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翌日から、純とエインセルの生活が始まった。
朝起きて、高校にエインセルを連れていくかどうか純は少し悩んだが、彼女に万が一のことがあっては困るので、ポケットに入れていくことにした。
部屋で朝食の菓子パンを食べる純の左目に、エインセルが姿を映す。
「やっぱり、一人で食べるんですね。前にあなたを見ていた時も、いつもあなたは一人でご飯を食べていました。他の高校生は母親が作ったご飯を、家族と食べているのに」
「……。世の中、いろんなやつがいるんだよ」
そう言って、黙々とパンを食べる純。
端末義眼に自分の姿を映していても、エインセルから純の表情を見ることはできない。けれど、エインセルにはなんとなく、純が寂しそうな気持ちでいるような気がして。
「……、私がいますよ。純」
「そうかい。あんがとさん」
素っ気ない態度を取っていても、純の声はやはり暗かったから。エインセルは彼のために何かしてあげたいと、強く思うようになったのである。
エインセルとの高校生活初日。
純は登校中、左目の視界をうろつくエインセルに尋ねた。
「お前、ずっとそこにいるけど、暇じゃない?」
「暇じゃないですよ? 純の左目の視界を見ることもできますし。一緒に街中を歩いているようで、新鮮な感じです」
「そんな面白いもんか? ただの街中だぞ? どうせなら、どっか景色の良い所にでも連れてってやるよ」
「ほんとですか!? 純ー! 純んんんーー! ありがとうございます!!」
エインセルの顔に左目の視界を覆い尽くされ、純はよろめいた。
「前が見えない! 前が!」
迫るエインセルの満面の笑みに、思わず後ずさろうとした純は、道の出っ張りに引っかかって転んでしまう。
「せ、先輩……。大丈夫……、ですか……?」
心配そうに声をかけてきたのは、仰向けにすっ転んだ純を覗き込む、一人の女子高生だった。
「大丈夫……、って神宮か。ありがとう。久しぶりだな」
純が神宮の差し伸べた手を取り、起き上がる。
神宮香澄。
気が弱そうで、少し伸ばし過ぎな髪の毛が暗い雰囲気を感じさせる少女だ。色白な手で純の手を握るその顔は、心なしかほんのり赤い。
「どうしたんですか……? こんな道端で突然転ぶから、後ろで見ててびっくりしました」
「ん? んんー……。ちょっと目に虫が飛び込んで来たから、よろけただけ」
神宮と話す純をじろりと睨み、エインセルは騒ぎ立てる。
「純! 誰ですか!? その女の子は!」
ポケットからエインセルの声が飛び出し、純は慌ててポケットを手で押さえた。
謎の声に、神宮が驚いた様子で辺りを見渡している。
「あ、あの……。先輩、今の声は……?」
「いや、スマホのゲーム付けっぱなしだっただけ! やべーな消し忘れてたわ! 電池切れるわぁ~! それじゃ行くな! お前も学校遅れんなよ!」
無理やり誤魔化し、学校へ向かう純。神宮はそんな純をぽかんとして見ていることしかできなかった。
学校に着くと、純はまず男子トイレの個室に駆け込んだ。
ポケットからスマホを取り出し、エインセルに小声で怒鳴りつける。
「お前……っ! もう、この……っ! バカ!!」
「バカとはなんですかぁ! バカとはぁ!! あの人が純とどういう関係か聞いてみただけじゃないですか!」
「ただの後輩だよ! スマホからお前の声がまる聞こえなんだよ! 他のやつにお前のことバレたら、どう説明すんだよ!」
「……。あ」
「なんも考えてねーよこいつ! とんだぽんこつAIだよ!」
「か、考えてます! いろいろ!」
純もエインセルも一旦落ち着こうと、息を整えた。
とりあえず、純はエインセルと今後の生活について、必要なことを話し合っておくべきだと判断した。
「お前の声は周りに聞こえる。それはなんとか避けたい所だ。お前の声が他のやつに聞こえると、俺はお前のことを隠すために恥をかくハメになる」
「……。じゃあ、私はどうしたらいいんですか? 純とお話したいです……」
エインセルは純の予想を遥かに超えてしょげてしまった。エインセルの落ち込みように、純は心がちくちくと痛むのを感じる。
「えぇーと……。ちょっと待てよ……? なんかないか、なんか……。あ、筆談とかならいけるだろ? あ、でもそれだとお前が何も俺に伝えられないのか……」
「筆談……。こういうのですか?」
エインセルが涙目で指をクリクリと回した。すると、純の左目の端末義眼の視界の左下に……
――――『嫌いにならないでください』
と、文字が表示された。
「ん……? これは……?」
「私のスマホ画面の下にあるタブを、上にフリックしてみてください」
エインセルの言う通りに、画面の下の方にあるタブに指で触れ、上に滑らせてみる。すると、画面にキーボードが表示された。
「それで文字を入力してくれれば、私とチャットができます」
「チャットできんのかよ!? じゃあハナッからこれ使えって!」
「だってだって! せっかくそばにいるんだから、直接話したいじゃないですか! 私には、純しか話し相手なんていませんし……。純ともっと仲良くなりたいです……」
自分に正直なエインセルのチャットや言葉に、純は少し照れくさい想いをしながらも、悪い気はしなかった。
(ひょっとすると、こいつ……、不安なのかもな。AIって言っても、ここまで高度なAIだともう、心も人間と変わんないだろうし……。知らない土地で、知り合いもいない上に、自分で身動きもできない訳で……)
純はスマホのキーボードで、エインセルにチャットを打った。
『ごめん。言い過ぎた。人前じゃなければ、普通に喋ろう。でも、お前のことを下手に知られないためにも、周りに誰かいる時はチャットで我慢してくれ』
少し時間を空けて、エインセルが返事のチャットを打つ。
『私もごめんなさい。さっきは私のために誤魔化してくれてありがとうございました。これからも仲良くしてください』
スマホの画面に映るエインセルは、恥ずかしそうにそっぽを向いている。純は小さく笑って、返事を打った。
『こっちこそ、よろしく』
「まあ、いちいちスマホで文字を打たなくても、端末義眼に意識を向けて文を思い浮かべれば、チャットできるようにプログラムを書き換えておいてあるんですけどね」
「てめえ!」
試しに端末義眼に意識を向けてみると、エインセルの言った通り、『クソが!』と文字が表示された。