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新宮党の一矢  作者: 次郎
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第十話.尼子と毛利

 安芸を進軍する大内軍は、道々兵力を増強しながら、吉川氏の本拠地新庄に入った。山口から帰国していた興経が、吉川軍の主力を率いてその叔父、経世と合流してくる。

 興経には、もう一人叔父がいた。宮庄を所領とする、宮庄経友である。この叔父は、大内派の経世と違って尼子と親しくしている人物で、吉川家中の尼子派の中心人物であった。やはり尼子を討伐する、今回の遠征には加わっていない。

 そんな吉川家の興経と経世が、毛利の陣にやってきた。

「ようやっと来たか、経世」

「義兄上、やっと共に轡を並べる時が来たぞ。ついに尼子の支配から、離れることができるのだ」

 経世は満面の笑みを浮かべた。その顔は、この上なく清々しい。吉川家中の大内派の家臣からしてみれば、やはり宿願だったのだろう。

 その後ろに興経がいる。その姿は、どこか落ち着かない。

「どうした、興経殿?」

「……いや、先日まで敵同士だったわけだからな。敵陣にいるようで、落ち着かぬわ」

 興経は、元就の問いに大きな体を縮める。武勇抜群で、今鎮西とも言われる興経が縮こまっている姿は、どこか滑稽ではある。

「それはもう、過去の話だ。興経殿、此度はよく決断してくれた。毛利と吉川は縁続く間柄、これで心置きなく尼子と戦えるというものだ。美国や隆家殿も、喜んでおった」

「伯父上と叔母上には、今後とも世話になる。まあ、よろしく頼む」

 そう言った興経の目が、隆元に止まる。

「おお、そこにいるのは隆元殿か。いや、我らは従兄弟同士、末永く仲良くやっていこうではないか。聞くところによると、弟の少輔次郎は元服前ながら、とんでもない膂力らしいな。あって力をみてやるのが楽しみだ」

「……今後とも、よろしくお願いいたしまする」

 どこか調子のいい興経の言葉に、内心不快感を感じながら、隆元は慇懃に返す。歳は五つほど、興経が上であった。

 元就はそんな二人の様子を見ながら、かねて抱いていた懸念を口にする。

「興経殿、確認しておきたいことがあるのだが……」

「なんだ?」

 興経には、年長者に対する気遣いなどない。

「尼子経久は、本当に死んだのか?」

「……!」

 その瞬間、明らかに興経に動揺が見られた。大きく体を震わせる。

「どうした?」

 元就は、怪訝な表情で興経の様子を窺う。

「……伯父上も、わかるだろう。経久公の名を聞くと、未だに震えが止まらん」

 興経はそう言って、両手で己の頬を二度三度と叩いた。無理やりに震えを止めた興経は、ゆっくりと口を開く。

「……俺も、死んだと聞いておる。もう随分前から耄碌して、誰が誰だかわからなくなっていたという話だ。そもそも、経久が死んだからこそ、俺は大内に来たのだからな」

 やはり興経ら鞍替え領主の心を動かした最大の要因は、経久の死にあるようだった。元就は興経の震えを、経久への恐怖だと感じた。

 元就は、在りし日の経久の姿を思い出す。彼にとっても、謀聖経久は畏怖の対象であった。

 永正十四年(一五一七年)、安芸の旧守護である武田氏の当主武田元繁が、安芸の勢力回復を目論み、吉川氏の有田城を攻めた。

 元繁は元々、安芸に勢力を伸ばそうとする経久を牽制する目的で大内義興から派遣されていたが、これを武田氏復権の好機とみた元繁は、経久と手を組み、その後援を受けていた。当時大内側に属していた毛利と吉川は、義興の命を受け、連合を組んでこれに当たった。

 武田元繁は智勇に優れた名将で、かつて漢の高祖劉邦と覇を争った、楚の項羽に比肩する武勇の持ち主として、恐れられていた。その上、安芸の旧守護という大義名分もあり、状況は武田側に有利であった。

 しかし初陣であった元就は、この戦いでこの元繁や、同じく剛勇として知られていた熊谷元直らを討ち取った。この時の元就はまだ当主ではなく、兄興元の遺児である、甥の毛利幸松丸の後見人の立場であったが、その名は一躍有名となり、この戦いは後の世に、西の桶狭間と呼ばれるようになる。

 この戦いの時、大内義興は京にいて将軍義稙を補佐していたが、尼子側の攻勢を抑えるために翌年山口に帰国した。武田元繁が討ち死にした後も、尼子の調略は続いており、安芸の国人領主たちは経久の圧力を受け続けていたのである。

 これにまず、吉川が耐えられなくなった。興経の祖父であり、吉川の中心であった国経の妹は経久の正室であり、元々縁が深い。その国経の主導で、まず吉川が鞍替えした。

 次第に毛利も、その尼子の圧力に抗いがたくなっていった。国経の嫡子、元経の妻は元就の妹で、興経を生んだばかりであった。その縁もあって、国経や元経の説得を受けた毛利は、ついに尼子に鞍替えすることになった。この時国経は経久の命を受けて、娘の美国を元就に嫁がせている。

 大永三年(一五二三年)、尼子方に与した毛利と吉川は、早速大内方の鏡山城を攻めた。大内方の大将は城代として派遣されてきた蔵田房信で、副将としてその叔父、蔵田直信もいた。房信らは城を固く守り、鏡山城は容易に落ちる気配をみせなかった。

 そこで元就は、叔父であり副将である、蔵田直信に調略を仕掛けた。蔵田家の家督を継がすことを条件に出して、当主である甥、房信を裏切らせたのである。直信は城内へ尼子勢を手引きし、大将房信は、妻子と城兵の助命を条件に自害した。

 この鮮やかな調略を、経久は喜ばなかった。妻子と城兵の助命という房信の願いは聞き入れたものの、元就が約束した直信の家督相続を反故にした上で、主家への不忠を理由に、直信を処刑した。

 経久はこの調略を元就の勝手と断じて、毛利家には何の恩賞も与えなかった。

「不忠につけ込む謀略など、武士のすることではない」

 その自らを棚に上げた経久の言葉に、元就の名声も地に落ちた。内実、経久は簡単に調略を成功させた元就を警戒した。そして元就も、経久陣営にいることを危惧するようになる。

 この戦いの後、元就と共に参陣していた甥の毛利家当主、幸松丸が病死した。鏡山の戦場での首実検で、生首をみて卒倒した後、遂に床から立ち上がることができず、うなされながらの最後であった。戦国の世に生まれたのは、この少年の最大の不幸であったに違いない。

 幸松丸の死によって、急遽毛利家に後継者問題が浮上した。有力なのは次男の元就と、三男の相合元綱である。毛利が尼子に臣従する以上、経久に伺いを立てねばならない。元就を警戒する経久が、元綱を推すのは当然の成り行きだったが、尼子側の提示は、その上をいくものであった。

「毛利家は安芸の要で、重要な家である。よって儂の一門、新宮党国久の次男、豊久を養嗣子として遣わそう。皆、豊久に服すように」

 毛利家臣団は、仰天した。しかしこれは、あり得ない話ではない。経久は出雲全土を手中に収める過程において、次男国久を吉田氏に、三男興久を塩冶氏に養子として送り込み、両家を乗っ取っていた。どちらにも、家を継ぐ男子がいたのも関わらずである。経久には、その無理を通す力があったのだ。

 毛利家中は、元就の相続を願う者が多かったが、元綱を推す者も少なからず存在した。しかしこうなっては、元就派と元綱派で争っている場合ではない。家が乗っ取られるかもしれない危機なのだ。しかし今や尼子は毛利の支配者であり、経久の意向を無視するわけにはいかない。

 絶体絶命の状況の中、執政の志道広良が起死回生の一手を考案した。京に使いを出し、将軍から相続の御内書を受けようというのだ。衰えたとはいえ、将軍の決定であれば、さすがの尼子も表立って文句は言えないだろう。

 しかしそうなれば、筋目の話になる。正室の子で次男の元就、側室の子で三男の元綱、どちらが将軍家の理解を得られるか。話は自ずと、元就相続と決まった。

 直ちに家臣の一人、粟屋元秀が神仏詣と称して上京した。もちろん、多くの献上品を携えた上で、である。困窮していた将軍義晴は、あっさり元就相続の御内書を出した。

 毛利は尼子の準備が整う前に、将軍のお墨付きを得ることに成功した。元就は出雲に、事の成り行きを説明する使いを出した。

「経久公の御意向に従うよう、家中の統率をして参りましたが、誰が知らせたか噂かこれがすでに幕府に伝わり、思わぬところで将軍義晴公の、元就が相続せよとの御内書が届きました故、恐れながらこれに従うことと相成りました」

 経久は承知したが、内心はらわたが煮えくり返る思いであったに違いない。将軍家が、一国人領主の相続などにいちいち口を出すはずはない。しかし経久も守護である以上、大義には従う他ない。経久と元就の間の不信はまた増大したが、一応、事はうまく運んだかに見えた。

 しかし経久の他にも、収まらない者がいた。元就の弟、元綱である。思わぬことであっさり元就の相続が決まり、後継争いも辞さずと考えていた元綱の心には、まだ炎が燻っていた。

 そんな元綱に、経久が近づいた。新宮党豊久の毛利の家督相続は名目上のことであり、実権は後見人の元綱が握る。そんな譲歩案に、元綱は迂闊にも乗った。

 幼い頃から、何かにつけて元就と比べられてきた元綱は、元就に反感を抱くようになっていた。側室の子という負い目もあり、何とか元就に勝ちたいと願うようになっていた彼の心に、経久は付け込んだのだ。

 元綱の謀反を察知した元就は、やむを得ず先手を取って元綱を誅殺した。弟を頼りにしていた元就にとっては、痛恨の結果となった。この出来事は元就の心に大きな傷を残し、毛利が尼子から再び大内に鞍替えする、決め手となったのである。

 元就にとって経久の傘下にいた日々は、気の休まらない日々だった。常に国人領主に圧力をかけ、隙あらば家を乗っ取ろうとする。吉川も長年、その重圧を受けていたことは間違いない。興経の感じた恐怖は、元就も身をもって知るところであった。

 

 この日の夜、元就は経世と二人だけで酒を飲んだ。

 父弘元と兄興元は、大酒のみだった。国人小領主の悲しみを酒で紛らわし、どちらも若死にした。そんな二人を見て育った元就は、酒を飲まない。付き合いで初めに少し口をつけ、あとは好物の餅を頬張る。

「しかし、あの経久公がお亡くなりになるとはな。不死身かとも思っていたが」

 その経世の感慨は、元就も同じだった。元就が物心ついた頃から尼子経久は壮年であり、それが六十になっても七十になっても衰えない。元就や経世の世代からみれば、その壁は永遠に立ちはだかるように見えた。

 その経久が、死んだ。

 大内と尼子の争いは、振り子のようだった。その度に安芸の国人は右に左に揺れ動き、傍から見れば、信義のない人々に見えたに違いない。それも全ては、生き残るためであった。そんな世界で子を嫁に出し、人質に送り、養子に送り、受け入れてきた。安芸の複雑な重縁は、信義に頼れない人々の苦渋の選択の歴史であり、時にそれが悲劇の温床となった。

 しかしそれも終わる。たとえ今回の戦で尼子を滅ぼせなくとも、安芸の諸勢力は大内一色となるだろう。安芸の国が、経久の幻影を振り払う時がきたのだ。

「……恐ろしい人であった。恐ろしい人であったが……」

 元就は、言葉を飲み込んだ。

(もし儂が心を鬼にして、経久公と同じことをしたならば……)

 毛利は、安芸の王になることができるのだろうか?

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