閑話・-菓子下されの日、再び-
※お菓子の品目は、閑話「菓子下されの日」参照。
本作はYVH様より頂いたものになります。
6月中旬頃、尾張国某所。
side:ある忍び衆
ああ。今年も、この時期が来たな……
正月や祭りも好ぇが。儂は断然、こちらだな……
お、お頭様じゃ。
「皆の者、大儀である!
御下命で出ている者も居るが、今年も菓子下されの日が来た。
今回も、殿は我らに余る程の菓子・食い物を下された。
皆でこれを食し、英気を養い。御家の為に尽くすように!
それと。今年は新しき菓子が増えておる。
食うたら、思うた事を儂に報告せよ。
お方様が皆の存念を知りたいと仰っておられる」
『ははあっ!!』
ほぉ……お方様が。これは心して食わなくてはいかんのう……
さて。お頭様の話が済んで、皆で平伏した後は……
さあ!菓子を食うぞ!
side:忍び衆お頭
また今年も、この時期が来たか……
故郷に居った頃は、菓子など当然の如く食えず
毎日、食うや食わずの生活……
他国に忍び働に出れば、素波・乱波と蔑まれ
足軽よりも軽い扱いを受けていた我らを初めて「人」として
見て下された。久遠家の方々……
殿は不心得を致し、その責めを負うと割腹して果てた者達にも
涙を零されて哀惜なされたという……
以後、命大事に、が御家の掟になったという……
我らを人して認めて下さった殿の為に、以後も励まねば!
「今年の、かすていらは変わっているな」
「ああ。なんでも、お方様の何方かのご発案で
食べ易くと言うので
この『かすていら巻』になったそうだ」
「確かにな。これなら片手で食える」
「おい。この木の器に入った豆腐みてえのは何だ?」
「それは杏仁豆腐と聞いたな。薬師の方様のご指示で
今年から加わったそうだ。体に好いらしい」
配下の者共の話が聞こえてくる……
どの声も明るく、希望に満ちておる。
「そういやあ、知っているか?
この芋羊羹が都では
黄金羊羹と呼ばれているそうじゃ」
「ほう、そうなのか?
儂は、西の御役目は受けた事が無いからのう」
「そうだ。先だって、山城から戻った奴が言うていた。
なんでも武衛陣の客人に振る舞った処、その御仁が
『これは黄金の様じゃ!』と言ったのが広まったそうじゃ」
皆、楽しそうで善き事。
さて。儂は菓子の前に、蕎麦がきでも食うとするか。
これと清み酒の組み合わせは絶品じゃ!
side:ある風魔衆
今年も上手く、この時期に尾張に参る事が出来たな。
さて、日輪堂に向かうとするか……
-日輪堂-
いつ来ても、ここは賑やかじゃな。
童達に混じって、様々な者達が居る。
ん?縁先で源平碁をしているのは……斎藤山城守!?
相手は……久遠の重臣、湊屋彦四郎!?
side:湊屋彦四郎
「ほれ!また儂の勝ちじゃ!!
約定通り。甘酒一杯、そちらの奢りじゃぞ。湊屋の」
やれやれ……困ったお人じゃ……
隠居をしたというても、まだまだ忙しいだろうに……
「元より承知。やはり蝮と言われた御方には勝てませぬ」
「……ここに居るのは、ただの油問屋の隠居
『山崎屋庄五郎』じゃ。湊屋の」
真顔になられた。これは……こちらの失態ですな……
「これは失礼を。山崎屋のご隠居様」
「それで良い。ここは慈母の方殿、肝煎りの店。
物騒な蝮など、居てはならぬ」
さすがは斎藤山城守様。隠居されたとはいえ
老け込む御仁ではありませんな……
side:ある風魔衆
……ふう……肝が冷えたわ。
隠居したとはいえ、さすがは美濃の蝮……
我の事も気が付いておろうな。さっさと用を済ませるか。
「おやじ。また来たぞ。何時ものをくれ」
「おう、いらっしゃい。何時ものじゃな」
いつ参るか知らせておらぬが、しっかり用意されておる。
さすが、元は同業。抜かりはないな……
「ほれ。金平糖と黒砂糖の飴じゃ。
お代は久遠のお殿様から頂いておる」
「……いつも忝いと、久遠様に」
「なに、そちらとは昵懇なのじゃ。
このくらいは、お殿様なら笑ってお許しなさるさ。
故郷への分は、他の衆が持って行ったぞい」
「そうか。では」
おやじに一礼して店を出る。
相変わらず、恐ろしい所じゃ……
我らのような者達にも、菓子をご用意下さるのだからな…久遠様は。
駿河守様※が、我ら風魔の待遇改善に奔走されておるが
まだまだ尾張の忍び衆の待遇には程遠い状況じゃ。
過去には、かなりの風魔が尾張に流れたが……
さて、それでは南蛮船…今は恵比寿船じゃったな。
小田原行きの船に北条家中という触れ込みで便乗して帰るか!
現代の6月16日が「菓子の日」と言われているのは
戦国時代に久遠家から始まった「菓子下されの日」からという。
何回か行われた後、久遠忍び衆に下賜される菓子に
現代まで伝わっている「杏仁豆腐」が加わった。
杏仁自体は古から薬として日本に伝わっており
戦国期の公卿として知られる山科言継卿の「言継卿日記」にも
咳止め薬として使用されていたとする記述がみられる。
尚、忍び衆に振る舞われる蕎麦は、彼らの希望で
蕎麦がきが振る舞われたと「久遠家記」に記されている。
理由は諸説あるが嘗ての苦しい生活を忘れない為と
言われる説が、現在では主流となっている。
また別の説では。久遠一馬を筆頭に上層部では切蕎麦が
主流となっており、一緒では畏れ多いと彼らが思った為とも
伝わっている。
面白い事に、この日に尾張に来られた風魔衆にも
久遠一馬の好意で菓子が贈られたという。
「久遠家記」によると、嘗て北条から災害救助の礼として贈られた
伊豆諸島の返礼の意味が有ったと記述されており、風魔衆とは別に
北条家自体にも、織田の名で多数の菓子が贈られていたという。
※北条家の長老、北条幻庵の事。