見開き、立ち上がった。
「……どうやら天は、俺に味方したらしいな」
そう言ってにやりと笑った男は、抱えていた馬を立ち上がらせた。驚いたことにこの男は、馬を守って滑り落ちていたようだ。
唖然としていた敬久は、慌てて弓を構えた。その男には見覚えがあった。
「……吉川興経か?」
「誰だ、貴様は」
「新宮党敬久だ」
「……ふん、弟か」
興経は不遜な笑みを浮かべた。その表情は、どこか満足気である。
「ならば弓を下ろせ。俺が敵でないことを、知らぬとは言わせんぞ」
その頭ごなしの言い方に敬久も内心むっとしたが、国久に念を押されていたこともある。警戒しながらも、やむなく弓を下ろした。興経ら内応者を、殺すわけにはいかなかった。
「そうだろう。普通は、そうだ」
興経はぶつくさと呟く。やがて向こうから、吉川勢がやって来た。
「殿、御無事で!」
「当たり前だ。俺を誰だと思っている」
興経は、駆け寄ってくる興信に粗雑な言葉を投げる。
「太郎左衛門の首は拾っているだろうな?」
「抜かりなく!」
「よし、退却するぞ!」
馬に跨った興経は吉川勢と合流し、少し走ったところで振り向いた。
「……おい、弟!」
興経が不敵に笑う。
「お前の兄貴は、阿呆か?」
「なんだと!」
かっとなった敬久は、咄嗟に弓を引き絞り興経に矢を向けた。それを見た興経は天に向かって大声で笑い、背を向けて悠然と去っていく。
ぎりぎりと歯を食いしばり弓を引く敬久は、視線の先にいた興経から僅かに狙いをそらし、渾身の矢を放つ。空気を切り裂いた矢は鋭い矢音を立て、興経主従の横を通り抜けた。
「恐ろしく速い矢でございますな。刺さればただではすみますまい」
興信は素直に感心した。
「ふん……速いだけの矢など、曲芸と同じよ。俺の弓矢の足元にも及ばぬわ。そもそもあの弟には、誠久のような心胆を寒からしめるようなものがない。威圧されて弓を下ろすような甘ちゃんに、俺を殺る根性などあるものかよ」
「しかし、あの誠久の槍さばきには、我らも胆が冷えましたぞ。よもや殿が、ああも押されるとは……」
経方は、遠慮なく言う。
「……そもそも俺は、槍が一番苦手なのだ。槍より刀、刀より弓だ。それならば、不覚はとらん……まあ、誠久が強かったのは認めてやるが」
強がりともとれる言葉で返した興経は、大きく乗馬の腹を蹴った。逃げるために主人に守られた馬は一際大きな声でいななき、その速度を上げた。
興経ら吉川勢が去った後、敬久の後方からゆっくりと誠久がやって来た。
「後方で待機しろと言っていたはずだが?」
「申し訳ございませぬ。少しでもお役に立とうと……」
「興経が来たであろう」
誠久は遮るように言う。
「はい」
「逃がしたのか?」
「……はい」
敬久は兄の怒りを承知で、短く答えた。父の言葉を理由にした言い訳も、誠久には通用しないだろうと思ったからだ。
しかし意外にも、誠久は怒りを見せなかった。
「興経の存在が尼子を守るというなら、此度は見逃してやる。しかし、次に戦場で敵として会った時は……敬久、貴様も命がけで奴と戦え。負けは許さぬ」
「はっ!」
誠久は、頭を下げる敬久をほとんど見ることもなく、全軍に引き上げを命じた。
洞光寺は、新宮党により守られたのである。




