凪が来た日。
「あぁ、トンノ。お帰り。ちゃんと死守できたかい?」
「駄目でした」
おやおや……と、思わず苦笑してしまう。
これで何度目だろう。重さの減ったであろうバスケットを、トンノが肩を落としながら抱えて戻ってくるのは。
トンノも凪くらい……とは言わないけれど、もう少し位は自己主張してもいいと思うけれど。
「次は守りたいね」
「なんか無理な気がします」
まぁ、凪相手だしもう何度もやられているから、諦めが入ってしまっているようだ。
トンノは作りつけの戸棚から小皿を取り出すと、それに菓子を盛り付けた。どうやら今日の差し入れは、パイの様だ。いつも作ってくれるという義姉のスェシナさんの料理は本当に美味い。
「副隊長、もしよければ食べてください。義姉も喜びます」
「いつもすまないね、ありがとう。あ、隊長には……」
ふと、2.3隣の執務室にいるだろう隊長の事を思い浮かべれば、トンノは分かってますとでもいう様に頷いた。
「先に届けてきました。一応隊長なので」
「一応って、お前ね……」
危機感なく育ったからなのかただの性格か、トンノは一言がちょっと多い時がある。まぁ、普段の隊長を見ていれば仕方がない事なのかもしれない。
彼が入隊してからこっち、小競り合いも含めて戦には出ていないのだから。
トンノは苦笑する私に罰悪そうに視線を彷徨わせると、そのまま口を開いた。
「副隊長、職務以外の事でお伺いしたい事があるのですが、よろしいでしょうか」
小さ目に作られたパイを指でつまみ上げた時、珍しくトンノがそんなことを言った。
思わずその体勢のまま止まって、まじまじとトンノを見返してしまう。一言多いトンノではあるけれど、口数が多いわけではない。特に目上に対しては。そんなトンノがわざわざ私に聞きたいことがあると口にするなんて、どんな内容だろう。
返事がないのを不思議に思ったのか視線をバスケットへと逸らしていたトンノが私を見て、慌てて両手を振った。
「申し訳ございません、何でもありませんので忘れてください!」
「え?」
顔を青くさせたトンノが頭を下げて出て行こうとするものだから、慌てて引き止める。
「ごめんごめん、トンノ。少し驚いただけだから、落ち着いて」
「あ、あの……っ」
「普段プライベートな事を聞いてくることないでしょう? だから、少し驚いてしまっただけだよ。落ち着いて、ここに座ってもらえるかな」
にっこりと意識的に笑みを浮かべて、自分の着いているデスクの斜め前に置いてある椅子を指差した。
「いえっ、そんな恐れ多い……っ」
「いやいや、恐れ多くもないでしょう。君が普段使っているデスクは部屋の端で遠いいし、お菓子を食べながらでも話そうか」
ね? とトンノが淹れていってくれたカップを持ち上げれば、少し緊張した表情のままトンノは椅子へと腰かけた。
居心地悪そうに体を揺すりながらちょこんと座っている姿は、やはり十五歳の若者。子供にまだ片足を突っ込んだままの、庇護される年齢の未成年。せめて彼が従兵を卒するまで戦がなければいいのだけど……と、少し関係ない事が脳裏をかすめる。
「それで、私に聞きたい事とは何かな?」
遠慮しているのか中々言い出さないトンノに質問を促すと、少し逡巡した後、あの……と口を開いた。
「凪先輩は、どういった経緯で軍にいるのですか? 十軍なら分かるのですが、平民で女性隊員は凪先輩以外お見かけしたことがないのですが……」
「あぁ……凪の事か、聞きたい事って」
質問の内容が苦手そうにしている凪の事で、余計驚いた。
「いや、だってあの。イルク殿下に対してもあんな態度貫ける平民って中々いないですし、しかもその……」
「しかも強いって?」
「……はい」
こくりと頷いたトンノに、まぁ疑問に思うよね……とゆっくりと頷く。
「ここにいる皆が知ってる事だしね。これを聞いてトンノがどう思うかは、トンノ次第だよ」
「レイノール様?」
凪がここに来てからもう五年……。
ゆっくりと思考を巡らす。
「凪の名前、知ってる? フルネーム」
突然聞かれて、トンノがきょとんとした表情を浮かべる。そうして少し考えてから、いいえ……と頭を横に振った。
「名簿にも凪としか書かれていないからね、見たことがないか。彼女の名前はね、凪=ミニアラクシード」
「……ミニアラクシードって、え?」
「うんそう、その通り」
驚いたように腰を浮かせたトンノに、その考えが正しい事を伝える。
「俺を拾ったの隊長なんだから、最後まで面倒見ろ……ってよく凪が言ってるでしょう? あれ、そのままの意味なんだよ」
少し呆けていたトンノは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……その……親戚だから無理やりスカウトしてきたとか、そんな意味だと思っていました」
ミニアラクシードはランディアでは「大陸の」、の意味。両親、また親戚がおらず家名の分からない子供達が名乗る家名。後から判明したり結婚すれば、改名はできた。
特に差別されることはないけれど、平民ばかりの九軍だからあえて家名を名簿に載せなくてもいい。その隊長の言葉に、凪はずっとそうしているだけ。
「彼女はね、隊長が遠征先で見つけて連れ帰ってきた孤児なんだ」
五年前、ランディアの東海岸に難破した船が打ち揚げられたことがあった。丁度その近くで小競り合いを治めに遠征に来ていた私達九軍が、救助と警備にあたることになった。
国王が派遣した政務官と応援の軍が来るまで、九軍がその場を預かる事になったんだ。
どうやらその船は商船だったようだけれど海の民に襲われたらしく、痛ましい事にほとんどの乗員は息絶えていた。荷物もほとんどが奪われて、残っていなかった。
そこに一人の生き残っていたのが、小さな女の子だった。海の民が狙っていた貨物室から離れたマストの上、見張りの為に作られた囲いのそのまた上に置かれたほんの小さな桟敷。そこに括りつけられていた。
海の民にそうされたのではなく、助ける為に誰かがここに彼女を紐で括りつけたんだろうことは容易に知れた。目立たない様、帆と同じ布で包まれていたから。
見つけたのは、カラス。あのたまに隊長の元に来ている黒い鳥だよ。あの鳥がマストの上の方で騒ぐから、隊長が見に行ってそこで彼女を見つけた。
ランディアでは珍しい黒髪に黒茶の目。クリーム色の肌に、小さめの体躯。
あまり交流のない海を渡った向こうにある東南の大陸に、同じような容姿をしている民族がいる。
そう言ったのは、隊長。
「隊長も、同じような容姿ですよね。背は高いですが……」
トンノがそうつぶやく。だから隊長の親戚だと思っていたと、そう続けた。
「そうですね、そう思えますよね。あの人は色々謎だから何とも言えませんが、多分東南の大陸に何か関係のある人なんだと思いますよ」
そして……。
脳裏に浮かぶ、一人の軍師。黒の髪に青の目、隊長と仲のいい黒軍師殿もきっと……。
九軍に随行していた療養班が彼女を看護し、意識を取り戻したのが保護してから三日後。翌朝には国王が派遣した軍が到着するという前の晩でした。
私達の問いかけに、彼女が発した言葉は今でも覚えています。
――何もわかりません。
ただその一言しか口にせず、そのままぼんやりと宙を見つめていた。
何を聞いても反応せず困ったところで、それまで経緯を見ていた隊長の「なら私達と一緒に来ますか?」の問いかけにだけ、しっかりと頷いた以外は。
一応翌日に到着した政務官に彼女の存在を知らせたけれど、小さな子供一人、しかも商船に乗っていたただの平民を気遣う者達はお偉さま方には誰一人としていなかった。九軍が責任を持つならば、この大陸での国籍は与えようという尊大な決定が下された。
結局周辺国のツテを使って東南の大陸にあるその国へと伝えたのは、商船の事のみ。相手国も国交がない事を理由に、それ相応の謝礼としての金品を他国を通じて寄越した以外は何の接触もなく終わってしまった。
彼女を帰す術は、もう一つもなかった。
私達は彼女の立場が可哀そうで上部へ意見をするべきだと息巻いていましたが、隊長はそれを許可しませんでした。
――東南の大陸は、その大陸のみで自立することを目指している国が多く、他の大陸からの国交をほぼ断絶しているんですよ。
許可されていない国に行った者が帰国すれば、一生国の管理下、もしくは監禁や軟禁という処罰が下されるんです。ならば、帰さないのもこの子の為になるでしょう。
「……隊長殿は、なぜそんなに詳しいのですか? 初めて聞く事ばかりですが……」
トンノが怪訝そうに首を傾げる。私はその言葉に頷くと、ちらりと隊長の部屋の方へ視線を流した。
「私もそう思って、聞いたことがあります」
元々隊長はランディアの出身ではなく、大陸を旅してまわっていたと言っていました。たまたまランディアに知り合いの黒軍師殿がいたので、飽きるまでは定住してみようと思ったと。だから大陸の世情に明るいのだと思います。
自分の事を何もわからないと言った彼女も、体力が戻って九軍の手伝いをしながらここ王都に戻ってくるころには隊長に感化されたのか、とても明るく過ごしていました。
名前は凪。十一歳。
隊長が決めたそれだけが、彼女の全てでした。