第二十四話.屈辱
十月の半ばに三刀屋ヶ峰に進んだ大内軍は、十一月にはさらに大原郡に進出し、周辺を制圧しながら月山富田城に迫る気配をみせた。
しかしこの年は、嵐の激しい年であった。
続けざまにやって来る嵐は大軍の進軍を阻み、北方の馬潟にある正久寺に嵐を避けて入った義隆は本陣をこの寺に置き、嵐が過ぎるのを待った。大内に属する各軍も、正久寺周囲に駐屯し時を待つ。
大内軍が北上する途上には尼子十旗の牛尾城や熊野城があったが、牛尾氏や熊野氏は軍勢を率いてすでに月山富田城に入っており、大きな戦が起こることもなく大内軍は尼子領を引き裂いた。
嵐が過ぎ去り、再び軍勢を整えた頃には、すでに十二月に入っていた。冬を目前にした義隆は、このまま正久寺で年を越すことに決めた。雪の季節に入ると、軍の進軍はままならないからである。
馬潟は、中海と宍道湖をつなぐ河川の南岸に大きな港町があり、尼子氏の庇護を受けて栄えていた。すでに尼子の気配が消えたこの町は大軍の補給にもうってつけであり、正久寺から港町に至るまでの道は、大内軍であふれ返った。
馬潟の町の姿もまた、様変わりした。
夜になると、大内の兵たちに身を売る女たちや大量の酒を売る商人、博打の元締めなどが集まった。その中には、わざわざ堺からやってきた商人までいて、馬潟は一時期、諸国に聞こえる大きな賑わいを見せることになった。
この頃の大内軍は、長陣による軍士気の低下が顕著になっていたが、義隆は兵士の憂さ晴らしに金を惜しまなかった。兵たちは一時の快楽に望郷の念も忘れ、厭戦気分もどこかへ吹き飛んだように見えた。すでに出雲の大半は、大内の傘下に入った感があった。
この大内の着実な侵攻に、尼子はなす術もないように思われた。諸国からも、大内の勝利は確実と思われていたのである。
正久寺の義隆は、芸能三昧の日々を送っていた。
大内に寄生する公家たちは、春先の瀬戸山城攻めの頃には山口に戻っていたが、義隆が正久寺に腰を据えたことに伴い、再びその許に呼び戻されていた。
気位の高い公家たちも、流石に義隆の要請を断ることはできない。しかし戦を嫌う彼らからすれば、冬が過ぎるまでの休戦期間の出雲入りは物見遊山のようなものであった。
義隆が山口から呼んでいたのは、公家たちばかりではない。お気に入りの寵童もまた、幾人かが本陣に呼びこまれていた。
義隆は正久寺に多額の寄進をし、この寺はさながら彼の別館の一つのようになっていた。対尼子の最前線でありながら、お気に入りの公家と寵童に囲まれた生活を義隆はそれなりに楽しんでいたのだ。
しかしこのような生活に、鬱々としている者もいた。
義隆の養子で、大内家の後継とされている晴持である。
彼は戦が嫌いであった。できればもう山口に帰りたい。しかし彼が大内の家督を継ごうとするならば、この大戦の経験は避けては通れなかった。
義隆は、王ならば武人としても一流であらねばと思っている。この王の武人としての力量が優れているかはどうかは、大いに疑問が残るところではあるが、少なくとも義隆自身は武人であろうとしていた。
義隆も戦は好きではない。しかし、彼には大内義興という模範となる父がいた。七か国守護となり、軍勢を率いて上洛し、将軍を補佐して天下を差配したこの父こそが、義隆の王の理想であった。この父に近づくために義隆は、武人であらねばならない。だからこそ、晴持にもそれを求めているのである。
晴持は眉目秀麗で芸能教養に通じ、名門一条家の血筋もあって義隆の寵愛を一身に受けている。しかし、彼は実子ではない。甥という立場は、跡継ぎとして盤石ではなく、王である義隆の不興をこうむることがあれば、廃嫡もありえる立場であった。
義隆には跡継ぎとなる実の男子はいなかったが、甥は晴持の他にもいた。姉が豊後大友氏の二十代当主、義鑑に嫁いでおり、嫡男である義鎮と次男、八郎を生んでいた。
もし義隆が大内の後継ぎとして次男の八郎を欲することがあれば、父である義鑑は喜んでこれに応じるだろう。つまり晴持には、義隆の寵愛を失うわけにはいかない状況がまだあったのである。
その晴持は今、正久寺の一室にいた。
彼の眼前には出雲の地図が広げられている。その向こうには隆房がいて、地図を指し示しながら、出雲の状況を説明していた。その話を聞き流しながら、晴持は大きな欠伸をする。
「……若君、ちゃんと聞いておられますか?」
「聞いておる……聞いてはおるが……隆房、もう飽きたぞ」
晴持は不機嫌そうにそう答える。
この日、晴持は朝から兵法書の指南を受けていた。これは、義隆が孫子に明るい元就に教えを請うたもので、先程までこの義隆が執務を行う一室で、孫子の注釈が行われていた。その後、義隆は元就を伴って所用に出たが、晴持は残って隆房に現在の出雲の状況と戦術について説明を受けていた。
「若君……先程、元就殿も言っておりました。敵の情を知らざる者は不仁の至り。我らは日に千金を費やして、出雲の動向を探っております。上に立つ者がそのあらましを理解せずして、勝利を掴むことはできませぬ。今の出雲の現状と今後の戦略は、必ず頭に入れていただきますぞ」
隆房は、静かにそう言った。陽が差す明るい部屋には、二人の他に内藤興盛と杉重矩がいる。
「実際に戦の采配を振るうのは誰じゃ?そなたらであろう。余がそこまで考える必要はあるまい」
その晴持の問いに、重矩が答える。
「まあ若君、そう仰るな。若が戦の事を学ぶのは、お屋形様の御意思でござるぞ。従わねば、御立場も悪くなりましょう」
「……なんじゃと?」
その重矩の言葉に、晴持が顔色を変えた。
晴持の立場は、義隆の寵愛によって成り立っている。それは当人もわかっていたが、だからこそ他人に言われると腹が立つ。初めから機嫌が悪いとなれば、尚更であった。
「それはあれか?余に大内を継ぐ器量がないと申すか。いつでも挿げ替えることができる、人形だとでも申すか!」
「い、いや、そういうわけでは……」
予想以上の怒気に、重矩はしどろもどろになって否定する。長陣が続く状況に、晴持の不満は頂点に達していたのだ。
「……隆房、白湯を持て」
その晴持の言葉に、隆房は障子の向こうにいる家臣に白湯を持ってこさせようとする。
「貴様に言っておる。貴様が持ってこい!」
怒りが収まらない晴持は、隆房にも怒号を浴びせた。隆房は無言で部屋を出て、白湯を晴持に持ってきた。
「大体、貴様ら武断派は口ばかりだ。勇ましいことばかり言って、いつまでも出雲を取れんではないか。こんな長陣をして、いまだ月山富田城にまでたどり着けんとは……本国で武任が笑っておるわ」
その晴持の言いように、隆房は形のいい眉を動かした。武任の名が出てくれば、反論せねばならない。
「所詮、本国の文治派は戦を知らぬ者どもでございます。その中心たる相良武任は、金策ばかりに長けた商人のような男で、武士とは申せませぬ。あのような男は、戦場ではなんの役にも立たないでしょう」
「貴様が言うその、役に立たん男の方針に、父上は従っておるではないか」
「……どういうことでございましょうか?」
隆房は、怪訝な表情を浮かべる。
「なんだ、知らなかったのか」
晴持は内心しまったと思ったが、もう止まらなかった。隆房らに対する憎らしさが上回ったのだ。
「これを見よ」
晴持は、部屋の隅にある箱の中から何通かの書状を取り出した。この一室は、普段義隆が執務を行っている場所なのだ。
晴持から受け取った書状に、隆房が目を通す。
「……これは!」
書状を持つ隆房の手が、わなわなと震えた。
その書状は、山口にいる武任が義隆に宛てた書状であった。その内容は、出雲を進軍する際の注意書きから補給、攻城戦の行い方まで多岐にわたっていた。どうやら、義隆からの書状に対する武任の返書であるらしい。
隆房が衝撃を受けたのは、義隆の決めた方針がことごとく武任の書状の助言に従っていることであった。中には瀬戸山城の迂回策に反対し、隆房らの攻城策を採用するように進めている書状もあった。
(あの時、お屋形様が翻意なされたのは……そういうことか)
その書状にはまた、勇敢に戦った国人衆に対して寛容であるべきとも書かれていた。隆房の信直を処罰すべしという意見が通らなかったのは、このためであろう。
この戦が始まってから隆房は、様々な献策をしていたが、その全てが採用されたとは言い難い。しかし義隆は、武任の書状にある助言のほぼ全てに従っていた。それが隆房にとって、これ以上ない屈辱であることは言うまでもない。
「この書状は、貴様らの無能を示すものではないか。雁首そろえて父上の周りに侍るだけで、何の役にも立たぬ。そんな者どもから兵法を学ぶなど片腹痛いわ」
晴持はそう言って、顔を隆房に近づける。
「……兵法を若君に授けよとは、お屋形様の命にござる。従っていただく」
「まだ言うか!」
怒りを抑えて静かに呟く隆房に、晴持が叫んだ。手を大きく振った反動で、持っていた扇子が隆房の額に強く当たる。白く大きな額に、赤い線の痕が残った。
「あっ!」
当てるつもりのなかった晴持は、隆房の表情を見て怯んだ。その瞳が怒りに濡れていたからである。
「と、とにかく……今日はもう疲れた、終いじゃ!」
そう言った晴持は、逃げるように部屋を出て行った。部屋に残された三人の間を沈黙が支配する。
「……やれやれ、お屋形様も酷なことよ」
しばらくの後、興盛が誰に言うとなくそう呟いた。
隆房は拳を握りしめたまま、立ち尽くしていた。




