12
ドールと戦った翌日の朝。
純は目を覚ますと、己の体がベッドから離れ、宙に浮かんでいることに気が付いて、みっともなく手足をばたつかせた。
「なっ!? UFOか!?」
「ふふふ。私ですよ」
してやったりと言ったエインセルの声は、枕元に置かれたスマホから聞こえてくる。
「ドールの力を吸収したお陰で、私の機能が一つ解放されていたんです!」
「とりあえず下ろして!」
ベッドにふわりと体が落ちて、純は眠そうな顔でエインセルの説明を聞いた。
「超越者の力を吸収すると、私の機能を段々解除していけるみたいなんです。今回は、空中浮遊と好きな方向への推進力を得ることができるようになりました」
「……、要するに?」
「純は自由に空が飛べるようになりました」
「うっそなにそれ。憧れのやつじゃん」
「試しに飛んでみて下さい。浮かぼうとすれば浮かべて、進もうと思った方に進めます」
実際にやってみると、なんと純の体が宙にふわりと浮き、天井に頭をぶつけた。
「いっっつ……」
「これはもうちょっと練習が必要かもですねぇ」
頭を抱えながら、空中で逆さまになってしまった純を見て、エインセルはけたけた笑っていた。
純とエインセルにはしばらく、銀の腕のデータベースに超越者の情報が入るのを待つ日々が続いた。
純にとって、エインセルのいる生活はどこか奇妙で、賑やかだ。父が引きこもっている我が家で過ごしている時も、エインセルが話し相手になってくれるお陰か、暗い気持ちになることが少なくなってきていた。
エインセルはいろんなことを純に聞いたり、ネットで調べたりしては、段々と世の中のことに詳しくなろうとしていた。
以前に全ての人間を見ていたという割りに、エインセルは物事に対して無知で、よく純に質問をしてくる。記憶がほとんどないというのは、本当らしい。
学校での授業中や、純が他の人と一緒にいる時はチャットで。純と二人の時は、声を出して。
『純。どうしてあなたはこんな単純な数式で悩んでいるのですか? あまり勉強は得意じゃないんですか?』
『いやいやいやいや……。お前、こんなの分かるやついるかよ。なんだよ三次関数って。なんでこんなグラフがぐねってんだよ。こんなグラフが存在する意味が分からない。なんの仕事に使うのこれ』
『しょーがないですねー。それなら、私が教えましょうか?』
ドヤ顔で腕を組むエインセルに若干イラッとしつつも、純は閃いた。
『お前すごいな。こんな難しい問題よく分かるよ。ほんと、尊敬する。ちょっと試しに教えてみて欲しいんだけどさ、この問題、お前ならどうやって解く?』
『んん~? どれどれ~? あぁー、これはですねぇ』
純はシャープペンを構えた。左目の視界に映る、完全に良い気分になっているエインセルがチャットに打つ文字を、全て丸写しするためだ。
『まずグラフからxが5の時のyの値を読み取って――――』
『んー? よく分からんなぁ。お前ほんとに分かってんのか? もうちょい分かりやすく書けるだろ』
エインセルはムッとして、純の挑発に乗った。
『もう! バカですね純は!! つまりそこは、y=250+125-60+2=317になるので――――』
『ほうほう』
純はエインセルの教えることを理解する気など微塵もなしに、彼女のチャットを丸写しにしていく。
『――――で、最後に三つ目の数式に全部代入すると、a=634+97=731になるという訳です』
『なるほど! 流石エインセル先生! あったま良いな~お前は~!』
『ふっふー。それほどでも……、ありますけどね!』
丸写しを完了した純は、問題を解いたノートを持って席を立った。教壇の椅子に座る教師にノートを提出し、席に戻る。
その偽りの勇姿に驚愕したのは、教師も含め、クラスにいた全員だった。
「え!? 純くんが一番乗り!?」
「お前、絶対なんかズルしたろ!?」
「ひがむなひがむな原人共。じゃ、俺はゆっくりと残りの授業時間を過ごしますかね」
茜と洋吉が何かの間違いだと騒いでみても、純の不正がばれることはない。
ただ、純のあまりに調子に乗った態度を見ていて、エインセルが勘付いた。
『……。純。あなた、ひょっとして私を担ぎましたね?』
『……、違う! 俺はお前のすごさに本気で感心して……っ、まっせ~ん。代わりに解いてくれて、ありがとさん!』
ガハハと笑う純を、茜が、洋吉が、そしてエインセルが怒りを持って睨んだ。
「「うるっせえ!!」」
後ろと隣の席の、茜と洋吉には頭を叩かれ、エインセルには――――
『少しおしおきが必要ですね!』
端末義眼の主導権を握られ、視界をグルグルと回され続け、純は吐き気に襲われてトイレに駆け込まさせられることとなったのだった。
「お前さあ、いくらなんでも吐くまでやることないんじゃないの?」
「純が悪いんですよ。私を良いように使ったりするからです」
昼休み、図書室でこそこそと話す純とエインセルは、とある種類の本を探していた。
「か……、き……、く……。この辺りか……」
タイトルの頭文字が“く”の本がしまわれている本棚に辿り着き、純が一つ一つ本を確認していく。
そして、探していた“クトゥルフ神話:サルでも分かる邪神の世界”という本を見つけ、手に取ろうとした時だ。
本を取ろうとした純の手に、同じく横からその本を取ろうとしていた誰かの手が触れた。
「ん?」
「あ……」
純と偶然に手を重ねてしまったのは、後輩の神宮香澄だった。
「す、すみません! 先輩!」
パッと手を戻し、真っ赤な顔をうつむかせる神宮。
エインセルは神宮を見て、少し不機嫌になる。
『出た。おっぱい大きい人』
確かに言われてみれば大きいなと、純は神宮の新たな魅力を見出してしまい、なんとなく悶々とした気分になったが、なんとか理性で押さえつけた。
「あー……。この本、神宮も探してたの? 先に借りる?」
「い、いえ。大丈夫です……。少し興味があっただけなので……。先輩、お先にどうぞ」
「そうなの? じゃあ……」
本を取った純に、神宮はまだ何か話があるようだった。
「あの……、先輩……」
「どうした?」
「私と……、連絡先、交換してくれませんか……?」
ピシリ、と。空気に緊張が走る音がした。
エインセルが見ている。ものすごい形相で。見えるはずがないのに、左目の中から純を見ている。
この間、茜が言っていた通り、神宮が純に好意を寄せているのなら、純にそれを拒絶する理由はない。
周囲から地味と言われてはいるが、神宮の艶のある黒髪の下に隠れた美貌を見れば、その評価は一変するに違いない。
純は一度、その美貌を見たことがあった。儚げな彼女の雰囲気と相まって、純が不意を突かれて見惚れてしまったほどである。
そして、今もまた、純は頬を朱に染めて上目遣いで見つめてくる彼女に、目を釘付けにされてしまっていた。
「純!!」
エインセルの怒声が、静かな図書室に鳴り響く。
純は我に返り、慌ててスマホの入ったポケットを手で押さえ、誤魔化した。
「あ、あー、ああ! やっべ! またゲーム画面開きっぱなしだった! ごめんちょっと待って! 今マナーモードにするから!」
「ゲ、ゲームですか……。びっくりした……」
純がポケットからエインセルが入っている方とは別の、今まで自分が持っていたスマホを取り出した。適当に画面を指でつついて、ゲーム画面を消すフリをする。
「じゃあ、先輩……。その……」
神宮が恥ずかしそうに、純に自分のスマホを両手で持って見せた。
『純! 惑わされちゃダメですよ! あなたには私がいるじゃないですか!』
『彼女かお前は』
純は気づいていなかったが、この時エインセルはすさまじい衝撃を受けて、口をあんぐり開けていた。
「えっと、じゃあ……、はい」
お互いのスマホで連絡先を交換すると、神宮は頭を下げてお礼を言った。
「先輩の連絡先……! あ、ありがとうございます!」
「こっちこそ、ありがとう。……、ってそうだ。神宮、俺ボクシング部辞めるんだ。退部届ってどこでもらえばいいか分かる?」
「え? 先輩、辞めちゃうんですか?」
神宮は露骨に寂しそうだ。
純は胸が痛んだが、はっきりと言い切った。
「ちょっとこれから忙しくなりそうでさ。元々全然行ってなかったし、ちゃんと辞めておこうと思って」
「そうなんですか……。多分、職員室で顧問の先生に言えばもらえると思いますけど……」
「そうか。ありがとう。結局、部活で神宮に会う事一回もなく終わっちゃったな。どう?ボクシング部のマネージャーは。上手くやってけそう?」
神宮は何か悩んでいるようで、黙ってしまう。純が気まずくなり始めた頃になって、ようやく神宮が口を開いた。
「先輩が辞めるなら……、私も辞めちゃおうかな……」
「え?」
純がぽかんと口を開けた。神宮は真剣に言っているらしかった。
「辞めんの? なんで?」
「あ、い、いえ、気にしないでください……。私の個人的な理由なので……。それでは、失礼します!」
神宮は逃げ出すように図書室から出て行ってしまった。
「なんなんだ……?」
「むー……」
呆気に取られる純の左目の視界の中、エインセルは頬を膨らませ、一人、不満そうな顔をしていた。