白のひと。 1
「ソクラート王国第三王子、イルク・タイス=ソクラート。お前達の目的は私か。それとも、私はついでか?」
張り詰めた空気が、辺りを覆う。イルクに抱えあげられたまま、凪は視線を周囲へと巡らせながら、ちらりとイルクを見上げた。
……怒ってる、めちゃくちゃ怒ってる。
たった一人だというのにその場を圧するほどの殺気と威厳に、やっぱこいつは王族なんだなぁと凪はぼんやりと思った。
イルクが周囲へと飛ばす殺気に、凪を連れてきた傭兵崩れ達が顔色を無くしながらもなんとかこの場から逃れようと目をぎょろぎょろとさせているのが教会に灯っている灯りに照らし出されていた。
その中で、一番焦っているのがおっさん隊長だということに首を傾げる。
イルクの登場に目を丸くしたおっさん隊長は、唯一の建物である教会へと気づかれないよう後ずさろうとしたけれど、いつの間にかネイがその背後を取っていて退路を断っていた。
左右に忙しなく視線を動かすおっさん隊長を見遣りながら、凪は意味が分からないと眉間にしわを寄せる。
イルクと一緒にいた凪を攫ったのだから、この状況になることくらい想定がつくと思うんだけど。
そこまで考えて、そう言えば最初は姿を見せてなかったな……と思いつく。
凪が連れてこられたことを確認してから教会から出て来ていた。多分、イルクが来る前に姿を隠そうと思っていたに違いない。凪が何を言っても上層部は信じないかもしれないけれど、イルクの言葉なら重みが違う。
おっさん隊長にしてみれば仮にイルクが無事王都へ帰ってしまった場合、敵方と通じていた事が白日の下にさらされてしまう。
それだけは避けたいに違いない。
けれど逃げられない状況に、おっさん隊長はその場で足を踏ん張って腕を組んだ。
余裕を見せたいだろうおっさん隊長の身体は、よく見なくても分かるくらい微かに震えていて。早くこの場から去ってしまいたいという本音が、透けて見えていた。
こいつ本当に近衛騎士かよ。やることが小物臭すぎる。
思わずイルクに抱えられたまま冷めた視線を向けてしまう。
そんな状況の中で態度の変わらない男が、ただ一人。
ローブの男は姿勢を正すと、深くその頭を下げた。
「イルク殿下、私は北の皇国の者。殿下をお迎えに上がりました」
「……迎え?」
誘拐だろ? 拉致だろ? この野郎何言ってやがる。
イルクの言葉に副音声が重なる。怒ってる。怒ってるし、信じてない。
実際、信じられる状況は一つもなかった。
襲撃され、連れが攫われ、それに追いついた現状。殺すために人質を取っておびき寄せたと言われた方が信じるに値する。
イルクは意味の分からない言葉に表情を変えることなく、目を眇めた。
「なぜ、ランディアと皇国が共謀して私を北へと連れていく? 私はランディアとソクラート両国の楔のはずだが」
イルクがいなくなれば、それはランディアの落ち度となる。例えばここで殺されて遺体をソクラートへと引き渡したならば、戦の混乱の中で命を落としたと言い訳ができる。
しかしそれは身体があっての事。
もしここで北へとイルクが行ってしまえば、ランディアはその責を取らされることになる。最悪は和平条約が破棄され戦へと突き進むことになるだろう。
「えぇ、そのはずです。けれど、ランディアは殿下を暗殺するよう動き、ソクラートはそれを黙殺している。そしてあなたはその運命をただ粛々と受け入れようとしている」
当然の疑問に、ローブの男はなんの恐れも感じていないかのように、ふわりと笑った。
「イルク殿下はお優しい」
その声は、緊張と恐れが支配するこの空間に穏やかに響いた。
さっきまでの声音じゃない、どこか現実味の無い、声。
「……?」
どこか違和感を感じて、凪はローブの男を見上げた。特に何も、さっきと変わった様子はない。けれど、やっぱり違和感を……。
「私が、優しい?」
イルクは、ローブの男の言葉を繰り返す。
「えぇ。両国を戦から救うために敵国に人質として追いやられたというのに、それでもあなたはどちらの国も恨んでいない。本当は、あなたにも望む未来があったはずですのに」
「の、ぞむ?」
「えぇ、そうです。そのお手伝いをさせて頂ければと。殿下、貴方様の望みを私は叶えて差し上げたい。北の皇国で」
「のぞみ……」
オウム返しのように呟くイルクへと、視線を向ける。小脇に抱えられたまま見上げれば、目を見開いた状態でローブの男を見つめるイルクの姿。
「おい、イルク……?」
違和感どころじゃないその状態に、凪はイルクの身体を力任せに押しやる。
「え、あ?」
意識がローブの男に向いているからか、どもるように声を発した後、凪の身体から手を離した。
凪はイルクの外套を掴んで、トントン……とリズムよく足から着地した。そのままイルクの外套を力いっぱい揺らす。
「イルク! おいったら!!」
「ん、な……凪?」
一度何かを振り切るように顔を左右に揺らして、イルクは横で自分に縋るように立つ凪を見下ろした。その表情は呆然とした様子ながらもいつもの顔で、ほっと胸をなでおろす。
「あれ? んー? どういうこと?」
ローブの男が、どこかあっけらかんとした声を上げた。そしてそのまま、凪へと視線を向ける。
「君にも望みはあるでしょう? ナギちゃん?」
「は?」
俺の望み?
ローブの男へと顔を向ければ、こちらをまっすぐに見つめる視線と絡む。その灰色の……銀色の瞳が、凪に向けられていた。
「そう、望み」
その言葉が、ずん……と心に侵食する。ただの言葉、ではない。疑問も守りも何もかもはねのけて、深層へと突き刺さってくるような声音。
まずい、やばい、危険を察知した本能の呟きを脳内で並べたてながら、凪は無意識のうちにポケットの中に手を入れて冷たい何かを震えながらも握りこむ。手のひらが伝えてくる痛みに、僅かながら意識が浮上した。
それでも、ローブの男の声は脳内へと沈みこむ。
俺の、望みは。
そう、心の中で呟いた瞬間。
「私の望みは、イルクを追い出してソクラートを潰すことだ!!!」
場違いなまでのおっさん隊長の声が、大きく放たれた。




