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ベン・ロブリーを殺した後、純は人気のない道を通ってアパートの自宅に帰り、こそこそと玄関扉を開けた。
「純? どうしてそんなこそ泥みたいな動きをしているのですか? いつもみたいに普通に入ればいいじゃないですか」
エインセルに尋ねられると、純は慌てふためいてスマホの入ったポケットを押さえた。家の中は暗く、廊下の電気は消えている。ドアの閉まった個室から漏れる光だけが、ぼんやりと輝いていた。
純は息を殺して、じっと家の中の物音に耳を傾け、誰の足音もしないことを確かめてから、ひそひそ声でエインセルに言った。
「声を小さくしろ! 親父が部屋から出てくんだろうが! このボロボロの恰好見られたらどうすんだ!」
「あ。そうですね……。ごめんなさい。静かに行きましょう」
エインセルが小声になる。
純はゆっくりと動きながら、自分の部屋に行く前に、まずは父親の部屋の扉をノックした。
「親父……。今日、夕飯出前でいい?」
「ああ……。頼む……」
部屋の中から、生気のない声で返事が聞こえた。ドアの隙間からは、テレビの光だけが暗い廊下に漏れ出てきている。父は電気も点けず、テレビを見ているようだった。
純は台所にある脱脂綿や包帯で簡単に傷の手当てをした後、シャワーを浴びて血を洗い落とし、自分の部屋に入った。途端に、うめき声を上げてベッドに寝転がる。
純は鞄からスマホを取り出した。エインセルが入っているスマホではなく、元々持っていた自分のスマホだ。電話をかけて丼物の出前を二人分頼み、疲れ果てたようにベッドの上で大の字になる。
「純……。今日はお疲れさまでした。いろいろあって、疲れたでしょう?」
ポケットからエインセルの入ったスマホを取り出し、心配そうな顔のエインセルが映る画面に、純の疲れ切った目が向けられた。
「まあな……。っていうか、あれだな……。お前には、聞きたいことがいっぱいある」
「あなたが聞きたい事なら、私に分かる範囲でなんでも答えますよ。どんどん聞いてください!」
任せてくださいと言わんばかりに、エインセルはふんと鼻を鳴らす。純にとって得体の知れない存在であることに変わりはないが、それでも、エインセルに対する警戒心は彼の中から大分薄れていた。
「お前とあの爺さん。お前ら、何者? なんでお前らは俺のことを知ってんの?」
「あの方の名は、ラバン・シュリュズベリィ。かつてアメリカに存在した、ミスカトニック大学の教授だった人です。ラバン教授は、超越者と呼ばれるクトゥルフ神話に記された神の如き力を持つ地球外生命体やその技術を研究し、戦い続けていました。教授は私について、超越者から奪った特別な存在を、危険がないレベルにまで機能を制限し、人類にとって有用な機能だけを残して作り上げたと言っていました」
地球外生命体。純にはとても信じられた物ではない話だ。あの老人が宇宙人と戦っていたなど、なおさら嘘くさい。
「あの爺さんがねえ……。大体、あの爺さん老人ホームに戻っただろ。鈴木重雄って名前じゃねーの?」
「そんな名前じゃありませんよ。あれはラバン教授が早急に要件を済ませるために、あの施設の職員に催眠をかけただけです。あの後すぐに、老人ホームから脱出したはずですよ。あの方もブリンク能力を持っていますから」
「だったら、まずはあの爺さん……。ラバンに会うのが先決か。やつに協力してもらわないと、俺には何をどうしていいのか分からんし」
エインセルは暗い顔をして、静かになってしまう。
「おい、どうした?」
「……。ラバン教授は……、恐らくもう、生きてはおられないと思います」
「はぁ!? なんで!?」
「ラバン教授はもう、肉体的にも精神的にも限界に達していました。そんな彼が最期にあなたに遺したのが、この私なんです。きっとあの方は今頃、人知れずどこかで息を引き取っているに違いありません」
「いや、だからなんで俺……?」
「私があなたを選んだから、です……。私は機能を制限される前、全ての人間を観測していました。機能を制限された時、記憶もほとんど封じられたので、今ではその頃の記憶はほんの少ししか残っていませんが、私はその中で、あなたに特別な興味を持ったんです。そして、あなたをずっと見ているうちに、あなたなら、私の力を正しいことのために使ってくれると思って……。それを伝えると、ラバン教授は私をあなたに託すことに賛同してくれました」
「おいおい……。そんなことされても、困るって……」
偉大なるラバンは死んだ。
エインセルという、生涯を懸けた研究の結晶を、純に残して。
「純。教授は言っていました。あなたのような人間になら、私を託せると。あなたには目的があります。その目的のために、あなたは私や手に入れた力を使ってください。それはきっと、教授の目的と繋がるに違いありません。人間が超越者に脅かされることのない世の中を実現させる。教授とあなたの目的は、どこか似ていると私は思います」
「まあ……、ラバンとかいうあの爺さんの目的は知らんが、俺は俺のやりたいようにやらせてもらう。そのために苦労して、あの殺人鬼をぶっ飛ばしたんだからな」
純の机の上には、黒い手袋、ファイアスターターが置かれている。ベン・ロブリーを殺し、奪った武器。初めて人を殺したことへの罪悪感は、彼自身驚くほどなかった。相手が殺人鬼だったからか、平和を守る信念があったからなのか。純には、一日の間に起こった出来事が多すぎて、整理がつかなかった。
「世界が破滅するって言ってたよな。お前もベンも。そのクトゥルフってやつ、そんなにやばいやつなのか?」
「クトゥルフは宇宙から地球に降り立ち、太古の地球を支配していた旧支配者の中でも、最も危険な超越者です。クトゥルフが復活すれば、人類の文明はおろか、星一つ即座に破壊することができると言われています」
「どんな化け物だ……」
「詳細は不明です。深き者ども(ディープワンズ)や人間を恐怖と洗脳で支配し、陰から配下を増やしています。空の星々の位置が特定の場所に到達した時、クトゥルフは真の力を以て復活するとか」
「その時が、もうすぐ来るってことか……」
純は深く考え込んでしまった。エインセルは慌ててフォローする。
「で、でも大丈夫ですよ! ラバン教授は、以前核爆弾を使って、クトゥルフの復活を一度食い止めています! 今回だって、何か方法があるはずです!」
「そうか……。一度阻止することはできてるんだな……。けど、ベンの口ぶりからすると、今度はほんとに……」
暗い雰囲気のままの純。エインセルは何か声をかけてあげようと、あれこれ考え続ける。
しばらく静かな時間が続き、エインセルが思いついたように純に話しかけた。
「あ、そうだ! 純! 聞いてください! 私、ベンと戦ってる時に良いことに気が付いたんですよ!」
「え? なに?」
エインセルが自信満々な顔を純に見せる。純は手に持ったスマホの中で、コロコロと表情を変えるエインセルと話すのが、なんだか楽しかった。
離婚してから一度も会っていない母と、引きこもったままろくに部屋から出てこない父。家ではいつも、純は自分の部屋で一人静かに過ごすしかなかったから。
「せーのーっ! じゃーん!」
いきなり、エインセルの顔が左目の視界にアップで映り、純は思わずのけぞった。エインセルは純の左目の端末義眼の視界の中を、ゆらゆらと飛び回り、あたかも実際に部屋の中に立っているかのような映り方をした。
「うおっ。なにこれ? AR(拡張現実)的なやつ?」
「すごいでしょー? 本当に純の部屋に私がいるみたいに見えません? どうですか? 私、すごいです? 褒めてくれますか?」
「ああ。お前はすごいよ。こうやって端末義眼をハッキングして、ベンの視界を奪ってくれたのか。ありがとな。お前のお陰で、あいつに勝てたよ」
「えへへー。でも、ベンを倒したのは純ですよ! 純が強かったから勝てたんです! 私、戦う純を見てたらなんだか、不思議な気持ちになったんです! そしたら、何かできることはないかって思って、それでこんなこともできるんだって気づけたんですよ!」
褒めたつもりが、逆にエインセルから褒めちぎられてしまい、純は恥ずかしくなった。
「これからは、純の役に立てるよう、私いっぱい頑張りますね!」
「いいって、そんな気遣わなくて」
純がエインセルに微笑ましい気持ちを抱く。
家のインターホンが鳴り、純は届いた出前を取りに行った。
「ま、しばらくはお前のハッキングを使って情報収集だな。クトゥルフってやつが復活するなら、あの銀の腕とかいう組織のデータベースに何かしら情報も入ってくるだろうし」
とりあえず、純はしばらく様子を見ることにした。
エインセルの力を借りて情報を集めていれば、やるべきことも分かってくるはずだと思って。
“純のために頑張る”。エインセルの言うそれが、彼を大いに困らせることになるとも知らず。