美味しいリンゴ?腐りかけたリンゴ?
甘い匂い、齧ればサクッと小気味好い音、そして何よりも甘酸っぱい。
***
リンゴは食べれば消えてしまう。当たり前なのに、忘れていた。
実家から送られてきた、親戚からの贈り物。そのお裾分けのリンゴが五つ。
「リンゴ貰ったけど、食べに来る?」
指先で文字を打ち、送信。それから深いため息を吐いた。長く、長い。いつからだろう。理由がないと誘えなくなった。誘わないと会えない。さらに最近変化した。
返事が遅い。
「食べたい!でも無理そう」
もう寝るかと布団に潜った零時少し前。青白い液晶に並んだ文字を、そっと指の腹でなぞる。
遅いだけではなく、必ず続く「無理そう」という単語。
そろそろ潮時なのかもしれない。明日も仕事なのに泣きそうになった。跳ねるように飛び起きて、机に並べたリンゴを手に取った。振られそうなのが嫌なのではない。見ない振りをしている自分が嫌。
会いたいと素直に言えなくなった。
自信が失われて、怖くなった。
もしも恋がリンゴなら、冷えても甘い。というより果物は冷やした方が甘くなる、らしい。果物の味は食べてみないと分からない。放置してたら、変色して腐る。
「腹が減っては戦は出来ない!」
それにしても、一人暮らしは独り言が増えるな。朝食用に買ったヨーグルト。皮を剥いて切ったら、蜜が多いりんごだった。
弱音を掻き消すには笑いだとテレビをつけた。録画してある番組から、面白おかしそうなものを探し出す。明日の仕事は眠くてならなそう。しかし、それでも働けるくらいの実力と経験くらい身につけてきた。最悪、午後は帰ってしまおう。許されるくらいには、一生懸命働いている。
めそめそ、うじうじしていた自分がパンッと弾けた。答えはこれだ。
食べたらなくなる。お腹を満たし、喉を潤す。しかし幸せ一杯の時間も、消化されたらなくなる。
良く熟れたリンゴは爽やかで、甘くて、酸っぱくて、美味しくてならなかった。
また食べたいのならば買うか、貰うかするしかない。もの欲しそうに眺めてても、口には出来ない。手に乗せてはくれても、食べさせてくれない。
「今月の金曜、何処か時間作れるところある?話したいことがあるからお願いします」
英気を養い、決戦だ!予想通り返信は早かった。
「明日。十時過ぎるけどいい?」
待っていたというような、速攻の返信。
男って分かり易い。
***
夕飯を先に食べるというのも気が引けて、仕事帰りの腹減り状態を我慢した。結局、眠くてならないのに目を大きく開いて残業までした。生きていく真ん中に、恋しかない訳ではない。
「本当に大丈夫?」
友達からの心配の文字を眺めて、紅茶を啜った。私の中心が甘いリンゴでも、色んな種類のリンゴがある。やり甲斐のある仕事に、頼れば心配してくれる友人。たまには帰って来いとお裾分けをくれる両親。
アップルティーの甘い香りに、つい笑みが零れた。
「大丈夫じゃない。でも頑張る!」
黙ってたら心配してもらえない。聞かないと教えてもらえない。
「何時でも待ってる。暴走しないで、寂しいっていうのを先に伝えるんだよ」
「ありがとう。旅行の話もつめないとね」
これで二人揃って失恋旅行か。半年前に頼られた時は嬉しかったが、今は有難いなと感じた。中々自分のことを言いにくいから、先に頼られたということで、踏み出し易かった。言わないと心配のあまり後から怒られるのを知っている。
私の大事な友達を大切にしない男なんてい認めない!別れろ!と酔っ払ってくだを巻いたのは半年前。今度は逆。やり過ぎたと反省して落ち込んだが、感謝してくれた。我ながら良い友人を持ったものだ。最近元気が出たきたようなので、私が失恋旅行で友人が新しい幸せの報告旅行かもしれない。そうだといい。いつも付き合うまでは黙ってるから、そんな気がする。
ファミレスで延々二時間、紅茶を飲んだ。旅行先で何をしたい、食べたい、のやり取りで悲壮感なんて吹っ飛ぶ。
「今、駅着いた」
しばらくして、向かいの席に彼が座った。途端に胸が苦しくなった。
「何か食べた?」
「まだ。自分だけ悪いと思って」
正直食欲なんてない。とっとと話してさっさと帰りたい。彼からメニューを取り上げた。気まずい空気で味のしない夕食よりも、大泣きしながらコンビニ飯の方がマシだ。
「最近ずっと会ってなかったじゃない?」
彼が気まずそうに俯いた。寂しくて悲しかっただけだ。食べたいのに食べられないのが、辛かった。高くて手が出ない極上のリンゴより、スーパーの安売りリンゴを沢山食べたい。会えない人よりも、会える人。そっぽを向いている人より、こちらを向いている人。
「寂しかったのに、素直に言わなくてごめんね。忙しそうなのに時間作ってくれてありがとう」
付き合ってられない、という言葉を飲み込んだ。「暴走しないで」という友人からの、私の性格に対する有難い注意。それに目の前にお気に入りのリンゴが現れたら捨てられない。代わりの品種は沢山あるけど、好きなものは代替えがきかない。
私が口にした途端、彼が動いた。足元から出てきた紙袋。何だろう?と観察していたら、中から箱が出てきた。
「今、本当に忙しい。分かってくれると勝手に思ってた。本当にごめん。機嫌直して凛子!」
リンゴパイ、アップルティー、そして何故かリンゴのど飴とハイチュウのリンゴ味。全部、私の名前と似た大好物リンゴのお菓子。
ポカンとしていると、彼が苦笑いした。
「別に怒ってないよ」
今度の彼はほうっと息を吐いた。安心したと言うように。
「本当に?別れ話しかと思った。焦った。ほら、行きたがってたリンゴ狩りも急な出張でダメになったじゃん?俺さ、怒らせたと思って連絡し辛かったんだ」
彼が私の手からメニューをそっと奪った。それから心底安堵したように微笑んだ。
「いや、怒ってないけど……。私そのビーフシチュー食べたい。あと、アップルパイ」
振られると思って、慌てて会いにきてくれたのか。おまけにご機嫌取ろうと、私の好物まで買ってきた。予想外過ぎて何もかも吹き飛んだ。安心したら、猛烈に眠くなってきた。そうだ、報告しないと。スマートフォンで「大丈夫だった」と送ったら。「良かった。明日報告して」とすぐに返事が来た。
「本当に好きだよな、リンゴ」
テーブルに並べたリンゴ製品を紙袋にしまいながら、彼が屈託無く笑った。
「そうよ甘くて美味しい私の世界の中心。元気そのものだもの。だから大好き」
一瞬、彼が目を丸めてそわそわと視線を彷徨わせた。何故だろう?
「こんな夜中に太るからな。明日、出勤したくねえ。何で早朝から会議なんだよ」
彼の鞄からノートパソコンが現れた。知れば納得。本当に忙しくてクタクタなのだろう。でも、会いにきてくれた。見れば分かる。見ないと分からなかった。
「食べたらすぐ帰ろう。お互い遠いしね」
中間の駅なのに電車で一時間。私が不定休で中々休みも合わない。明日は夜勤だから、家に行って何かしてあげたいと思えない。疲れて億劫になってるのはお互い様だ。自分、自分で目を背けていた。
「あのさ……。いや、なんでもない。一先ず、年末までだと思う。こんなに忙しいのは」
だから我慢して欲しいという視線。期限が分かってるなら待てると思う自分。我ながら単純だ。
「疲れてるなら出掛けなくて良いし連絡も無くて良いよ。たまにはご飯作りに来てって言ってくれたら、嬉しいけどね」
「え、忙しいんだろう?でも、あー、俺、凛子のカレー食べたい。家のと違うけど、あれ好きなんだよな」
「隠し味はたっぷりのリンゴだよ」
「本当にリンゴばっかだな。コンビニでリンゴって見ると、凛子のこと思い出す。最早洗脳だな。怖い怖い」
そう言いながら彼は優しく笑ってくれた。昨夜の空腹感は何のその。私は満腹になって帰宅した。
***
初詣。昨年、喜んでくれたなと振袖を着てみたら大喜びしてくれた。右手には私の元気の源のリンゴを、更に甘く固めた飴。
「やっぱり別れ話だったの?危なかった。連絡無精で会ってないとなると、振られるなって友達に脅されたんだよ。それにしても、凛子が食い意地張っててよかった」
「慌てて機嫌取りに来るとは思ってなかったから、別れ話とかどうでも良くなっちゃった」
このやろう、とリンゴ飴を奪われた。
「これ中身のリンゴはスカスカで不味いよな。単なる飴って感じ」
「不味いし不格好でも、工夫すれば美味しく食べられるってことだよ」
捨てるより、模索すれば良かったのだ。繋いだ手に力を込める。
「あのさ……」
アパートの更新がもうすぐなんだけど。近くに引っ越そうかと思う。そう言うよりも、彼の方が早かった。
「一緒に暮らさない?挨拶もしたいし。きちんと」
寒さではなくて、緊張と照れで彼が頬を赤らめる。
私はきっと熟れたリンゴのような唐紅。
買いにいかなくても、貰わなくても、毎日生るよと彼が言う。
だから私は彼に告げた。
美味しい実だと信じて、二人の中心となる愛を助け合って大切に育てようね。
きっと美味しくて甘酸っぱくて幸せになれる。腐りかけても大丈夫。だって私達は二人じゃない。食べれなくなりそうでも、誰かが優しく包んでくれる。
私もそんな風になろう。
そしたら、凛子のリンゴは一生もの。品質は皆に保証してもらうんだ。