13
放課後、ボクシング部に退部届を出し、家に帰りつくまで、純の呼びかけにエインセルは一言も答えようとしなかった。
純は自室の椅子に座り、スマホの画面に映ったエインセルの背中をつついてみる。
「おい、なに怒ってんだよ。いい加減機嫌直せって」
純がつつく度に、エインセルはくすぐったそうに身をよじらせる。純は面白がり、エインセルがどこまで我慢できるか、つんつんし続けてみた。
「ああああああ!! もう! くすぐったいうざったいこの変態!!」
「つっつつんのつ~ん」
「あっははははははははははは!!」
エインセルが我慢の限界を超え、笑いだす。
「バカ!! バカ純!! おっぱいバカ!!」
「まーだ言ってるよこいつ……。分かった分かった。ごめん。もう見ないように気を付けるから、機嫌直してくれ」
「……、約束ですよ……?」
「約束します」
不機嫌だったエインセルの顔が、ぱっと明るくなる。純は、彼女のそういう単純な所が羨ましくて、大好きだった。
エインセルの頭の所を指でぐりぐりと撫でまわしていると、純はテレビで流れ始めたニュースに興味を引かれた。
『本日、午後二時から続いている、神奈川県厚木市の銀行強盗立てこもり事件。未だ進展は見られず、人質も銀行の中に捕らわれたままとのことです。強盗グループは銃を持っており、現場は緊迫した空気に包まれています』
「純……? もしかして……」
純は立ち上がり、着替え始めた。流血しても目立たない黒いシャツに、履き慣れたジーンズ。そして、ファイアスターターを左手にはめて。
にやりと笑いながら、純はエインセルに言った。
「行くぞ、エインセル。全国デビューだ」
純が部屋から出て、玄関で靴を履こうとした時だ。暗い部屋の中から、父親が顔を覗かせた。
「なんだ……、こんな時間から出かけるのか」
「あ、ああ……。今日の夕飯、ちょっと遅くなるかも……」
父はあからさまに不満そうな顔をし、純を睨んだが、何も言わずにまた部屋の中に戻ってしまった。
「本当に、静かで暗い方ですね……。お父様は……」
「……。前はあの逆の方向で酷かったんだけどな……」
エインセルは純と彼の父親がまともに話をしているのを、この家に来てから未だ見たことがなかった。家族というのは、もっと暖かい関係ではなかったか。純と父を見ていると、エインセルの心は寂しくなるばかりだ。
純は家を出る前に、閉められた父の部屋の扉を見た。扉は陰鬱とした空気をまとい、固く閉ざされていた。
神奈川県厚木市。ブリンクを使って十分もかからずに、ニュースで見た銀行までやって来た純は、まずファイアスターターを使って炎のマスクを目元に纏った。
ビルの屋上から見下ろすと、銀行の周りには大きな人だかりができており、パトカーや警察が設置した照明の灯りで、夜とは思えない明るさだ。
「やっぱり、目元だけでなく顔全体を覆った方がよくないですか?」
「それだとカッコ悪いじゃん。これでもバレないって。へーきへーき」
「だといいんですが……」
「あと、ちゃんとニックネームも考えてあるから。気合い入れて行くぜ!」
「……。ニックネーム?」
心配が押し寄せるエインセルの胸中も知らず、純はブリンクを使って銀行に乗り込んだ。
「あと三十分! あと三十分だ!! それまでに、こちらの要求した車を用意しなければ、人質を全員殺す!!」
銀行に入ると、五人の強盗グループのリーダー格の男が、警察に最後通告をしているところだった。
人質は銀行員と客が合わせて二十人ほど。強盗グループの持っている銃は本物のようで、壁には威嚇のために撃ったのであろう、弾丸の跡がはっきり残っていた。
「純。頑張って!」
「あいよ。さーて……。そんじゃ、行きますか!」
物陰に隠れた純が様子見を終え、銀行のホールにブリンクで移動した。
「な、なんだ!? こいつ、どこから……!?」
突然現れた純に、強盗グループも人質たちも驚愕した。
純は人質の安全を確保するため、一気に強盗を片付けていく。
「ふん! せい! オラぁ!」
掛け声一つで、強盗一人。ブリンクで背後を取り、銃を撃たせる間も与えず、適度に手加減して殺さないように殴り、気絶させていく。
「くそ! くそ!! なんなんだこいつは!?」
強盗が、わざとらしく立ち止まる純に向け、銃を撃った。純は銃から放たれた銃弾を全て手でキャッチし、得意げにパラパラと床に落として見せた。
「なんの漫画だ!?」
今度はもう一人の強盗が、背後から純の後頭部を銃で撃った。
純は銃弾が当たってもよろめきもせず、かゆそうに着弾した箇所を手でさすった。
「なんの漫画だ!?」
「ふん! せい!」
その二人の強盗も純の拳に沈み、銀行内に静寂が訪れた。
皆、あまりにも衝撃を受けているようで、ぽかんとしたまま動かない。純とエインセルは、とりあえずもう安全になった人質たちに言った。
「あー。皆さんご無事? もう大丈夫なんで、帰っていいですよ」
「ゴーゴーお家!」
それだけ言い残して、気絶した強盗たちをひきずり、銀行の正面玄関から出ていく純を、人質だった彼らはやはり唖然と見送ることしかできなかった。
銀行の自動扉を開け、銀行を包囲する警察やらテレビ局のスタッフやらの前に、平然と姿を現した純。強盗たちをぽいと地面に投げた彼の姿に、誰もが己の目を疑った。
「あれは……。ご、強盗です! 強盗グループが、謎の仮面の男に運ばれて、今銀行の外に!!」
レポーターも警察も、何が何だか分からないといった様子だ。
純にあたかもスポットライトのように照明が向けられ、純は左の人差し指を力強く天に伸ばし、高らかに名乗った。
「俺の名は、“フォマルハウト”!! 世の悪人共! 死にたくなけりゃ、俺の名前を覚えとけ!!」
『え? 純? なんですそれ?』
『ニックネーム。俺の』
『ちょっと何言ってるのか分かりませんね……』
呆れるエインセル。純は気にせず、カメラを指さした。
「ふざけた野郎は、誰が相手でもこの俺がぶっ潰す!!」
純はノリノリでキメ台詞を残し、ブリンクでその場を去った。
全国に生中継されていたその衝撃的映像は世界中に広まり、フォマルハウトと名乗る謎の仮面の男の噂は、次の日には世界中の誰もが知る所となったのであった。
世界中が騒ぐ最中、家にこっそりと帰って来た純は、玄関をゆっくり開けた微かな音を聞きつけ、部屋から出てきた父にでくわした。
「あ……。えっと……。ただいま」
父は随分慌てて部屋から出てきたらしく、荒く息を吐きながら純にもの言いたげな目を向けていた。
「純……。お前……」
「え……。なに?」
珍しく話しかけてきた父に、純はどういう態度で接したらいいのか分からず、目を泳がせた。
何かを聞きたそうにしている父は、しかし、時計を見て純が一時間も出かけていなかったことを確認すると、結局何も聞きはせず、部屋に戻った。
「飯、食えよ……。俺はもう食ったからな」
バタン、と父の部屋の扉が閉じる音と共に、純は妙な緊張感から解放された。
扉が閉まる直前、純は確かに見た。父の部屋のテレビで流れるニュースが、つい先ほどの自分の姿を映していたのを。
「まあ……。バレる訳ないか……」
大きく息を吐いて、純は何か食べるものを探しに、台所へ向かった。