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朝から生徒たちの声で騒がしい教室に入り、純が自分の机に鞄を置いた時だ。純は思い切り背中を叩かれ、やれやれという風に振り向いた。
「純くん、おっはよー!」
「茜か……。びっくりさせんな。おはよう」
元気に挨拶してきた女子生徒、伊須升茜は、純が椅子に座ると後ろに回り、純の頬をぶにぶにと引っ張って遊びだした。
「ねえねえ、昨日の心霊番組見た? なんか、カエルみたいな顔の人間の特集やってたやつ!」
「あー、昨日はテレビ見てないなー」
「えー、見てないのー? すっごいリアルで怖かったのにー」
左目のエインセルは、何故か純にじとっとした視線を向けている。純がエインセルの視線に困惑している間に、男子生徒が一人、純の机にやって来た。
茜の兄である、伊須升洋吉だ。
「おう、純。またすごいケガしてんな。お前がそんだけやられるって、相当な喧嘩だったんじゃねーの? 大丈夫かそれ」
「別に。ちょっと相手の頭がイカレてただけ。あと、洋吉。このイタズラしてるお前の妹をどけてくれ」
純にそう言われ、洋吉は茜を純から引っぺがした。
茜は呆れた顔で、所々に穴が開いた純の学ランを指さす。
「純くんまた喧嘩したの? 制服も穴だらけだし、昼休みに直してあげる」
「いい、いい。自分でやるから。ほら、先生来たぞ。机に戻れ、お節介兄妹」
「おっと、やべ」
朝のホームルームが始まる前に、洋吉と茜はそそくさと自分の机に戻っていった。
伊須升洋吉と、その妹の伊須升茜は、幼い頃からの純の友達だ。特に、天真爛漫な性格の茜は純によく懐いていた。
『純。ちょっと』
「……?」
エインセルが冷ややかな視線のまま、チャットで純を呼んだ。明らかに、不満気な顔だ。
『あの神宮という後輩といい、今の茜という人といい、純は胸の大きい人の方が好みなんですか?』
純は不意を突かれ、顔が斜めに歪んだ。
『なんだいきなり』
『だって、あの人たちと話している時の純、視線が胸にばっかり向いてましたよ……?』
純が慌てて、『気のせいだろ。てかほっとけや、そんなこと』とチャットを打つ。
エインセルは納得いかないといった様子だ。
『私の姿は、あなたのタイプに合わせて作ったはずなのに……。あなたの部屋にある、いかがわしい本の傾向からして、スレンダーで落ち着いた黒髪の女性がタイプのはず……。スマホの閲覧履歴からしても、胸の小さい細身の女性が好みに間違いないと思ったのに……』
『やめろや!』
衝撃の告白に、純は穴があれば入りたい気持ちで、机に突っ伏した。
(やけに俺好みの見た目してると思ったら、そういうことかこいつ……!)
エインセルの分析は完璧に合っていた。ただ、目の前にある豊満な胸に目が行くのは男の性。比較的良い物を持っている茜や神宮の胸に視線がいくのは、それだけの話だ。
純はこの時、エインセルの持つ力の恐ろしさを、その身をもって実感したのであった。
「そういえば純くんさー、最近ボクシング部に顔出してないの?」
昼休み。茜や洋吉と昼食を食べている時、茜が純に言った。純は購買で買った焼きそばパンをかじりながら、茜に答える。
「あー、行ってないな。全然」
「なんかさー、この前廊下で、ボクシング部のマネージャーの子? 一年生の神宮ちゃん。その子に純くんのこと聞かれたんだー」
『あのおっぱい大きい人ですか』
左目に映るエインセルの視線が怖い。純は茜と洋吉に怪しまれぬよう、平静を装った。
「神宮に? なんて?」
「“荒井先輩はお元気ですか?”って。純くんのこと、すごく心配してたよ~? ひょっとしたら、惚れられちゃってたりして~?」
「マジかよ。純殺すわ」
『殺すわ』
「殺さないでください」
洋吉とエインセルに懇願し、純は焼きそばパンをさらにかじった。
茜は純をからかうように、神宮の話を掘り下げた。
「実際、神宮ちゃん純くんのこと気に入ってると思うんだけどなぁ~。だって、あの子見るからに奥手じゃない? 男の子苦手そうだし。ボクシング部のマネージャーなんてやってるのが不思議なくらい」
「……、何が言いたい」
茜が何を言わんとしているのか、容易に想像できて、純はうんざりした。
「決まってんじゃーん! 神宮ちゃん、純くんのこと好きなんだってば! 純くん的にはどうなの? 神宮ちゃん可愛いし、何気にスタイルいいよね! どうなのどうなの?」
左の視界をエインセルの怒り顔が覆っている。明らかに、威圧している。
「ええ……。別に、ただの後輩としか思ってないけど……」
これにはエインセルもにっこり。
しかし、洋吉が追い打ちをかけてきた。
「じゃあ、実際に告られたらどうするよ?」
「えっ。それは……」
「あ、悩んだ! 本能には逆らえませんな~」
エインセルが怒り顔に戻り、さらに顔をアップにさせる。視界いっぱいに映る、彼女の鋭い目が怖い。
『怖いんですけど』
『怖がらせてるんですけど』
純はチャットと左目に映るエインセルから、できるだけ意識を逸らした。
「神宮のことはともかく、ボクシング部にはいい加減、退部届出すか……。一年くらい顔出してないし、そもそも入ってすぐ行かなくなったしな……」
純がだるそうにそう言うと、洋吉が苦笑いを浮かべた。
「まあ、普通の高校生じゃお前の相手にはならんよなぁ……」
「お父さん、元プロボクサーだもんねぇ。ずっとお父さんにボクシング教えてもらってたんでしょ? そりゃ強いって」
洋吉と茜の言ったことが引っかかり、エインセルは純がどんな表情をしているのか気になった。けれど、端末義眼に自分の姿は映せても、純の左目の視界か、スマホのインカメラ(画面側のカメラ)かアウトカメラ(裏側のカメラ)が向いている方以外、彼女には見ることができない。スマホがポケットに入っている今の状態では、純の表情はどうやっても見ることができないのだ。
エインセルは知っていた。純は父親にボクシングを教えてもらっていたのではない。
八百長の罪でボクサーとしての道を閉ざされ、妻にも逃げられ、家庭内暴力を奮ってくるようになった父に反抗するために、純は近所のボクシングジムで体を鍛え、ボクシングの技術を磨いたのだ。
元プロボクサーだった父を、殴り倒してしまえるほどに。
エインセルの心配も知らず、純は焼きそばパンを一気に食べきり、話の流れを断ち切った。
「ボクシング部のことはまた今度済ませるわ。今日は午後の授業全部寝て、とっとと帰るかね」
そう言って席を立った純に、洋吉と茜は不思議そうな目を向けていた。