『継ぐ』ということ
本作はみどりいろ様より寄贈されたものです。
side:熱田の宮大工
オレは那古野に来て親父や他の職人たちとともに汗を流している。
オレの名は岡部又右衛門。家は代々宮大工として熱田神社に携わっていて、親父曰く岡部の家は将軍様のもとで修理亮という役を言い付かっていた家柄だったというが、そんなような話はどこででも聞くし本当のところはオレもよくわからん。
親父からは童の頃から『木が継げねえ奴には家を継がせねえ』と駄洒落のような事を常々言われていてずっと熱田の屋敷にある作業場で精進してきたが、ある時いきなり普請場に連れて行かれた。どうやら尾張で親父が請け負う普請が多すぎて猫の手でも借りたいような状況らしく、オレのようなまだ元服も済んでない者でも駆り出されることになった。親父に木継ぎの技がまだ十全じゃないことを言うと『そんなことは端から承知だから、頭じゃなく身体で覚えろ』と親父は言っていたが実際はオレのような未熟者であっても手が欲しいということなのだろう。それほどまでに宮大工は今忙しい。もう隠居していた職人たちに親父は声をかけて身体が動いてかつその気がある者は復帰させていたり、さらには職人の息子や孫たちでオレくらいの歳の者にも現場を早く憶えさせる名目で簡単な仕事の手伝いをさせるくらいだ。
それというのも織田の若様に昨年から仕えている、熱田の湊にも来るようになったあの大きな南蛮船を持つ久遠様が寺社だけでなく学校という学び舎や病院という診療所などにも宮大工の力を貸して欲しいと直々に願われたらしい。報酬も弾んでしかも後世に名とその仕事が残ると言われたら親父も嫌とは言えなかったようだ。
今日は親父達とともにその学校に来ている。できたばかりの新しい建物ですでに学ぶ者がちょくちょく来ているようだ。オレたちはもちろん仕事のために来たのだが、そこでオレはちょっとした好奇心があって仕事が休みの時に学びの様子を覗いてみた。そこでは壁に貼り付けた黒い板に白い墨で女が何かを書いていた。よくわからない文字がある中で読み取れたのはいくつかの漢数字だ。教えているのは久遠様の奥方様の一人で通称天竺の方と呼ばれている方らしい。
夕方になり仕事が一段落ついた時、天竺の方様に声をかけられた。
「興味があるなら受けてみる?算術なら大工で役に立つわよ」
大工仕事で算術が役に立つなど親父からはもちろん他の職人たちからも聞いたことはないのだが本当なのだろうか?まだ学んでいる者が少ないから覗いていたオレを誘っているだけなんじゃないだろうか?そう思っているとお方様は簡単な例をあげてくれた。
・・・確かに聞く限り算術を知っていれば大工仕事に役に立ちそうな気はするが、学校に行くと言ったら親父は許してくれないだろうな。『坊主や商人でもねえんだからそんな事する暇あったら木の継ぎ方を一つでも覚えろ』とか言われて拳の一つぐらいはくれそうだ。
一度はお方様の申し出は断り、普段の仕事に打ち込んではいるものの、なにかオレのなかでもやもやしたものが残っていた。親父をはじめとした職人達は経験と勘を大事にする。それはそれで間違いではないと思う。でも、算術を使うやり方もあるのではないか。経験と勘に加えて算術を使えるようになればもっと良いものができるのではないか。オレはそう思うようになってきていた。
何日か経って、オレは居ても立っても居られず親父に怒鳴られるかぶん殴られるのを覚悟で学校に算術を学びに行きたいと打ち明けた。そうしたら、微妙な表情はしていたものの意外とあっさり認めてくれた。なぜかと思ったら天竺の方様が親父にすでに掛け合っていたらしい。親父としても仕事と報酬を気前良くいただける久遠様の奥方に、取り入るとはいわないまでも誼の一つとして考えているのだと思う。ただ、条件としては仕事に差し支えることは絶対するなということだった。
そうしてオレは仕事の合間をみつけて学校に来ることになったのだが、初めて学校で学んだのは算術ではなく楷書体という文字の読み書きだった。オレたちのような宮大工は寺社を建てるにあたりその寺や神社をより知るために書物も読むこともあるからそれなりには読むことくらいはできなきゃならないんだがそういうところの書物は崩し字だ。天竺の方様・・アーシャ様という名らしいがアーシャ様曰く算術には最低限でもこの文字の読み書きは必要らしい。いきなり大工に役立ちそうな算術を教えてもらえると思っていたオレは少し肩透かしを食らった気分だった。もしかしたら本当に騙されて勧誘されただけだったのかとも思ったが、オレの不安を見透かしたかのようにアーシャ様はなぜこの文字の読み書きが必要かと算術への手順を懇切丁寧に教えてくれた。
あれから4年か。一昨年『以言』という名をもらって元服した。仕事はまだ一人前とはとても言えないが、木の継ぎ方は複雑なものでなければなんとかできるようになった。仕事の方はあのときも忙しかったが今もやっぱり忙しい。
本来はウチが一旦受け持った普請場は他の者達には任せないんだが、もうそんな事を言ってられなくなって京などの畿内から移ってきた職人や同じ尾張でも熱田以外の職人たちとも仕事をするようになった。最近は丹羽郡から来たという中村家の職人達と仕事をすることが多いな。普段は真清田神社などに携わっているらしい。
元服前はそれなりに学校に行く機会があったが、さすがに元服した後だと任せられる仕事の量も増えて昼にはなかなか行くことができないので、数日に一回ぐらいで夜に学び学校の寮で寝させてもらって翌日仕事があるときは寮から直接普請場に行っている。久遠様には職人たちも七日のうち一日は仕事を休むよう命じられているので、休みのときは昼も学校に行って夕方に熱田の屋敷に帰っている。昼は他の者達と混じって学んでいるが、夜にここで算術を学ぶときは南蛮船の中で使っているという灯りを使わせてもらっているので暗さをあまり感じずに学べるからありがたい。まあ夜にわざわざ教室で学んでいるのはオレ一人なんだがな。その度にアーシャ様に付き合っていただいているから本当に有り難いと思っている。
アーシャ様から教わる算術は、最初は漢数字でなくアラビア数字という天竺や南蛮で使っているという数字を覚えることに始まり、加算、減算、乗算、除算の四則演算、乗算の基本となる一桁九九乗算や天竺で習うという二桁の九九乗算、分数や小数、累乗や平方根、方程式とだんだん難易度は上がっていったが、オレはそんなに難しいとは感じなかったな。それどころか逆にどんどん楽しくなってしまっていた。それに付随して暗算が楽にできるようになり、またアーシャ様から算盤という計算道具をいただいて大きい桁の計算ができるようになったので、いままで親父がどんぶり勘定でやっていた大工仕事に必要な材料の計算や費用の計算、工期の算出などは、オレが助言できるまでになると学校に行くことにいい顔をせず軽く文句の一つも言っていた親父もさすがに何も言わなくなった。
夜に学校で学んでいるうちに、いつしか一人の武士の嫡男とよく一緒に学ぶようになっていた。名は本多弥八郎。西三河の国人の次男らしいが兄が夭折したため嫡男になっているという。父親が織田様に臣従してから、ここで学ぶために今は那古野に小さい屋敷を構えているらしい。歳はオレよりも2・3つ年下のようで、元服はまだしていないようだ。
「今日も夜学びか、弥八郎。おまえは昼もここで学んでいるんじゃないのか?」
「いや、オレはこのところ簡単な算術を皆に教える側にまわってるんだ。こういう複雑な算術は昼にやれないからな。又右衛門が夜に学んでると聞いて便乗させてもらってるから正直助かってるよ」
最近は新しい事を教わるとき以外はアーシャ様が出す課題をひたすら解いている。アーシャ様は教室の後ろで黙って見守ってくださっていて、どうしてもわからないときは助言をくださる程度だ。黒板も弥八郎と半分ずつ分けて自由に使っていいことになっていて、課題の途中の計算や数式を黒板に書き殴っているので、黒板はいつもお互いが書いた数式だらけの状態だ。
オレは今三角形などの様々な図形の面積や一辺の長さ、角度の出し方など、より大工の仕事につかえそうな実践的な算術を学んでいるが、弥八郎はというと累乗や平方根や方程式あたりはオレと同じだがそれ以外はオレとはまた違う算術をやっている。聞くと今は「度数分布」というものを学んでいるらしい。算術でも色々あるものだな。
「さあ、休憩しましょうか。今日はエルが羊羹を作ったから食べて」
一刻ほどしたらアーシャ様が麦湯とともに羊羹を持ってきてくれたので弥八郎とともに休憩にした。以前アーシャ様が仰られていたが考えたりして頭を使った時は砂糖を使った菓子を食うといいらしい。学校に来る前は砂糖菓子など見たこともなかったし存在さえ知らなかったが、いまや那古野はもちろん熱田でもそれほど珍しいものではなくなった。そんなことを思いつつ、休憩していてふと浮かんだ疑問をオレは弥八郎にぶつけてみた。
「なあ弥八郎、オレは算術を自分の大工仕事に役立てるために学んでるんだが、おまえはなんで学んでるんだ?」
そのオレの問いに弥八郎は軽く眉を顰めながら答えた。
「それはおまえと同じだ。・・武士は武働きしてこそと思っているのか?今の清洲や那古野を見てみろ。大殿を始め若様や久遠様、そして他の多くの方々が文官仕事をしている。他家の領地では知らんが、もはや武働きだけでは尾張、いや織田家の領内では務まらぬ。親父も安祥の三郎五郎様のもとで仕えているがそれを痛感しているそうだ」
そう言って弥八郎は羊羹を小さく切って口に入れる。
「生憎というか幸いというか、オレはどうやら武働きよりも口や頭を動かした働きのほうが向くらしい。親父に言われたよ。『家を継ぐのはそなたで動かんが、三弥の方が武の筋がいいから武の手柄は三弥に任せよ。そなたは知の手柄を目指せ』とな」
三弥というのは弥八郎の7つほど下の弟らしい。まだ国元にいるようだが、近いうちにこの学校に武芸を学びに来たいと言っているという。
「弥八郎は頭も良いし口達者だからな。それがいいかもしれん」
オレがそういうと弥八郎は軽く苦笑した。
「それは褒められているのか貶されているのかわからんな」
その言葉にオレと弥八郎は軽く笑った。
「そういえば万千代は昨年元服してすぐに市江島でお役目を果たしているようだが、万千代は算術も強かったな」
弥八郎が言った『万千代』とは那古野の城と庄内川とのほぼ中間ほどにある児玉村の丹羽家の次男で、元服後は丹羽五郎左衛門尉と名乗っている。昨年元服するまでオレたちと算術を学んでいたが、他の学問や武芸も満遍なく学んでいたようだ。
「ああそうだったな、一桁九九だけでなく二桁九九もあっという間に覚えたのにはさすがに驚いた。本人はコツさえ掴めればあとは応用だとは言っていたが」
「万千代は学業も武芸もそつなくこなすし人当たりも良い。武芸は叶わぬかもしれぬが武芸以外に関してはオレの今の当座の目標だな。万千代は」
そういえばこの前、万千代から文が来ていたな。これといった用ではないんだが、オレのような大工にも親しかったからと文が来るんだから、ああいうのを筆まめというんだろうな。
「目標か・・・。オレはまず木継ぎを全て憶えて棟梁として家を継ぐことかな」
そう言ってオレは教室の天井を見た。灯りの光の奥に親父達の丁寧な仕事が見える。
「そうか・・又右衛門は建築という形として名を残せるんだな。オレは後世に名を残せるだろうか」
「残せるさ」
少し自虐気味に元気なく言う弥八郎にオレは元気づけるように答えたが、その答えに弥八郎は少し苦笑いをした。
「織田の大殿や若様、そして久遠様や久遠様のお方様がたは確実に名を残されるだろうが、オレはわからんな。他家と折衝でもして口先だけで一国獲れば残るかもしれんが」
「そうしたら弥八郎が口先で獲った国にオレが城や学校を建ててやるよ」
「それだとオレでなく又右衛門のほうが名を残しそうだな」
弥八郎がそう言うとくすくす笑い出し、それにオレも釣られて笑い出す。一緒に休憩していたアーシャ様はその様子を見て微笑んでいらっしゃったが、オレたちが笑い終えると立ち上がった。
「さあ、休憩はおしまい。でももう遅いからまた明日にする?」
アーシャ様の問に弥八郎はすぐに表情が改まった。
「できればもう少し続けとうございます」
「わかった。じゃああと半刻だけね。半刻思い切り集中して課題に取り組んだら今日はそれでおしまい。いいわね?」
アーシャ様の言葉にオレと弥八郎は頷き、それぞれの課題に再び取り組み始めた。
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(フリー百科事典より抜粋)
岡部又右衛門
生没年は不詳だが、天文年間の初め頃に生まれたと思われる。室町時代末期から織田時代初期の宮大工。諱は以言。
尾張の大工で熱田神宮の宮大工の棟梁。「岡部家由緒書」に拠れば、岡部家は室町幕府将軍家の修理亮を勤めた家柄とされる。
元服前から織田学校や久遠病院をはじめとした織田家もしくは久遠家に関わる建築物に大工として参加しており、その後家督を継ぎ棟梁となってからも各地の様々な城郭や寺社そして公共施設の建築に携わっている。
地震の多い日本本土において宮大工建築における役割は大きく、数多くの重要な建築物が地震による倒壊を免れており、その内装や書物等もまた消失を免れていることで、現在数多くの保存状態の良好である重要な歴史的また文化的資料の残存に大きく寄与したと言われている。
この頃の大工は経験や勘を重要視して学問を軽視していたといわれているが、この岡部又右衛門がはじめて算術(数学)を建築に併用したと言われている。当初は四則演算などの基礎的なものしかなかったが、度量衡が整うと次第に三角関数などの高等数学を使用するようになったと言われており、現在では日本の建築数学の父と言われている。
なお、大工が当時学問を軽視していたにも関わらず又右衛門がどういう経緯で学校に入学・在籍したかは明らかではないが、一説には織田学校創設時に教師をしていたとされる久遠アーシャが又右衛門の才能を見出し勧誘したと言われている。[要出典]
また、織田学校在籍時に、後に織田家重臣となる本多正信と年齢が近かったと言われ、また算術を学んだ仲として身分を超えた親しい間柄であったと言われている。その本多正信も政治に統計数学を取り入れ、日本の政治統計学の父と言われていることから、織田学校の日本における影響とその重要性がわかる一例といえる。
他に同じく後に織田家重臣となる丹羽長秀が又右衛門と親しかったとして知られており、丹羽家・岡部家ともにやりとりしたと思われる書状が現存している。
なお、現在の名古屋市熱田区に岡部家屋敷が現存しているが、岡部家は名古屋市に屋敷や敷地ならびに家財の一部を寄贈しており、それらは現在それぞれ重要文化財として管理されている。[1]
脚注 [編集]
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[1] ^ 野沢チュンガライ(2650年2月6日) "瑞穂大陸各都市で活動中の『日本の建築数学の父』の末裔、日本国名古屋市内にある屋敷家財を名古屋市に寄贈" 東部みずほ新聞 皇紀2650年2月9日閲覧。