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荒井純は、空きビルの一階にある倉庫として使われていたのであろう部屋で、口元を両腕で隠してうずくまっていた。
たった今、ベンがブリンクで同じ部屋に入って来たのを、ブリンク特有の空間が歪む音で感じ取る。
煙臭く、照明も窓もない狭い倉庫だ。
暗闇は純の姿を隠してくれている。しかし、それもベンの目が暗闇に慣れるまで。
「くふっ。くふふっ。ぶふぅうううう」
笑いがこらえきれなくなって、ベンは可笑しそうに笑いながら、倉庫の隅に隠れていた純の肩を叩いた。
「みぃーつけたぁ」
ベンが心底楽しそうに純の体を起こす。
「……?」
すると、ベンの顔色が変わった。一瞬では、理解しがたい物を見たからだ。
純が、一リットルサイズのペットボトルをくわえていたのだ。それも、空っぽのペットボトルを。
ベンが困惑していると、彼の視界が急にぐるりと回転した。よろけそうになり、ベンは慌てて壁に手をついて体勢を保つ。
けれど、もう手遅れだ。
「くたばれ。イカレ野郎」
ペットボトルを吐き捨て、ベンに中指を立てて見せた純が、意識朦朧とするベンの顔を蹴り飛ばした。
ぶっ飛んだベンは倉庫のドアを突き破り、廊下に転がった。
異常な気持ち悪さと、力の入らない体。気を抜けばすぐにでも意識を失ってしまいそうだ。
ベンは自分の体に起きた変化に危機感を覚え、すぐにブリンクで空きビルの外へ移動した。
(なんだ……!? 何か、体が……、おかしい!!)
空きビルの裏にある雑木林で、ベンは地面に横たわる。めまいが酷く、立ち上がることもままならない。
「悪いが、この勝負は初めからアンフェアだったんだよ。お前は俺のことを知らなかったけど、俺はお前の手の内を知ってた。お前を殺す準備を整える時間もあった。お前は俺を追い詰めてたつもりだろうが、腹の中で笑ってたのは俺の方だった訳だ」
倒れるベンの所へ、純がやって来た。頭から流れる血を学ランの袖で拭い、ベンを見下ろす。
「もらってくぜ。お前の力。“一酸化炭素中毒”のベン・ロブリー」
――――三十と数分前、純はエインセルに、旧き印についてこう尋ねた。
「その旧き印ってやつで強化された体は、毒ガスとかウィルスとかにも強いのか?」
その問いに対し、エインセルはこう答えた。
「はい。でも、あくまで耐性が付く程度で、完全に無力化できるようになるには、相当旧き印に力を吸収させる必用があります。あくまで、強化されるのは主に筋力や動体視力、反応速度です。毒性のあるものも、病原菌も、危険には変わりありません」
「なるほどね……!」
それを聞いて、純は思いついた罠の準備に取り掛かった。
コンビニで百円ライターを購入し、ベンがいる空きビルの一階に潜入。そして、風通しの悪い密室を探した。それも、できる限り暗く、狭い部屋を。
そして、純は例の倉庫を見つけた。暗く、狭い密室。正に彼が探し求めていた物だ。それから純は空きビルの外に出て、路地裏にてきとうに置かれたゴミ袋を集め、倉庫に山ほど運んだ。それと、一リットルサイズの空のペットボトルが捨てられていたので、それを倉庫の外に置いておいた。
ゴミ袋の山に百円ライターで火を点け、純は倉庫の扉を閉めた。
倉庫の中で燃え上がるゴミの山は、暗闇の中で黒煙を吹き上げる。部屋中を煤だらけにしていきながら、炎は部屋中の酸素を使い果たす。すると、不完全燃焼をし始めた炎は、強い毒性を持つ一酸化炭素を放出し始めるのだ。純が二階でベンにいたぶられている間、倉庫は徐々に一酸化炭素で満たされていっていたのである。
後は今まで純がした通り。ベンから逃げ出す振りをして倉庫に入り、ペットボトルの中の酸素を吸いながら、倉庫でベンがブリンクしてくるのを待った。
ベンが透視能力を使って純の居場所を探すのは分かりきっていたし、こちらを驚かすためにもブリンクを使って部屋に入ってくることも予想できていた。つまり、倉庫の扉を開かれて一酸化炭素の濃度が薄まる心配はなく、倉庫から漏れ出す煙も、ベン自身が使った炎が起こした物だと錯覚するに違いないと、純は考えたのだ。
実際、ベンは倉庫にブリンクで移動してきた。純を弱って怯えるだけの獲物だと思い込み、何の疑問も持たずにその毒ガスに満ちた部屋に入って来たのだ。
ほぼ限界濃度の一酸化炭素をたっぷり吸ったベンは、旧き印の耐性の限界を超え、めまいや吐き気、運動機能のマヒに襲われた。
殺人鬼ベン・ロブリーは、少年である純の手の上で踊らされた末、毒ガスに侵されまんまと倒れたのである。