閑話・とある老臣の最後の日
みどりいろさんより寄贈されたものです
side:とある織田家老臣
わしは今日、暇乞いのため挨拶回りをしている。
元服もしておらぬ頃から御家にて近習としてお仕えし始め、わしももう七十を越えた。わしの孫や曾孫のような齢の近習が遺憾なく才を発揮し、わしの子のような齢である世代も教え導く者として役目を果たしておる。
ここ一・二年ほどは請われた部署に相談役のような役目で出向もしておったが今ではそれもなくなり、わしの御城での役目はもはや全て終わったと感じた。
はじめに織田の殿へ拝謁し暇乞いを申し出た時、殿から慰留はされた。
しかしながら、それは先代様からお仕えてしているわしへの御気遣いに過ぎぬ。暇乞いを申し出た際に流すかのようにお許しをお言葉を頂いた時、わしの清洲での役目は誠に終わったのだと改めて感じた。
とはいえご多忙極まる殿がわしのような老いぼれの暇乞いにわざわざ会うてくだされた。それだけでも十分であろう。
その後、世話になった者たちなどへ挨拶に行き、最後に前武衛様の御邸に向かう。
前武衛様は既に政から身を引かれ清洲城近くに造られた邸で過ごされており、極稀になにかの相談に乗ることはある、とそんな程度であらせられるようだ。
前武衛様の御邸の中は何やら忙しない雰囲気で、応接の間で暫し待つよう言われたので先々代の武衛様から御使用の波斯の絨毯の上にある椅子に座って待っていると、ふと織田の先代様にお仕えして間もない頃のことを思い出していた。
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ドン、ドン、ドン、ドン・・・
廊下を急ぐようにこちらに近づいて歩いてくる音がすると、他の近習たちが慌てて平伏するので、私もあわせて平伏する。
ドン、ドン、ドン、ドン!スパーン! 「出掛ける!」
「「ははっ!」」
歩く音がこの部屋の前で止まったと思ったらいきなりふすまがすごい勢いで開いた。その音に少し私はびくっとしたが、織田の若様が私達近習に声をかけられ、それぞれ各々お出掛けの支度を始める。
私は近習として若様に取り立てられたばかりで何をしていいのかと思っていたら若様が私に声をかけてきた。
「お蘭、面白きものを見せてやる。供をせよ!」
「は、はい!」
私は畏れ多くも若様から直々に『蘭丸』という童名を頂いた。お仕えする前には父上から名付けていただいた童名はあったのだが今は若様から頂いた『蘭丸』を名乗り他の方々からそう呼ばれていて、若様からは『お蘭』と呼ばれている。
若様は市井の民のような着流しのまま部屋を出られると、同じく近習の池田勝三郎殿たちとともに若様を追いかけた。
那古野を出ていくつもの川を渡りやってきたのは津島という湊だった。ここは御家にとっても重要な地であると勝三郎殿から聞いた。
しかし、私は津島での出来事があまりに色々ありすぎてよく覚えていない。ただ覚えているのは、山のように大きく黒い異形の船と、どなたかの邸にいた女の今まで見たこともない髪色、そして、その女の手で出された菓子がものすごく甘くて美味しかったことだけだった。
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今思うと、あれは大智の方殿であったのだと思う。
・・・大智の方殿か、懐かしい御名だ。久遠殿とともに隠居なされもはや幾年月。御本領におられると思うがご息災であられるであろうか。
そう思っていたら前武衛様がお見えになったのですかさず椅子から立ち上がって改めて絨毯に座り平伏する。
「わしのような隠居に平伏などせずとも良い。お蘭・・・いや源左衛門、いかがした?この隠居が必要なことなぞもうあるまい」
御隠居様に椅子に座るよう促されたので椅子に座る。
「『蘭』でようございます、御隠居様。・・・実は本日を持ちまして織田の殿に暇乞いをして参りました。そのご挨拶として罷り越しましてございます」
私の言葉に前武衛様・・・御隠居様は少し上を見て目を閉じられた。
「そうか・・・互いに歳を取ってしまったものじゃな」
「左様でございますな」
「お蘭とはもう六十年以上の付き合いとなるか。初めて合うたのは学校であったな。あの頃は己の若さゆえそなたをはじめ多くの者達に迷惑をかけた。今思えば恥ずかしゅうてならぬ」
「迷惑など、とんでもないことでございます」
御隠居様が仰せの通り、私は初めて御隠居様にお目にかかったのは学校で、まだ『若武衛様』と呼ばれていた頃だった。
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私は若様の近習を務めつつ、若様に新たにお仕えすることになった黒い船の主、久遠殿がはじめられた学校という学び舎で色々学ぶことを若様から命じられていた。
偶々職員室という師の部屋に行く用事があったので、出向いてみるとアーシャ様が少し困った顔をして何か考え事をされているようだ。
「アーシャ様、どうされたのですか?」
「・・・ああ、伊藤の蘭丸くんね。実は若武衛様が2・3回来ただけで学校に来なくなってしまったのよ」
そういえば少し前に若武衛様が学びに来られると聞いて、私も一度だけご一緒に授業を受けた事があった。確かに最近お見かけしないがいかがされたのであろうと思っていたのだが。
「そういえば蘭丸くん、先日若武衛様と教室が同じだったわね?どんな様子だった?」
そうアーシャ様が尋ねられたので思い出してみるが、若武衛様は終始どう見ても楽しそうでなく何かお気に召さないことがあったのかもしれないと思わせる様子であった。
「ずっと何も仰せにならず御不快なご様子だったので、私を含め他の学徒達は『若武衛様に対し何か無礼でもあったのではないか』と怖がっていました」
「そう・・・」
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「学校に行くのが嫌でな。何故わざわざ下々の者らと同じ場で学ばねばならぬのだと、当時の近習共がそう言うのでわしもそのような所に行かずとも良いなどと思うておったのじゃ」
御隠居様は少し苦笑しつつわしにお話をされている。
「そうしたら清洲の邸で新たに傅役となった牧下野守にものすごい剣幕で怒鳴られたわ。『公方様でさえ都を追われておいでなのですぞ!学ぶ事を厭われる方など斯波家の御跡目に相応しくはありませぬ!学ぶご気概もご覚悟もなければ今すぐ弟君に御嫡男をお譲りなされませ!』とな」
そのようなことがおありだったのかと驚く。天竺の方殿に話をした何日か後には学校に再び学びに来ておられたが、しばらく不機嫌なご様子だったのは、そういう思いでいらっしゃったからなのか。
そういえば御元服後に学校においでになった時ふとこぼされておったな。『牧がおらねばわしは今頃思い上がりのうつけになったか寺で経を読んでおったであろう』と。
「牧に怒鳴られた時にわしのことを見ていた父上の御顔をわしは終生忘れることはできぬ。怒り、嘆き、悲しみ、情けなさ、それら全てが顔に出たような御顔をされておられた」
先々代の武衛様は、昨今では織田の先々代様や久遠殿とともに今の尾張・・・いや、日ノ本の礎を築かれた偉大なる御方として知らぬものはおらぬ。
しかし、先々代の武衛様は織田の先々代様が清州に来られる前は傀儡として不遇をかこっておられた。当時の若武衛様に向けられたその御顔は、畏れながら御自らの御不甲斐のなさに向けられたものでもあったのかもしれぬな。
「・・・しかし、そなたとこうして面と向かっておると色々昔のことが思い出されるの・・・おおそうじゃ、そなたが元服の折、共に学んだ仲では親しい方であったそなたの晴れ姿を見たいと元服の儀に顔を出したかったのじゃが周りから止められたゆえ、織田の先代殿・・・当時の尾張介殿に託したのじゃったの」
「・・・ああ、当時頂いた織田の先代様の文にはそうございましたな」
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私の元服の儀は私の一族のみで済ませた。
烏帽子親は一族の長老が務め、伊藤家の通字である『祐』が入った『祐広』という諱をいただいた。
一年前に私と歳が近く、私と同じく近習となっておった竹千代・・・松平次郎三郎殿の元服の儀には若殿が駆けつけられ烏帽子親までされている。竹千代とは歳が近く親しかっただけに私の中で妬みや悔しさが若干刹那に過った。
しかしながら、竹千代は三河松平宗家の嫡男であり私はしがない土豪上がりの文官の子でしか無い。それに竹千代は若殿や内匠頭殿、そしてその奥方衆がお目をかけるほどの才気の持ち主であり、私など及ぶべくもない。それに私などの元服の儀にまで若殿に来ていただいてはこれから後に元服する近習や家臣全てに若殿が出向かなかればならなくなる。そう思って自分に折り合いをつけた。
元服の儀の夜、一族だけのささやかな宴も終わり、一族の皆が帰っていった頃に若殿からの使いが来て、若武衛様と若殿からの贈り物とのことでそれぞれ反物と脇差しをいただくとともに、若殿からということで文を手渡されたので、その文をありがたく両手で掲げてから読んでみる。
・・・これは若殿の御直筆だ。いつも近習の役目にて見ているのですぐに分かった。
『お蘭、本当はそなたの元服をオレもこの目で見守りたかったが、どうしても行くことができなんだ。そなたが近習になった頃の那古野の大うつけであれば柵なぞを振り切って駆け付けたのだろうが、オレも色々なところに配慮をせねばならぬ立場となってしまった。本当にすまぬ。
代わりにといっては何だが祝いの品として脇差しを贈る。伊勢から尾張の職人村に移り住んだ千子村正の流れをくむ者らに作らせたものゆえ良い脇差しだ。受け取ってくれ。
あと若武衛様が、お蘭とは学校で共に学んだ仲だからと駆け付けたかったが周りに止められたとのことで、反物を託されたゆえ併せて贈る。
そして、お蘭にはもう一つ謝らねばならぬことがある。
竹千代をはじめ他の近習たちは将来奉行職や国代官など要職についてもらうことになるだろう。しかし、お蘭にはあらゆる役目を知るため各奉行のもとで少しの間学んでもらうことはあるものの、それは近習としてオレの補佐をするため様々な役目を知り、かつ各奉行の者とのつながりを得て欲しいためであり、お蘭にはあくまで近習としてオレを支えて欲しい。お蘭が近習から離れるとオレが困る。
ゆえにすまぬが他の者のように出世をさせることはできぬ。代わりに他のことで報いるゆえそれで勘弁して欲しい。もし、お蘭が出世せぬことを揶揄するものがいたら遠慮なくオレに言え。
いろいろとすまぬが、これからもよろしく頼む。 のぶなが』
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あの時の文は家宝として今も丁重に保管してある。先代様がそこまでわしのことを信頼していただいているのかと、あの文を読んだあと感激して視界が歪んだことをつい先日のように思い出す。
ちなみに松平次郎三郎殿・・・竹千代はわしと共に先代様の近習を務めた後に数々の要職を歴任し、昨年隠居して政から完全に身を引いた。
先日邸に訪ったが、今は孫や曾孫に囲まれつつ、自らの健康のため様々な健康法や薬草の研究に没頭しているという。先代様の命をよく守っているだけあり壮健で、目に力があり表情は活き活きとしていたゆえ、ああしているのが今の竹千代には一番良いのであろう。
「ところで御隠居様、何やら邸が忙しないようですがいかがされましたでしょうか」
「ああ、わしはここを引き払ってここ数日のうちに久遠殿の本領に行くこととなった。暖かく穏やかな地で過ごしてはいかがかと今の当主殿から誘いがあっての」
「なんと」
「もうわしなど居なくとも尾張は、日ノ本は進んでいく。ここらで老いぼれは居なくなった方が良いのじゃ。そなたもそう考えたのであろう?」
先代様もわしと同じようなお考えであられたとは。
「で、お蘭は暇をもらった後いかがするのじゃ?」
「実は、倅が商いを致しておりまして、それの手伝いをして欲しいと言われておりまする。某のような老いぼれが役に立つのかと一度は断りましたが、某のこれまでに得た知識や経験、人とのつながりは商いで役に立つからとせがまれまして」
「ほう、それは良かったではないか。求められるということは幸せなことぞ」
わしの倅は清州で今の殿の近習、そして文官として働いておったが、商いの面白さに気づいたとやらで突如自ら暇を願い出た。その後、那古野にて縁故の呉服屋で商いの修行を経た後に独立して同じく呉服屋を営んでいたのだが、商売を広げたいという商人としての思惑と、政でなく商いで民の生活を豊かにするという久遠殿の奥方のどなたかから聞いたという理想との二つの思いから、呉服だけでなく様々な品を手広く民相手に商っていきたいのだという。
その際に長年織田家の近習として様々な部署に精通しておるわしの経験を活かしてほしいし、若い衆にも伝えてほしいのだと倅が言うておった。
「・・・思い出したぞ。そうじゃ、お蘭の倅には城で挨拶されたことがあるの。そなたと同じ蘭丸だったことで覚えておったわ」
「左様でございましたか」
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私は、清洲にて同じく近習として働いておる者の妹を私の妻としている。
その妻は先日まで那古野の病院に入院していたが無事男子を産んだ。お役目の最中、産まれそうだと私に知らせがあり、若殿が『行って来い』と笑って仰せになったので、清州から急ぎ駆けつけたもののまだ産まれておらず、看護師から難産であると聞き気を揉んだが、結果的に母子ともに健康だったので安堵した。
それは妻が子とともに私の邸に戻ってきたその日のことであった。
夜、子の泣き声がして、私の妻があやしているところに邸の扉を叩く音がする。恐る恐るどなたかと誰何してみると『お蘭、オレだ』と聞き覚えがある御声がしたので慌てて開ける。
「若殿・・・いかがなされましたでしょうか?わざわざ夜更けにこのような所までお出でにならずとも用があれば私から参りましたのに」
突如若殿が私の邸に来てくださったのだ。立ち話も何なのでとりあえず邸内にあがっていただく。
「いやな、お蘭の子が邸に戻っていると聞いて忍んできたのだ。お蘭の元服の時には来られなんだからな」
あまりに突然だったので私の妻もびっくりしている。
「これがお蘭の子か・・・抱かせてもらってもよいか?」
「も、もちろんでございますとも」
突然のことで固まりつつ少し困惑して私の方を見ている妻に向かって少し頷くと、妻は若殿に私の子を渡し、抱いていただく。
「おお、お蘭に似て賢そうな面構えだ・・・よし、この子も名を『蘭丸』とせよ」
なんと、私に続いて子にも若殿直々に名をいただくとは。
なんでも、これぞと気にいった者にはそう名付けることにしているという。若殿から直々にそう言われ誇らしい心持ちになる。妻も更にびっくりしていたが同時に私と同じく誇らしく思っているようだ。
「ありがたき幸せにございます。我が子も御家のため力を尽くすことでございましょう」
そういうと若殿は私の子を抱きつつ私の方に向かって真摯な目で仰せになった。
「お蘭よ、そう言うてもらえるのはありがたいが、今から行く末を決めてしまうのはこの子の可能性を狭めてしまうと思うのだ。オレの子である吉法師は織田家の家督のことがありやむを得ぬところがあるが、それでも下の子を含めできるだけやりたいことをやらせるようにしたいのだ。子の可能性は限りが無いとかずも言うておったからな」
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織田の先代様のあの一言があったからこそ、倅が城勤めを辞めて商いをしたいと言い出したときも、許しを出すことができたと思う。
当時先代様が御当主で、倅は暇乞いのとき直々に『政と商いの違いはあれど民のために励め』とお声がけがされたという。
「つきましては、僭越ながら御隠居様に一つお願いがございます」
「おうなんじゃ。付き合いが長いそなたとの仲じゃ。わしにできることであれば聞くぞ」
「ありがたき幸せにございまする。・・・新しき商いをするにあたり、倅が屋号を変えたいと言うておりまする。畏れ多いことではございますがその屋号を御隠居様につけていただけましたらこれ以上の誉れはありませぬ」
今、倅は『伊藤屋呉服店』の屋号で商いをしておるが、新たな商いとして様々な品を扱うのにあたり新たな屋号をつけたいのだという。
「わしのような老いぼれの考えたものでもよいのか?」
「是非お願いいたしまする」
「とはいうものの、手がかりが欲しいの・・・うーむ・・・おおそうじゃ、お蘭の父御が亡くなった後にお蘭から聞いたあの話があったな」
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私が元服をしてしばらく経った、父上と私の勤め休みが重なったその日、それまで共に出掛けることなどと言わなかった父上がいきなり城から馬をお借りして私をとあるところに連れ出した。
「ここはな、武衛様の御先祖である興徳寺様(斯波義教)の命でお造りになった堤とのことだ」
直ぐ側で川が流れる私の目の前に大きな松が堤を支えるかのように堤のなだらかな坂に植えられている。
「以前お役目でここを通りかかったとき見かけてからわしはこの松が好きでな。時折この松を見に来ているのだ」
「そうでしたか」
父上はしばらく何も言わずただ松を見ていたが、ふっと今まで見たこと無いような真面目な顔をして私の方に振り返った。
「源左衛門。おまえもこの松のようにこれからも武衛様や殿をお支えせよ。よいな」
「はっ」
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あの二日後、父上は清洲の御城にてお勤めの途中突然背中が痛いと苦しみ出し、那古野の病院に運ばれていったが、病院に着くことなく途中で亡くなった。
もしかしたら父上は何かを察していたのかもしれぬし、偶然だったのかもしれぬ。
「それでじゃ、屋号は『松坂屋』というのはいかがじゃ」
「なんと、その松は興徳寺様の御堤にあった松でございますが、本当によろしいのでございましょうか」
「よいよい。店が後の世まで残れば義教公も喜んでいただけよう。なんなら屋号紋としてその松を使うてもよいぞ」
まさかそのような名をいただくことになろうとは思ってもおらず困惑しつつ驚いている。
「気にいらなければ他に考えるが・・・」
「いえ、気にいらないなどとあろうはずがございませぬ。不躾なお願いをしておきながらそのような誉れをいただき感激に堪えませぬ。畏れ多いことではございますがぜひとも使わせていただきとうございます」
「それはよかった。・・・恐らくこれがわしの日ノ本での最後の仕事になるかの・・・そのような顔をするでない、お蘭。折を見てここにも顔を出すこともあろう。たまには孫や曾孫の顔も見たいしの。ゆえに今生の別れというわけでもあるまいて」
御隠居様はそう仰せであったが、恐らくもうこちらに戻ってこられることはないのかもしれない。御隠居様の御顔を見てそう感じた。
すると、御邸の近習らしき者が御隠居様を呼ぼうとしている素振りが見えた。
「それでは、御隠居様もお忙しそうであらせられますので、某はこれにて失礼をさせていただきまする」
「うむ、茶も出さずすまなかったの」
御隠居様は笑顔の後、真摯な御顔になり仰られた。
「・・・お蘭、今までの勤め大儀であった」
「はっ、御隠居様にお仕えできたこと生涯の誉れでございます。それではこれにて」
御隠居様は席を立たれた。
わしは御邸の外に出て、門の外に出ると邸に向かって深々と頭を下げる。
(お蘭、これにてお別れでございまする)
すると、わしの胸中に様々な方の思い出が去来する。
市井の着流しのまま瓜を食む若き日の織田の先代様、学校にて畏れ多くも隣の机に座りわしがわからぬ問いを優しくお教えくださった当時若武衛様であった御隠居様、野営や海水浴にお連れくださりわしらを導いて下った久遠様、そしてそれを見守るエル様初め久遠様の奥方衆、ともに織田の先代様をお支えすべく切磋琢磨した竹千代はじめ近習の同僚たち・・・。
知らず知らずの内、地面にわしの目から出た水滴がぽたりぽたりと落ち、砂とともに弾け、やがてしみ込むように消えていった。
◆◆◆◆◆
織田信長が名付けた『蘭丸』は四人いたと言われている。
信長は自分の気に入った者に『蘭丸』という名を与えており、四人すべて信長の近習として仕えていたという記録がある。
奉行職や各国代官を歴任した織田家の重臣、森蘭丸こと森成利は日本史の教科書に出てくるほどであるため一番有名であり、一般的には『蘭丸』といえば『森蘭丸』であり、それゆえに他の『蘭丸』はあまり知られていない。
早川蘭丸という人物は、いたという記載は織田家家臣目録にその名が確認できるが、元服後の名前の記載が現存史料では確認できないことや、どのような人物であったかは不明であり、元服前に亡くなった可能性を含めて現在も歴史家らによって調査されている。
伊藤蘭丸は伊藤祐広・祐道父子のことであり、伊藤祐道は松坂屋百貨店の創業者である。
伊藤祐広は信長が近習から手放さなかったと言われており、そのせいで出世ができなくなることを詫びる信長からの手紙や、元服の際に信長から贈られたとされる村正の脇差しや斯波義信から贈られたとされる反物の一部が現在も名古屋の松坂屋博物館に保管されており、一般観覧も可能である。
松坂屋百貨店
創業が400年を超える日本圏を代表する老舗百貨店であり、初めて『百貨店』を名乗った店舗として知られる。
創業者は伊藤祐道。元は織田家家臣として清州城付きの文官を勤めていたが、下野して商人の道を志し、縁故の呉服店で修行の後独立。『伊藤屋呉服店』を創業する。
『政だけでなく商いでも民の生活を豊かにすることができる』という久遠一馬の理念に共感したといわれ、その後に一念発起し多種多様な商材を扱う『百貨店』を始めたとされる。
松坂屋の名の由来は、皇歴二千年後半に当時の尾張守護斯波義教が指示して築いたとされる武衛堤に植えられていた松といわれており、包装紙の模様ともなっている屋号紋はその松を模したといわれている。
命名者は斯波義信で、祐道の父である祐広が元服前から見知っていたとされる義信に屋号の名付けを頼んだ。
上記はすべて『松坂屋社史』に記録として残っている。
創業者の父である祐広が店主自ら記録に残させ、さらに客観性を持たせるため任意の店の者にも日誌等の記録を残させた。そして誰が書くかは店主に決定権を持たせないとした。
『松坂屋社史』はそれら代々書き残していたものをまとめたものであり、規模は大きくなったものの現在も記録・編纂は続いている。
現在では日本圏だけでなくヨーロッパ、中華、イスラムの各圏にも店舗がある国際小売企業となっており、特に松坂屋外商部は各国の著名人や資産家、名家を顧客に持ち、政治的に調達不可のもの以外はすべて調達できると言われている。
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(筆者注釈)
森蘭丸は史実での公名は森乱もしくは森乱丸であったとされますが、こちらでは信長の考え方やそもそも歴史が変わっているため『乱丸』ではなく『蘭丸』になったとしています。