イルクという男。10
「来たか」
気配を察知して立ち上がったイルクは、手にしていた剣の鞘を払って地面に投げ捨てた。金属ではなく何重にも重ねることで固くした革を使っているらしく、放り投げても響くような音は立てない。
すでにナイフを構えて警戒していた凪はイルクをちらりと横眼で見ると、皮肉気に口端を上げた。
「寝てたくせに」
するとイルクは罰悪そうにふぃっと視線を逸らすと、背中合わせに凪の後ろに陣取った。
気配だけが漂う静かな空間の均衡を崩したのは、凪の足元に突如刺さった短剣だった。
「凪!」
とっさに横へと飛びのいた凪の耳に、イルクの声が聞こえる。凪は難なく地についた右足を軸に方向を変えると、イルクの傍ではなく逆に遠くへと地を蹴った。それを見たイルクが、地面に刺さっている短剣を引き抜いて次々と姿を現した敵へと投げ返す。
そうして出来たであろう隙に、凪の横へと駆け寄った。
「凪! あまり俺から離れるな!」
「んあ?! お、おおぅ」
イルクの勢いに若干押されながらも、凪は思わず頷く。再び距離を開けられた敵は歯ぎしりをしながら悔しそうに表情を歪めると、イルクではなく凪を睨みつけながら勢いよく駆け寄ってくる。
「私達が用があるのは小さい方だ! そっちには用はない!」
「小さいってなんだ小さいって!」
凪は思わず言い返しながら、この後どうしよっかなぁとイルクを視界の端に収めながらため息をついた。
寝ていた二人に突然襲い掛かってきたのは、十人ほどの集団。
そして凪と十軍の見守り隊達が色々な思惑の元動いていること知らされていなのは、イルクだけ。故に凪を守ろうと孤軍奮闘する。そして彼は、隣国の智の国とはいえ唯一の軍を任されていた、王族だった。
何が言いたいかというと。
今回の任務、イルクが一番手強い敵なんじゃ……と内心苦笑を零した。
全てが手練れなのか、力がないから大人数なのかわからなかったが、凪は隊長から下されている命令通りわざと隙を作って意識のあるまま連れていかれる算段を……したかった。
連れていかれたいんだけど集団達が弱いのかそれ以上にイルクが強いのか、手を出す隙も凪が手を出される隙も作れない。
きっと近くで加減をしながら戦っているだろう十軍のおっさんたちが、やきもきしていることだろう。
凪は飛んできたナイフから身を躱しながら、どうするべきだったんだろうとため息をついた。
隊長から計画を伝えられたあの時、イルクにも伝えときますかと言った隊長に否やを唱えたのは凪自身。もともと過保護気味だったイルクが近衛との一件以来、それに磨きがかかってお前は私のお母さんかってくらいになってて。
どう考えても反対されるのが目に見えていたから、言うのは悪手としか思えなかった。隊長も同じことを考えていたようで、「だよね」の一言で話し合いは終わった。
イルクに聞かれないようリアトの私室で行われた密議には、隊長と凪、そして十軍の二人が参加した。顔を見せていいのかと思ったが、ほんの少し顔形を変えているらしい。魔法とかそういうのではなく、言うなれば特殊な変装。その時々で変えているから、次会った時も同じだと思うなよって若い方に言われたのはじっと見つめていたからだろう。
そして隊長から作戦が告げられた時、一番嫌がっていたのもその若い男だった。ばれた時のイルク殿下が怖すぎると言って。
それでも。
凪は少し視線を伏せると、右から飛んできた仕掛け縄からわざと避けることをせずにそれを右腕に絡ませる。おもりのついた縄はぐるぐると凪の腕に巻き付いて、その手からナイフを振り飛ばした。
「凪!!」
焦ったような、イルクの声が辺りに響いた。少し離れたところにいたはずなのに、相対していた敵を一撃で殴り飛ばしこちらへと掛けてくる。
……いやいや、なんで気がつくかなぁー。これで意識落されて運ばれたら逆にきついってーの。
いい感じに隙を作れたと内心ほっとしていた凪は、イルクの声に思わず肩を落とす。
凪に課されている命令は意識を保ったまま相手に捕まり、その拠点及び黒幕と協力者を把握すること。意識を落とされてしまったら、何も調べることができない。それにもし近衛の息がかかっていたら、何をされるかわからない。
だからこそ、意識を保ったまま、意識を失った振りをしなければならないのに。
イルクや十軍に押され気味だった敵が凪を捕獲できたことに気がついて、一斉に逃走に入る。凪も傍に来た男に身体を持ち上げられた。所謂、俵担ぎ。
「凪を離せ!!!」
その瞬間、イルクが身に着けていただろう短剣をこちらに向かって放った。凪を掴んでいた男は驚いたように固まりかけたが、軌道が反れて短剣が近くの木に突き刺さるのを見て慌てて逃げていく仲間の背を追う。
「凪!!」
イルクは少し縮まった距離になんとか追いすがろうと手に持った剣を放り投げると、その右手を凪へと伸ばした。
凪は凪で、こりゃ困ったと内心独り言ちる。
後でイルクにこってり怒られそうだと……、自分もだけどその他大勢が。
「凪!」
イルクはその手を伸ばして凪の前襟をぐっと掴んだ。力の加減か、ボタンがいくつかはじけ飛ぶ。それを顔を背けてやり過ごしたイルクが、再び凪を見て、目を見開く。
「……え?」
「スケベ」
イルクに向けて凪はにやりと笑うと、唯一自由だった左手を不自然さを感じさせないように勢いよく振った。
途端、イルクが後方へ飛びのく。
敵方は、凪が何かしたこともイルクが驚いたことも焦っていて見ていなかった。逃げるのに精いっぱいだった。
さすがボンクラもしくは裏切り者と凪は口端を上げ、そうしてかくりと身体から力を抜いた。このまま黒幕の所まで、運んでもらおうじゃないか。
「……」
イルクは勢いを殺すために手を地についてくるりと体を回転させて前を向いたが、そこにはもう暗闇にその姿を見るだけで追いかけてももう無駄だと悟った。
それに……と、イルクは凪が左腕から投げつけてきたナイフを地面から引き抜いて、ため息をつく。流れで浮かんできた凪の姿を頭を振ることで追い出し、そのナイフを自分の腰につけているホルダーへとしまう。
助けに行くまで凪が何もされない事を祈るしかない己の身を、益体の無い……と歯をくいしばった。
「……」
しかし、それはそれ。
凪の態度を反芻し、十軍の言葉を思い出し、己の無知を悟った。
「……おい、十軍」
イルクは先ほど放り投げた大剣を拾い上げて鞘に納めると、徐に口を開いた。一寸遅れて、二人の男が現れた。
「詳しく説明してもらおうか?」
その時の顔面の破壊力と言ったら、主長のアウルでさえ思わず逃げ出したくなるほどだったという。




