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雑木林で倒れたベンの左手から、純は旧き印の刺繍がされた黒い手袋を奪い、自身の左手にはめた。
手袋は薄いゴムのような生地でできており、手にはめた瞬間、純は体に気味が悪くなるほどの力が湧いて来るのを感じた。
――――燃やしたまえよ、魂を。
「なんか……、なんだ……? 今、すげえ体が強くなったような気がする……。あと、なんか声が……」
「それが旧き印の効果です。旧き印が縫われたファイアスターターは装着した者に、その印に蓄えられた超越者の力を与えます」
「じゃあ、これで俺もさっきのこいつみたいな力を手に入れたってことか……」
「炎を出すには、頭で炎が出る様をイメージするだけでいいようですよ。簡単ですね!」
スマホを取り出し、エインセルと話していた純は、ゆっくりと立ち上がるベンに気が付くのが遅れてしまった。
ブリンクで背後に回って来たベンの拳を、純は背中に受けてしまう。純の背中に激痛が走り、衝撃のままに地面に転がされた。
純は殴られる直前、とっさにスマホを胸に抱え、エインセルを守っていた。
「いってぇ……。大丈夫か……? エインセル」
「わ、私は大丈夫……、です……。旧支配者の力にも耐えられる強度がありますから……。それより、純。あなたは……」
「くっそ痛いが……、問題ない。っていうか、あいつまだ……」
立ち上がった純は、薄気味悪く笑うベンと対峙する。
ベン・ロブリーは生きていた。木に手をつき、やっと立っているといった様子だが、まだ戦う力は残っているらしい。
「いやぁ……。まんまとやられたよ……。まさか、この僕がハメられるなんてね。どこかで僕のことを知っていたんだろう? 銀の腕かどこかの魔術結社か知らないが、君のような少年を刺客に送って来るとは、想定外だった。さっきの倉庫、あそこに毒ガスでも仕掛けてたのか? どうやら、少し吸い過ぎてしまったようだ」
「まだまだ元気じゃねえか……。でも、この手袋はもう俺がもらったぜ」
ベンがシャツの襟を手で下げ、鎖骨の下に彫られた、旧き印の入墨を純に見せつけた。
「銀の腕の決まりでね。戦闘要員はみんな、体に旧き印を刻まれるのさ。僕が殺した超越者の力は、こっちに蓄えられているんだよ。その手袋に入ってるのは、前の持ち主が蓄えた分だけ。今の僕らの力は、大体互角くらいさ。勝った気でいたのなら、申し訳ないねぇ……!」
「……、そうか」
純はスマホをポケットにしまい、不敵に笑ってみせた。
「なら、正々堂々、お前をぶっ飛ばせるって訳だ」
「後悔するなよ? 少年」
ベンの姿が消えると、純はその場から迅速なステップで離れた。純の背後にブリンクしたつもりだったベンは、そこにいるはずの純が視界にいないことに困惑する。ベンが見せたその一瞬の隙に、純は真横からベンの横顔をぶん殴った。
「がぁ……!?」
ベンの体がぶっ飛んだ。木にぶつかり、その幹をへし折って地面に転がる。
ベンは急いで立ち上がり、純の追撃の拳を腕でガードし、カウンターの拳を振る。しかし、純は上体と首を動かすダッキングで、ベンの拳を避けた。実に洗練された動きだ。素人の物とは思えない。
バックステップで距離を取った純に、ベンは余裕を自分に持たせるように、感心した口調で言った。
「案外、ちゃんとした訓練を受けているみたいだね。いい動きをしている。どこで習った?」
「近所のボクシングジム。それと、八百長がばれて落ちぶれた元プロボクサーに、毎日喧嘩を挑んだ賜物だ」
「はあ? 君も大概、どうかしてるんじゃないのか?」
ベンが純の目の前にブリンクで移動し、純の腹に拳をぶち込んだ。純は身をよじってその威力を殺し、今度は純の拳がベンの頬を狙う。ベンはそれを腕でガードし、上段蹴りを純に食らわせようとする。
だが、純はその蹴りまでをもダッキングでかわし、ベンの腹を殴った。
「強い……!」
ベンは劣勢であると悟ると、ブリンクを連続で使用し、純を攪乱する作戦に移った。
純が目でベンを追おうとしても、瞬間移動を繰り返すベンの姿は全く捉えることができない。ベンはブリンクした時に、純が別の方向を見ている時を見計らって、拳を浴びせていった。
ベンの攻撃を受け続け、純が膝をつく。
エインセルは純に心配そうに呼びかけた。
「純!」
「心配すんな……。でも、流石にこいつは……」
エインセルに強がってみせるも、純は右頬にベンの上段蹴りをもらい、倒れてしまう。
「純……」
「誰かと通信してるのか? そいつが君を僕に差し向けた張本人だな? そいつに言っといてくれ。お前もただじゃ済まさないってな」
ベンは声高にそう言ったが、純はベンの体がよろめいたのを見逃さなかった。すかさず、左手にはめたファイアスターターをベンにかざす。
「いい加減くたばれや!!」
純は極大の炎をイメージし、ファイアスターターの力を使おうとした。けれど、ファイアスターターから噴き出た炎は、せいぜいガスバーナーの火と同程度のしょぼくれた物でしかなく。
「なに!? ファイアスターターが反応した……? 馬鹿な……。まさか、クトゥグアが僕を……」
だが、ベンはどういう訳か動揺していた。なにやら一人でぶつぶつと呟いていたが、やがて自暴自棄になったような笑い声をあげ始め、ファイアスターターの扱いに悪戦苦闘する純を嘲笑った。
「はは……、ははは! 意外と難しいだろ? そいつの扱いは。温度やら形やら、もっと具体的なイメージをしなきゃダメだ。でかいやつを出したいなら、力を溜める時間だって必要だしな。ムリムリムリムリぃ! 君じゃぁムリだよ。それは、僕じゃなきゃぁ……!」
「くそっ……!」
何度ファイアスターターを使おうとしても、焦る純には上手く扱うことができない。小さな炎しか出せず、その間にベンはブリンクを使い、一気に距離を詰めてきた。
「それじゃ、決着、つけようか」
ベンは純を一発殴り、ファイアスターターを奪い返そうとした。だが、純は左拳を強く握り、ファイアスターターを取らせまいとする。
ベンは苛立ち、純を弱らせようと彼の顔を好きなように殴り始めた。鈍い音が響き、純の顔があざだらけになっていく。
「純……! 純が、純が……! 私のせいで……、私が選んだせいで、純が……」
エインセルはポケットの中で、純が殴られる音に罪悪感を募らせていた。
どんな時も自分の信じる優しさを貫く人。どれだけ困難でも、大切な人のためなら必ずやり遂げる人。
人生がどんなに孤独でも、辛くても、諦めない人。
エインセルは数多の人間をずっと見ていた。そんな彼女が選んだ彼。荒井純。
何故、自分が純を選んだのか、エインセルにもはっきりとは分からない。ただ、彼と一緒にいたいと、彼と一緒に世界を見てみたいと思ったから、エインセルは純を選んだ。
だから、エインセルにとって純は、間違いなく特別で、大切な人だった。
「私にできること……、何か……、何かない……?」
エインセルは自分の機能を確認、試行し、とあることに気が付いた。
上手くいくか分からない。余計な結果を招いてしまうかもしれない。
臆病な感情に捕らわれそうになるエインセルを奮い立たせたのは、彼女の頭に浮かんだ、ベンに殴り飛ばされたにも関わらず、真っ先に彼女のことを心配してくれた純の姿だった。
「私も……、戦わなきゃ!!」
決意を固めたエインセルが、インターネットを介してとある端末へのアクセスを試み始めた。
とある端末。それは、ベンが今左目に装備している“端末義眼”に他ならない。
「あった……!」
エインセルはベンの端末義眼が、無線通信によってインターネットに繋がっているのを確認し、純に言った。
「純! 私が一瞬だけベンに隙を作ります! その間に、ファイアスターターの準備をしてください!!」
ベンが動きを止め、聞き耳を立てる。エインセルの声がよく聞こえなかったらしい。まだ彼の左手は純の胸倉を掴んだままだ。
けれど、純には聞こえていた。ポケットから聞こえる彼女の声が、しっかりと。
「……、ああ!」
「今、何か聞こえたな……。何を企んで――――」
純が返事をすると、ベンの視界の左半分が突然エインセルの顔のアップで埋め尽くされた。エインセルがベンの端末義眼をハッキングし、自分のあっかんべーをする顔を映しているのだ。
「んんん!? なんだぁ!?」
ベンが驚き、左目の端末義眼を右手で押さえた。純の胸倉を掴む左手の力が緩む。
純はベンの左手を振り払い、ベンから離れた。
「純! 今、ベンは視界が埋まってブリンクが使えません! この隙にファイアスターターを!」
「ありがとな。エインセル。けど、今やるべきはそれじゃない。何しろ、この炎の加減の仕方が分からないからな。“あれ”も一緒に燃やし尽くしちまったら困る」
純は勢いをつけてベンに跳びかかり、地面に押し倒した。
「俺はまだ、こいつから“全部”を奪ってない」
「純……、まさか……!」
純の手が、ベンの左目と瞼の隙間に突き刺さった。ベンの端末義眼を掴み、無理やり眼孔から引きずり出す。
「ぐ、ぐぁあああッ!! あああああああああああッッ!!」
ベンが痛みに悲鳴をあげた。純に抜き取られた端末義眼は、裏側から生えるタコの足のような触手をうねうねと揺らしている。
「確か、これでよかったよな? この義眼の……、着け方は!!」
左目を押さえ、痛みに悶えるベンは、自分の物ではない叫び声を聞いた。自分と同じくらい、凄まじい痛みを感じている者の叫び声だ。
ベンは右目で、その叫び声の主を見た。かつての自分のように、左目を抉り出し、端末義眼を空いた目に埋め込む、純の姿を。
「なんだ……。君は……、一体……」
ベンの目の前で、純は段々と叫び声を治めていく。痛みに汗だくになった顔を上げる純が、ベンにはとてつもなく恐ろしい存在に思えた。
「一体……、なんなんだッッ!?」
「もらったぜ……。端末義眼……。これで……、“全部”だ……!」
純の左目が、紅く輝いた。その輝きこそ、端末義眼が純の視神経と脳に接続された証。
ベンの装備であった、ファイアスターターと端末義眼。その両方が、純の物となった。
エインセルは純の狂気の沙汰を目の当たりにし、ただただ驚いていた。
「純……。あなたは……、とんでもない人です……。私の想像通り……、いえ、私の想像を超えた……」
「あ……、ああ……。ああぁあ……。ははっ。クトゥグア……、クトゥグア! 聞こえていたのに。お前が僕を呼ぶ声が! お前の言葉に従って、ここまで来たのに! なぜ、お前はもう、僕の声に応えない!!」
ベンは何かに祈りながら後ずさり、恐怖に駆られて純から逃げ出した。
しかし、純はベンの向かう先にブリンクで瞬間移動してみせる。ベンの逃げ道を先回りし、ファイアスターターを着けた左手をかざした。
「逃げるな。限界まで怯えて、恐怖しろ」
「終わるんだ……。何もかも……。助けてくれ……。誰か……」
かざした手が、ベンの頭を掴んだ。
ベンは恐怖に顔を歪め、涙を流す。
「知りたくなかった……。この世界が終わるだなんて……。そしたら、こんな目に会わずに済んだのに……」
恐怖のあまり、ベンは笑いだしてしまった。涙を流し、笑顔を浮かべて、壊れたように笑っていた。
「死ね。お前がしたことを、俺は許さない」
純がファイアスターターを起動する直前、ベンは純に最期の言葉を遺した。
「君も、いつか同じことを想うだろう。この世には、どうしようもない存在がいることを知って……」
「……」
ファイアスターターから炎が噴き出し、ベンを包んだ。三千度を超す温度の炎がベンの体を焼き尽くし、肉も骨も灰にして。
かつて英雄だった殺人鬼を、この世から消し去った。