16
そこは地球ではない、夢の世界。夢の中で七十段の下方に続く階段を見つけ、その先でさらに七百段の階段を降り、“深き眠りの門”をくぐった先にある世界。
人智の及ばぬ物理法則に支配された世界。かのクトゥルフ神話が語る、“ドリームランド”と呼ばれる世界だ。
ドリームランドに建つ城の中、神殿の奥。壁一面に形容し難き神々の姿が刻まれた広間に、銀色の鋼鉄の腕を持つ、白髪と灰色のひげをたくわえた、老齢な顔立ちと屈強な肉体を併せ持つ神が座していた。
旧き神。大いなる深淵の大帝。旧神“ノーデンス”である。
巨体のノーデンスの隣に立つ、眼鏡をかけた長身の男が、ノーデンスの前にひざまずいている少年に言った。
「ジョルド・カーター。君は本日をもって、正式に我らが組織“銀の腕”のトップエージェントとして認められた。君こそが最もその義手に適正を持つと見込んだ、我らが主、ノーデンス様に感謝を捧げることを許そう」
ジョルドと呼ばれた少年は、ノーデンスがつけている物とよく似た、生身の右腕と取り換えられた、銀色の右義腕に左手を添えた。
「偉大なるノーデンス様。この私に栄誉ある銀の腕の所有者にお選び頂けたこと、光栄に思っております。この御恩、我ら銀の腕が大義、地球の平穏のために貢献することで必ずやお返ししましょう」
頭を垂れるジョルドに、ノーデンスは穏やかな声で言った。
「そう固くならずともよい。ジョルド。ディープワンズを率いるダゴンとハイドラを葬ったベン・ジョブリーが狂気に落ちた今、我々に残された希望は私とお前だけだ。戦う覚悟はできているか?」
ジョルドはノーデンスを見上げ、気丈に答えた。
「勿論です。クトゥルフの復活が迫っている今、悩んでいる時間はありません」
「そうか……。ルイス」
ノーデンスが隣に立つ側近の男、ルイスに「ジョルドへ指令を」と言葉を促した。
ルイスは眼鏡の位置を中指で直し、ジョルドに伝える。
「昨日、ニューヨークの地下鉄にグールの巣が発見された。一般人の犠牲者もすでに三名出ている。戦闘部隊を送ったが、グールの数が予想以上に多く、撤退を余儀なくされた。君にはすぐに現場に向かい、グールの殲滅、および力の吸収を頼みたい」
ジョルドは息を飲み、震える唇で返事をした。
「承知致しました。即刻向かいます」
「では、下がりたまえ。君には期待している。ジョルド・カーター」
ジョルドが立ち上がり、頭を下げてから広間を出た。
そんな彼の後ろ姿を見つめるルイスとノーデンスの表情は、どこか暗い。
「果たして、彼は銀の腕を持つに相応しい人間であるでしょうか。失礼ながら、今回ばかりはノーデンス様のご判断に疑問を持たずにはいられません」
「ジョルド以外に、あの腕を扱える者はいない。それは事実だ。あとは、やつが気づいてくれるのを待つのみ」
ノーデンスは昔を思い出すように、どこか遠くを見つめていた。
「――――彼の先祖。永劫の探究者たる、ランドルフ・カーターのような勇敢さを、自分も持っているのだと、ジョルド自身が気付いてくれることを」
銀の腕の本部。ノーデンスの謁見の間を出て、廊下を歩くジョルドの脚は、震えていた。
(グールの巣……。銀の腕の戦闘部隊が撤退するしかない数の超越者を相手に……、僕は勝てるのか……?)
弱気になりそうな自分を、ジョルドは慌てて頭からかき消そうと目をつむった。
しかし、恐怖は一向に胸から消えてはくれない。
「兄さん?」
恐怖に囚われたジョルドの目を開かせたのは、彼を心配そうに呼ぶ妹の声だった。
「グールの件、私も聞きました。兄さん、大丈夫ですか……? 無事に……、帰ってこられそうですか……?」
まだ七歳の妹エレナに、ジョルドは笑顔を作って答えた。
「……、大丈夫。僕はちゃんと戻って来るよ。エレナは心配しないで、いい子にして待っていられるね?」
ジョルドの頼もしい言葉に、エレナは喜んだ。
「はい! 兄さん、頑張ってくださいね! 私、ちゃんといい子にして待ってます!」
「よし。それじゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい! 兄さん!」
ジョルドはエレナに手を振り、その場を去った。
(守らなきゃ……。エレナは、僕が……)
エレナに見せた強気な様子とは裏腹に、一人になったジョルドの体は恐怖に震えたままだった。