閑話・目が見えぬ者の光
本作はみどいいろさんから寄贈されたものです。
side:レミア
わたしはレミア。医療型アンドロイドよ。
清洲城に食堂やらの福利厚生施設が充実してきたことに伴って、司令を通じて大殿や評定衆にとある施設を提案をして、その許可が降りてようやく完成にこぎつけた。
それは常駐型のマッサージ所。この時代の人でもわかる言葉で『按摩所』としているけどね。
清洲で文官仕事をする人が増るにともなって目や肩や腰に疲れがきてる人、増えてるのよね。
わたしは医療型だけど指圧やマッサージ、そしてリフレクソロジーが本来の専門。学校でも教えていたけど公の場に施設を置くことができて多くの人に施術できることを嬉しく思っている。
ちなみにこの施設、通常の医療行為もできるような作りにしてある。以前、清洲城勤めの文官が突然背中が痛いと苦しみだした為那古野の病院に緊急搬送をしようとしたが庄内川を渡る前に亡くなってしまったという出来事があった。
清州から那古野は近いようで遠い。もし緊急の際には応急処置ができるくらいの場所は欲しいという話があり、ちょうど按摩所の話が進んでいたので、按摩と応急処置ができる兼用施設となったわけね。
わたしがいるときはもちろん医療行為の対応もできるし、わたしや他の医療型の娘が清州にいないときはうちの医師が常に一人は清州にいて応急処置くらいはできることにしてある。
施設の場所は清洲城の正面の門の近く。なぜそんなところかというと城仕えの人だけじゃなくその家族や領民にもできるだけ使ってほしいから。城の奥の方に施設があると領民たちには敷居が高くなってしまうものね。
もちろん城内施設なんで領外者は対象外よ。
この施設を作った理由はあともう一つあって、盲目などの機能障害がある人の雇用をしたかったから。
盲目の人は元の世界でも盲学校で職業教育として鍼灸按摩を教えて自立できるよう指導していたらしいけど、今の時代にそんな事はしてるわけがなく、そういう人たちは寺に入れられるか屋敷から出させてもらえないか、最悪棄てられる。そんな状況を少しでも変えたいし世間からの偏見などからも今のうちから変えておきたい。
それでなぜ門の近くかというと、できるだけそういう人たちが通いやすくするため。門から施設まではできるだけ段差はなくしてもらっている。結果的に高齢者などにもやさしくつくっているので、いわゆるユニバーサルデザインというやつね。
本当は学校で盲目の子たちに按摩などの施術を教えたかったんだけど実際問題そういう子たちはなかなか表に出てくれないから、わたしが学校で教え始めた当初生徒は集まらなかったわね。健常者の生徒はもちろんいたけど。
特に武士の子とかだと『家の恥』だと思われるようでわたしが家を訪ねて誘っても家人に色々理由をつけて断れられることは当たり前だった。
その状況を変えてくれたのは、武田家の二郎殿。臣従のために尾張にやってきたときに思い切って誘ってみたのよ。史実で失明していたことを知ってたから。
名門だし面目を気にして駄目かなと思ったけど、思いの外すんなり学校へ通ってくれることになった。どうやらわたしも主家の織田一族だしその命令は断ることはできないって思ったみたい。とはいえ、わたしそんなに強く言った覚えはないんだけどな。
彼が学校に通うにようなって、それなり以上の武士の家で視覚障害の子がぽつぽつと通ってくれるようになった。ただ、介助者を雇えるくらいの家じゃないとまだ無理ね。現状では仕方ない。
「うむ、よき建屋であるの」
今日は守護様と大殿が施設や施術しているところを見たいとのことだったので、わたしが案内している。
「段差がなくゆるい坂になっておるのは目が見えぬ者への配慮か」
「左様でございます。目が見えぬ者だけでなく歩きにくい者や老人や子供にも配慮をしたものでございます」
障害者に役目を与える、つまり就労させることの意義は守護様と大殿には書面で説明済みなので、話もそこそこに施設の中に入る。
「これは香でも焚いておるのか?」
「これは薄荷の油を焚いております。皆様に落ち着いて気分良く施術を受けていただきたいので使用いたしております」
「心地よい音じゃ、これはいつぞやの自鳴琴か」
「はい。これも同じく気分良く皆様に術を受けていただきたいのでギーゼラに頼んで作らせました。音曲は変えておりますが以前守護様や大殿にご覧いただきました自鳴琴と同じものでございます」
守護様や大殿が次々と質問されるので、その都度答えていく。
ちなみに『自鳴琴』はオルゴールのこと。リラックスできるよう落ち着いた旋律をラクーアに作曲してもらってギーゼラに作ってもらった。少し遠めに音量を下げて聞こえるようにオルゴールにはカバーをしてあって、音が遅くなってきたら手が空いている者がカバーを開けてネジを巻くことになっている。
オルゴールも元の世界よりもだいぶ早いけど、それはもう今さらだし。
「そうじゃ、弾正よ。そなたこの後に予定はあるか?」
守護様が近習にこの後の予定を聞いた後大殿にもお尋ねになった。
「少なくとも一刻ほどは空けることはできますがいかがされましたか?」
「うむ、せっかくゆえ一緒にここで施術を受けていかぬか?」
「それはようございますな・・・レミアよ、できるか?」
たぶんそう言われるだろうと思って準備はしてあるのよ。
「はい。ではわたしと武田の二郎殿が承らせていただきます。二郎殿は施術においても成績優秀でございますので自信を持ってお薦めすることができます」
「ふむ。では親子ゆえレミアは弾正のほうがよかろう。わしは武田二郎に施術してもらおうかの」
「承知いたしました。それでは準備をさせていただきます」
side:武田二郎信親
あれからどれほど歳月が経ったのであろう。
私は幼い頃に疱瘡にて光を失った。もはや父上や兄上のお役に立つことはできぬと甲斐の躑躅ヶ崎館にて僧になるべく長延寺の実了師慶殿から教えを受け日々を過ごすのみであった。
あれは、その日の修行を終え実了殿が寺に戻られすぐだったか。母上から悲しげな声色で躑躅ヶ崎館から相模を経て尾張に落ち延びることになったと告げられた。
少し前から父上が駿府との戦や国内の国人達に苦慮されていることは知っていたが、まさかそこまでになろうとは思いもしなかった。
私は昔から頼りにしている近習の作左衛門に目代わりとなってもらい母上や兄上らと共に躑躅ヶ崎館をあとにした。その道程は長く険しく、とても寒かったことは今でも忘れられない。
相模にて南蛮船とやらに乗せていただき尾張にたどり着いた。そこで兄上は織田の大殿に臣従をされたが、私は尾張にて得度して真宗の寺にでも入ろうと思っていた。あのまま躑躅ヶ崎館におったら年明けにでも得度をという話は出ていたのだ。場所と時は違えどそこは変わりあるまい。そう思っていた。
そんなときに思いもかけない方がわざわざ訪って来られた。
「西保三郎殿も学校にてよく学んでますし、二郎殿や四郎殿も学校にて学ばれてはいかがでしょう?」
四郎はともかく私にまで・・・。織田一族のお方様ゆえ命には逆らえないが、とはいえ私が学校なる学舎に行っても文字も見えぬしご迷惑になるだけではないだろうか。
「二郎殿が目が見えないことは存じています。だからこそ学んでもらいたいの」
目の前におられるであろうレミアと名乗る久遠家の奥方様は、目が見えないなら見えないなりのことを学んで、そしてお役目もあるのだと。そう仰った。
戸惑いはあったが、大殿の御猶子であられる内匠助殿の奥方様のお言葉ゆえ軽んじることなど出来ようはずもない。私はその場で承諾の返答をして、母上も心配であろう声色ではあったが承諾した。
それ以来私は学校で真摯に学んだ。学校に来て最初に適性試験なるものを受けて、目は見えぬものの手の感触や聞こえるものに関しては他の者よりも鋭敏であるとのことで、いくつか何を学ぶかの選択肢を頂き、この学校の御縁を頂いたレミア殿の専門であられる按摩や足つぼ按摩・・・正しくは反射療法というらしいが、それらを学ぶことにして今に至っている。
「ふむ。では親子ゆえレミアは弾正のほうがよかろう。わしは武田二郎に施術してもらおうかの」
「承知いたしました。それでは準備をさせていただきます」
布の間仕切り越しに守護様やレミア殿のお声が聞こえる。事前にレミア殿からは守護様や大殿がご覧になる時にもしかしたら施術もされるかもしれないから準備だけはしておいて欲しいと仰せだったので、抜かりなく準備はしておったが誠にそうなるとは思わず、それも守護様を施術するなどと畏れ多いことになってしまって本当に良いのかと緊張かつ困惑をしている。
「では、それぞれの湯を張った桶の中に足を入れてくださいませ。助手の者たちが足を洗います」
間仕切り越しにお二方が学校で学んだ施術前に足をほぐしやすくするため温めるための足湯に入っていることが聞こえてくる。
「落ち着け作左衛門、いつもどおりにすればよい」
「は、はっ。申し訳ございませぬ」
目が見えぬ私の助手として隣にいる、私の近習である作左衛門の方から緊張している気配が伝わってくるので、私自身にも言い聞かせるように声を掛ける。
しばらくすると間仕切りがすっと開く音がした。作左衛門が平伏するような仕草を感じたので恐らく守護様や大殿がお見えになったのだろうと思い、私もその場で頭を下げる。
「よいよい、面をあげよ。それでは施術もできまいて・・・武田二郎、よろしゅう頼むぞ」
「はっ、畏まりましてございます」
守護様のお声掛けで作左衛門とともに面を上げた。
「では、大殿はこちらで横になってくださいませ。守護様はそちらに」
レミア殿が施術する大殿は隣の寝台で施術をされるようだ。
「二郎殿、足つぼ按摩をお願いします。守護様、恐れ入りますが二郎殿の方にもう少し足を近づけてくださいませ」
「うむ」
「作左衛門、守護様の御身に掛け多織を」
「はっ、・・・それでは失礼致しまする」
寝台で多織が擦れる音を確認すると、自らを落ち着かせるために軽く深呼吸して施術を始めることにする。
「それでは、始めさせていただきます」
「うむ」
畏れ多くも守護様の御足への施術を始める・・・初めは親指あたりから・・・やはり政などをお考えになる時間が多いからであろうか。かなり凝っておられる。これだけ凝っているものをほぐそうとするとかなり痛いはずなのだが。
「守護様、強さはいかがでございましょうか。痛うはございませぬか」
「おう、良いぞ。かなり痛いと聞いておったが思いの外痛うないの。もっと強くしても良いくらいじゃ。遠慮は無用ぞ、二郎よ」
「恐れながら、これ以上は守護様の御足の筋を痛めてしまいます」
「そうか、ではそのままでよい」
足つぼ按摩の実習で同じ程の凝りをほぐそうとした者はあまりの痛さに叫び悶絶していたのだが。
「さすがは守護様でございます。ただ、あまり痛みを感じぬのは凝りすぎている場合もありほぐれる途中で痛くなることがありますのでお気をつけください」
レミア殿が隣で大殿に施術しながらであろうか、守護様に声掛けをされた。
「ほう、そうなのか」
「そして大殿もさすがでございますね。大殿は我慢強くあられる。しかしながら力むと施術が逆効果になる場合もありますゆえ、力まず痛みを受け入れるような気構えでいてくださいませ」
「なかなか難儀なことを言う」
「ほう弾正、痛いのか?」
「この程度、痛みのうちに入りませぬ」
「まあ、そういうことにしておこうかの」
守護様と大殿がお親しい間柄とは伺っていたが戯言のようなことを言われるほどなのかと少し驚く。
その後、半刻ほど足つぼ按摩とふくらはぎを香油で揉む施術を行い、その間お二方は政のお話を交わされていた。
結局守護様は痛みを訴えられることはなかった。レミア殿曰く痛みは個人差があり守護様のようにあまり痛がらない場合もあるとのことだった。
「なんと心地良きことか。足が軽くなったような気がする。のう弾正」
「はっ、左様でございますな」
「大殿、少々胃の腑がお疲れのようでございます」
レミア殿が大殿に仰せになった。言われてみれば守護様も胃の腑のあたりのツボに違和感があった。守護様も同様なのだろう。私も進言する。
「畏れながら、守護様も同様でございました」
「確かに近江御所で宴続きの上こちらに帰ってきても宴続きだったからな」
私の進言に大殿が仰せになった。守護様の御足に施術させていただき察するに胃の腑もそうだがかなり気疲れを感じる節があった。やはり政に直結するような宴は心も体もお疲れになるのであろう。
「では、セルフィーユに言ってしばらく胃の腑にご負担がかからないような食事と胃を整える薬茶を用意させましょう」
「うむ、任せる・・・では守護様、そろそろ戻りましょうぞ」
「そうじゃな・・・レミア、そして二郎よ。城で働く者達や清洲の民達を癒やす役目、ここで存分に果たすが良い」
「承りました」
「はっ」
そして守護様と大殿、そしてレミア殿が間仕切りの外に出ていかれるようだったので頭を下げた。
その日はそれで役目は終わり、邸に戻ると父上が甲斐から来られていた。清州の評定に出るのと甲斐の現状報告をされるためだとのこと。
どうやら私がもうすぐ邸に戻るだろうからと、父上を始め母上や二人の弟たち、そして四郎の母である諏訪殿で夕食を待っていたらしい。
内匠頭殿の家では家族一緒に食事をするということで、多くの織田家中がそれに倣っており、武田家も同様に内匠頭殿に倣っている。
常ならば祖父上や兄上も一緒なことが多いが、祖父上はどうしても城で離れられぬ要件があるとかで先程近習から城で夕食をとると知らせがあったそうだ。そして兄上は先日父上と入れ替わるように甲斐に行き、父上の代行として躑躅ヶ崎館で差配をしている。
食事が終わった頃、父上に今日あったことを報告する。
「父上、本日より城内に新たにできた按摩所の施設にて役目に就くことになりました」
「ほう、そうか。それはよかった。よく励めよ」
父上の心からの嬉しそうなお声に私まで嬉しくなってしまう。
「はい、それで守護様と大殿が施設のご視察にお見えになって、畏れ多くも守護様の御足に施術させていただく誉れをいただきました」
「なんと」「まあ」
父上と母上が同じ間合いで図ったかのようにして驚かれているのが何故か少し可笑しい。
「正直に言いますと緊張しておりましたのでどう施術したかははっきり覚えておりません。しかし、施術後に守護様からお褒めの言葉をいただきましたので、うまくできたのだと安堵いたしました」
「それは良き誉れを頂いたな。二郎に負けておられぬ。わしも励まねば・・・されば二郎、その守護様にお褒めを頂いた技をわしにも受けさせてくれぬか」
「それはよろしゅうございますが・・・」
まさか守護様に続いて父上に足つぼ按摩をすることになるとは思わなかったが、まずは足を温めてもらわければならぬ。
近習に言って桶に湯を張って父上に入っていただく。足を洗うのは・・・諏訪殿にお願いした。私ももちろん習っておるのでできないわけではないが、母上や諏訪殿のほうが父上の足洗いは慣れておろうからお願いをすると諏訪殿がやると言ってくださった。
そして施術を始める。・・・やはり父上もかなりお疲れでいらっしゃるな。
「む・・・なかなかよく学んで・・・おるようだな」
「痛すぎましたか?」
「なんの、わしは甲斐源氏、武田の当主ぞ。この程度の痛みなぞ・・・ぐっ・・・なんということは、無い」
父上の反論にクスクスと母上のかすかな笑い声が聞こえてくる。
「殿、そう仰せの割には顔が赤うございますが」
「こ、これは先程の湯が温かかったからだ・・・なんだその顔は。信じておらぬな」
明らかに父上は痛そうだが、レミア殿から『足を触って疲れていると判断したら痛いと言われても遠慮をしてはだめ。きっちりほぐして差し上げなさい』と教えを受けている。父上には多少申し訳無さがあるがこのままの強さで施術を続ける。
「二郎兄上の術、某も受けとうございます!」
四郎の元気の良い声が聞こえた。
内々に決まっておることだが四郎は元服後に諏訪家を継ぐ身。学校や諏訪殿にいろいろ諏訪について教わっており日に日に逞しくなっているのが声色でわかる。
「四郎が二郎兄上の施術をされると痛すぎて泣いてしまうのではないか?」
ひとつ下の弟である西保三郎、今は武田三郎信之となったが、三郎が少し四郎を揶揄するかのように声を掛ける。
三郎は元服後文官として将来を嘱望される身であると他の者達から聞いている。早くから学校で学んでいたこともあり、若武衛様にお目を掛けていただいているせいか、どこの部署からも引く手あまたであるという。特に明の言葉を読み書きだけでなく話すこともできるので、蟹江湊の繁忙期によく援けに行っているのだと三郎本人から聞いた。
「この四郎、童子のような泣き言は言いませぬ!そういう三郎兄上は二郎兄上の術は受けたことはあるのですか?」
「あるぞ。多少痛くはあったが心地良かったな」
「おや、『もうご勘弁を!』と悶えておったのは、どこのどなたでありましたでしょうや」
「母上・・・そのような余計なことは仰せにならないでくださいませ」
母上が可笑しそうに仰せになると三郎は困惑したように声を上げた。
母上が仰せなのは、以前学校の『参観日』とやらで母上が学校に来てくださった時、三郎が偶々授業が終わったばかりとのことで、私の施術実習のときに三郎が実習相手になってくださった時のことだろう。
「殿方というのはいくつになっても強がりを仰せであらしゃって、なんとまあ、かいらしきことで。のう諏訪殿」
「ほんにほんに」
「「ほほほほほ」」
「母上・・・諏訪殿まで・・・」
母上と笑い声と三郎の困惑した声がした。
尾張に来て、私に二つの光を得た。
一つ目は躑躅ヶ崎館にあのままいたら僧にしかなれなかったであろう私が清洲の城にて役目をいただき禄までいただくことができた。武田の家に少しでも役に立つことができ、そして目が見えぬ私にずっと尽くしてくれている作左衛門にも報いることができることを嬉しく思っている。
そして二つ目はこのような家族の団欒を得ることができた。躑躅ヶ崎館では家の者であっても心を許すことができない雰囲気がずっとあった。特に父上と兄上は同じ場所におると険悪な、そもすると殺気に似た気配もよく感じたものだったが、尾張に来てそのようなことは一切なくなり、此度のような戯言のようなことも言い合えるようになった。私はそれが何より嬉しい。
さあ、明日から新たな役目が始まる。とはいえまだまだレミア殿の施術の域に達するには程遠い。お役目と同時に精進も欠かさぬようにせねば。
学校でアーシャ殿やレミア殿が仰せだった『明日への希望』とはこういうものなのだろうな。
◆◆◆
清洲按摩所
永禄年間からあったとされる国立の按摩施設。
日本全体が戦国時代であった中、尾張は『もはや戦国の世ではない』といわれたほど斯波・織田の治政が安定しており、その安定した治政を担う清洲城は文官が多数いたと言われている。
久遠家の提唱により城内に食堂を作るなど現代で言う福利厚生が発達してきており、按摩所の整備はその一端であったと言われている。
提唱者は久遠レミア。俗に『按摩の方』といわれる女性であり、現代で『日本式総合按摩の始祖』と呼ばれる人物。
レミアは按摩所整備の提唱だけでなく障害者の採用も積極的だったと言われており、その中で有名なのは武田信親である。
信親は武田義信らとともに尾張亡命後、学校でレミアから按摩術を習い始め優秀者として織田学校に記録が残るほどの成績を収めていた。
レミアの推挙により按摩所開設当初から従事しており、時には斯波義統や織田信秀から直接指名を受け施術を行っていたと言われ、後に盲目ながら清洲按摩所の所長となっている。
現在は同じ清洲市ながら城内から場所を移し『国立清洲按摩所』として近隣住民だけでなく遠方から施術を受けに来る患者も多く押し寄せており、また所員として盲目や足が不自由などの障害者の雇用も積極的に行っていることで知られている。




