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yorunohazama   作者:
3/3

3

 ピピピ、ピピピ、ピピピ、ピピ。うむむ。アラーム音を止める。カシオの腕時計。シミだらけのシート。ハンバーガーの匂い。僕が目覚めたのは夜の6時だった。気がつかないうちに僕は眠ってしまったらしい。車の中で寝ると、いつだって身体中が痛くなる。まるで寝ている間に全身に釘を打たれたみたいに。


 外には何もない。焦げ茶色の大地が広がっていて、時より強い風が吹く。すると何かを思い出したように砂がうねりをあげ、そして沈む。そんな繰り返しだ。僅かに生えている枯れかけの木々はマッチ棒よりも脆く見える。まるでマッドマックスだ。バイクに乗ってメル・ギブソンでも走ってきそうな勢いだった。喉が渇いている。僕は冷え切ったコーヒーを一口飲みナッツを二粒食べた。硬くなった関節を良く伸ばし、そしてエンジンをかける。


 僕はとりあえず西に進まなくてはならない。そんな気がした。昨日から何も変わらない殺風景な景色が続くオフロードを僕はベージュのビートルで走った。1970年代製。ビートルズが解散してブルース・リーが死んだ年代。嫌な時代だ。いつの時代だってヒーローは必要だろう。このビートルは世界に70台しかないらしい。これを僕にくれた叔父が言っていた。おそらくハンバーガーの匂いのする限定モデルは世界でこの1台くらいだろうと僕は思った。ギアをトップに入れ、窓を開けた。しかし、海岸線なんて見当たらなかった。セックス・ピストルズの曲もかかっていなかったし、ジンジャーエールも無かった。隣にシゲルが座っていたら、棺桶の方がよっぽどマシだね、とでも言っていたかもしれない。


 僕は窓から顔を出して空を見上げてみた。しかし、星さえも見当たらなかった。みんなどこかに行ってしまったみたいだった。消えていく時はどれもこれも足音を立てずに消えていく。もう、顔も見たくないわ、とでも言って一発顔をビンタしてどこかに行ってくれた方がずっとマシだった。

 ただ、月だけが嫌に明瞭に見えていた。そこにあった月は僕が知っているものよりもずっと、ずっと近くにあった。表面の凹凸や光の衒いをハッキリと見ることが出来た。手を伸ばせば届きそうな気がした。綺麗な丸い月だった。僕の世界はこんなところから、うっすらと姿を変え始めていた。


 ふとラジオを付けてみようと思った。ダイヤルを回してみた。やはり何処にも繋がらない。当然かもしれなかった。この何もかも石化してしまったような風景をみれば、誰にでも想像はつく。ザー、ザーザー、ザー。電波は行き先を失ってしまっていた。アクセルをもう少しだけ強く踏む。エンジンの回転数が上がり、窓から吹き込む風が強くなる。バックミラーからはさらに勢いよく舞い上がる砂がよく見える。まるで津波みたいだ。車内は酷い地面のせいでガタガタと揺れ続けていた。僕はふと、車の中に置かれている写真を見た。見慣れた写真だったけれど今の僕には全然違う写真のように見えた。


 僕は今より少し痩せていて、幾分ハンサムだった。妻は今よりもずっと子供っぽかった。2人とも髪はグッショリと濡れていて、彼女の髪は今よりもずっと短い所で切られていた。これはずっと前の写真だった。僕はこの日のことを良く覚えている。僕らが恋人になった日の暑い、暑い夏だった。


「海に行こうよ」この日の数日前に彼女は言った。


「いいけど、水着がないな」僕はソファに座りながらテレビ中継されていたヤンキースの試合を見ていた。確かバーニー・ウィリアムスがタイムリーツーベースを打ったところだった。右中間を破った、ライナー性の美しい軌道だった。僕が一人で感心していると彼女は突然、僕からリモコンを取り上げ、プツンとテレビのスイッチを切ってしまった。そして僕の手を握り、泳がないわよ。ドライブしたいの。いいでしょ、と言った。僕の心がどこかの穴にストンと落ちたのが分かった。彼女の唇は一瞬で炎色に染まり、僕は彼女の瞳をまじまじと見ることが出来なくなってしまった。僕の心はヤンキースの試合どころではなかった。


 その日は雨男と雨女の僕らにとっては記録的な快晴だった。待ち合わせの午後3時を回っても気温が30度を下回る気配は無かった。空はどこまでも青く、太陽は手を付けられないほど燦々としていた。テレビアナウンサーは汗をかきながら今日の熱中症患者数を読み上げていた。車のまま海に飛び込みたいような日だった。


「晴れてよかった」と彼女は嬉しそうに言った。彼女は白色のブラウスに黒のワイド・パンツをはいていた。この姿を見れるのであれば、例え町にハリケーンが来て津波が襲ってきたとしても僕は車で彼女の家の前まで迎えに行っただろう。


 今日のために買ったAbby RoadのCDを大音量で流し、海沿いに伸びる道路を僕は思いきり駆け抜けた。もちろんハンバーガーの匂いのするビートルに乗って。


(初めて女の子を助手席に乗せたとき、大方の男がそうであるように)ハンドルを握る僕の手の平にも汗が滲み、車内はいつもよりずっと狭く感じられた。


 20歳になったばかりの僕らはどこまでも自由だった。どこにだって行けるような気がした。きっと空だって飛べただろう。彼女は窓を開け、綺麗な黒い髪を靡かせていた。ポール・マッカートニーの歌声の後ろで静かにさざめいている波はいつもより優しく聞こえた。白いガードレールから伸びる海は終わりが無いようだった。まるで世界に僕と彼女しかいないみたいだった。


「素敵な車ね」と彼女は外を見ながら言った。


 僕は本当にこのままガードレールを突き破って海に飛び込もうかと思った。


 ビートルズがHer Majestyを演奏し始めたころ僕らは近くにあったレストランによった。やはりそこからも広い海だけを見ることが出来た。既に太陽は沈みかけていて、海の上でユラユラと気持ちよさげに煌めいていた。レストランで彼女はハンバーガーを食べ、僕はホットドッグを食べた(もちろんたっぷりマスタードとケチャップをかけて)


「デートでハンバーガー食べちゃう女の子ってどう思う?」と彼女は言った。


「私、デートではスパゲッティかオムライスじゃないと食べられないわって言う女の子よりずっと魅力的だと思うよ」僕がそう言うと彼女は嬉しそうにフフフと笑った。ハンバーガーを片手に笑う彼女の顔は何にも変えられないものがあった。おそらくキング・ジュニアがその笑顔を見たら演説を一度止めるだろう。アイルトン・セナはコースアウトするかもしれない。そして僕は少しの間、息をするのを忘れてしまった。もしかしたら時間だって止まっていたかもしれない。彼女の笑顔はそういうタイプの笑顔だった。


 そのあと僕らは瓶に入ったキンキンに冷えているコカ・コーラを一つ買い、それを二人で飲みながら誰もいない浜辺を、ゆっくりと歩いた。酒も飲んでいないのに僕らの足取りは不確かで、体を寄せ合っていないと今にも倒れそうだった。


「私、あなたのこと好きよ」と彼女は長い砂浜をしばらく歩いた後に言った。この浜辺がどこまでも続いて欲しいと思った。


「僕も好きさ」自然に出た言葉だった。


 そう言うと彼女は、私のこと抱きしめてよ、と言った。今思えばそれは、僕をからかう為の冗談かもしれなかったが、僕はその時、迷わず彼女のことを抱きしめてしまった。僕の手に合ったコカ・コーラがパサリと砂浜に落ち、彼女の体の重さが徐々に僕の体に伝わってきた。心の奥が強く締め付けられたのを今でも覚えている。すると、僕らが抱き合うのを待っていたかのように、空からはゆっくりと雨が降り始めてきた。まるで誰もいない広い草原にしっとりと降るような、そんな雨だった。次第に僕らの着ていた服はグッショリと濡れていき、体に纏わり付くようになった。彼女の柔らかい匂いが僕の鼻孔をうち、彼女の湿った息づかいを、確かな胸の膨らみを感じることが出来た。彼女の髪からしたった雨が僕の肌をつたって落ちて行った。海には絶えず波紋が浮かび、風は少しだけヒンヤリとしていた。太陽はどこかに行ってしまった。それはとても幸せな時間だった。この世界が永遠に続けばどれだけいいだろうか。他の記憶に埋もれてしわないように、この記憶をいつまでも抱きしめていたかった。彼女から滴る雨を見ながら、この雨がいつまでも降り続けることを願い、静かな波の音がいつまでも鳴り響いて欲しいと思った。僕は彼女のことをさらに強く抱きしめ唇にそっと、キスをした。そうして僕らは恋人になった。


 すっかり黒く重くなった砂浜の上を傘も差さずに僕らはしっかりと手を握り合いながら帰った。そこにポール・マッカートニーはいなかったけれど、今は波の音だけで十分だった。その音は官能的だった。レストランの横に止めてあった僕のビートルもなんだかいつもより立派な車に見えた。世界はこうも簡単に変わってしまうのかと思った。車の中に置きっ放しになっていた古いフィルムカメラで数枚写真をとり、小さな一枚のハンドタオルですっかり濡れてしまったお互いの体を拭き合った。誰にも邪魔できない、素晴らしい夏だった。それから、やがて僕らは結婚して夫婦になった。そして、しばらくしてから何かを思い出したようにシゲルが我が家にやってきた。それはまるで誰か他の人の思い出みたいだった。


 そして僕は今、誰もいない海みたいな荒野を一人で運転している。せめて雨くらいでいいから降ってくれよ、と思った。何年ぶりだろう。この時、僕は久しぶりに涙を流した。涙が一粒だけ、滑り落ちるように流れていった。こんな時に人は泣くのかもしれない。根拠の無い理屈だけが僕の頭の中にあった。大きな水槽で一匹、ユラユラと泳いでいる小さな、名前も無い魚のような気分だった。僕はさらにアクセルを強く踏んだ。海に飛び込みたかった。しばらく走ると前輪がカラカラと異音を立て始めた。ちょっと待ってくれよ、と思った。そしてタイヤは僕の想像通り空回りし始め、動かなくなってしまった。悪いことはいつだって急に目の前に現われる。知らない間にそれはすくすくと育っているのだ。まるで雪崩みたいに。


「クソ!」そう言って僕は思い切り車のクラクションをならした。ぷう、ぷうっとまるでシゲルのおならのような音が荒野に響き渡った。けれど誰も笑わなかったし誰も何も言わなかった。のっぺりとした沈黙だけが残っていた。まるで海の中に金持ちのトイレくらいの大きさの空間がぽっかりとあいていてそこに放り込まれたような、そんな気分だった。そこはトンネルの中みたいにヒンヤリとした所で、車から降りて空を見上げると月が少しだけ遠くに見えた。星は未だに見えなかった。僕は試しに「おーい」と叫んでみた。おーい。おーい。しかしどれだけ叫んでも誰も何も言ってはくれなかった。さっきと何も変わらないじゃないか。何か変わったことがあるとすれば目の前を魚がユラユラと横切っていることぐらいだった。魚?と僕は思った。


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