「プロローグ 数年後の二人」
元のお話になります。
次話は数年遡って始まります。
――初めまして、よろしく
そう言って差し出された掌は、肉厚で硬くて、剣を常用している男のそれだった。
俺にとって……幸せな夢
目を覚ました俺は一度開けた瞼を再び閉じて、まだほんの少し残る幸せの余韻を噛みしめた。
ゆっくりと息を吐き出す。その音に気が付いたのか、傍にいた何かが身じろいだのが伝わってきた。
「凪、起きたのか?」
……起きたのか?
ぼんやりとしている思考の中を漂いながら、もう一度目を開ける。
そこには見慣れた青空が広がっていた。
そして俺を覗き込む、見慣れた男の顔。
褐色の肌に黒髪、がっしりとした肩幅に太い首。心配そうな表情を浮かべ、そのでかい体で陽射しを遮っている。
「そうか。追いついた……ん、だっけ」
昨夜追放されたというこの大男を追って隊を飛び出したのは、ほんの数刻前。
隊長に知らされた瞬間、何の躊躇もなく追いかけようと体は動いていた。
それまで隊長や同僚と話し合って決めていたことを、実行に移す時が来たのだと。
途中まで馬を飛ばし、そこから徒歩で追いついたのはよかったが、さすがに疲れて落ちるように眠ってしまったようだ。
「……あぁ、悪い。寝てたな」
気まずい雰囲気の中、乾いた喉からは掠れた声しか出てこない。けれど、そんな事は現状俺達にとって大したことではなかった。
「俺、どのくらい寝てたんだ?」
目の前に胡坐をかいている大男に問いかけながら、上体を起こす。掌の下で擦れる砂が、リアルを伝えていた。
大男は少し目を細めて、ほんの少し……と答えた。
ほんの少し、いや……きっとその言葉には見合わない時間、夢の中を彷徨っていたのだろう。けれど、あえて言いかえすこともあるまい。
俺はガシガシと髪をかき上げて、欠伸を一つ零した。
「もう、追手は掛かってるただろうな。のんきに寝てる場合じゃなかったってーのに、悪かった」
「いや……、俺の方こそ……」
そこまで言って、大男が目を伏せる。どう言おうか、迷っているようだ。どう言おうが俺の気持ちは変わらないというのに。
「巻き込まれたんじゃねーよ、俺がお前を追っかけてきただけだ。くだらねーこと気にすんな」
「……凪、しかし俺のせいで……」
「うるせーよ、黙っとけ。誰の所為なんて考えたって意味がねーし。ていうか、責任取らせるなら俺んとこのバカ軍師だ」
脳裏にこいつの追放を決めた腹黒軍師の顔が浮かんで、大きくため息をついた。
俺の国とこの大男の住む国が戦を始めたのは、ほんの少し前の事。お互いに人実交換をしていたにもかかわらず、豊饒な土地を巡って戦端が開かれた。
どちらの国も農地にできる土地が限られており、その他は砂や岩肌の覗く乾燥地帯が主。故に、人質を交換して両国間に広がる豊饒な土地をお互いに管理してきた。
俺の国からは王弟が、隣国からはこの大男……第三王子が人質として。
そこから数年は表面上友好を保ってきたが、元々体の弱かった王弟が隣国で没したことで均衡が崩れた。
暗殺されたのではないかと疑念を抱く俺の国に対して、こうなることを見越して体の弱い王弟を寄越したのだろうと疑念を抱く隣国。
その疑念は各々の欲望と混ざり合い、戦へと発展した。
真実は唯一つ。
異国の地へ赴けば力尽きるだろう王弟を俺の国は人質に選んだ。そして手厚く看護し必要なら人質を返すとまで申し出てくれた隣国に、宣戦布告を通告した。
俺の国が、一番の悪なのだ。
今頃隣国には、この大男が脱走したとの通達が届けられている頃だろう。
馬も与えず地図もなく、広大な乾燥地帯を徒歩で隣国に渡るのは体力のある男でも難しい。
数は少ないがいくつか点在してる水場を辿り進む事ができなくはないが、地図がなければ見つける事は難しい。実際このまま数日も歩き続けていれば、水と食料の不足から土へと還っていただろう。
そう思えば、たった半日で追いつく事が出来たのは上々だ。
「……お前こそ、俺の事恨んでんじゃねーの?」
立ち上がって砂を払いながら、手元の剣を掴み上げる。俺と修羅場をくぐり抜けてきた、手に馴染む剣。
大男は軽く笑って、何を? と問い返す。
「お前の国の責で戦端を開く為に、体の弱い王弟を人質として向かわせたっていう内情を知ってた事。監視の為に傍にいた事。そのすべてを黙って、友達ヅラしてた事」
「……」
ひゅうっ……
一際強い風が吹いて、砂を巻き上げる。首元に巻いてある布を引き上げて、治まるのを待った。
その中でただ俺を見つめている大男の風に巻き上げられた布が、ゆっくりと降りてくる。
それを視線で追っていた俺は、大男の落ち着いた声で現実に引き戻された。
「お前が黙ってた事自体、最初から俺は知ってたよ。だいたい、人質として送られる時から知っていた。殺されるために、行くのだと。いくら自国が戦を回避したくとも、何か事が起こればいっと先に殺されることくらい馬鹿でも分かる」
「……」
そういう、ものか。やはり王族というのは。
やるせない気持ちに、ギリッ……と奥歯が鳴る。
「だから、軍に志願した。何か起こった場合、演習や他国との戦に紛れて殺されれば俺の役目はさっさと終わるだろうと思ったから」
殺されるのを待つくらいなら、殺されに行こうと思ったんだよ。
「なのに凪は……、凪達は俺を守ってくれた。本当は監視役で、俺を暗殺するはずのお前たちが」
「気に食わなかったんだよ、軍師殿の考えが」
「気に食わなかったか。それだけで自分まで殺される側に回るのも珍しい」
自嘲気味のその言葉に、小さく首を傾げる。
「殺される? ……お前何言ってんだ」
大男の言葉を、俺は呆れた声で遮った。
「何って……。お前がここにいるのは、そういう事じゃないのか。俺と……一緒に、その、死を――」
そう言いながらも戸惑う様に揺れる視線に、何言ってんだ……と、目を細めて笑みを零した。
「俺は生きる為に国を出ていくんだぜ? 誰が殺されてやるものか。軍人にとって納得のいかない死は、唯の死よりも劣る」
「……凪……」
手に持った剣を、利き手で握り直す。伝わってくるのは、生温い温度。
「あんな腐った国、守りたいと思ってる軍人なんて一握りだ。俺は、俺の国を潰すためにお前と一緒に行くんだよ」
――狼煙を、待っていますよ
そう言って送り出してくれた、隊長。健闘を祈ると笑っていた同僚。
「俺達が守るのは、王族じゃなくて国民だ」
――だから。
そう一言呟いて、大男を見据えた。
「俺も、お前を利用しようとしてるんだ。だからお前も俺を利用しろ。生きて国に帰る為に」
「利用……」
「それとも、帰りたくないか? 自分を利用した国になんぞ」
俺が、俺の国を見放したように。それをお前がやっても、誰も責めやしない。
言葉にしなかった部分を正確に感じ取ったのか、戸惑う様に視線を揺らす。
この男にとっては、きっと俺の国も自分の国も同じようなものなのだろう。王弟のように死ねと言われて人質にされたのではなくとも、死んでも仕方がないと切り捨てられた事実は変わらない。
暫く俯いていた大男は、小さくため息をついた。
「帰りたい……とは思う。確かに喜んでくれる者たちもいるだろうが、俺の存在はきっと戦に油を注ぐはず。それを懸念した者達にとっては、俺は厄介者でしかな……」
「お前が……っ」
沈んだ表情を浮かべながらも俺が気にしない様に笑うこいつを、誰が疎むというのだろうか。俺が家族なら、俺が同郷の人間なら、絶対に手はかけない。
けれど、お前がそう言うのなら――。
手を伸ばして胸倉を掴み上げる。俺より背の高い大男を持ち上げる事なぞ出来ないが、それでも両手に力を込めた。
「お前が行きたいってなら連れてってやる! ぐだぐだ言ってんじゃねーよ! こんだけ言ってもお前が、……それでもお前が死にたいって……いう、なら……」
思わず、言葉が途切れる。死にたい奴なんかいるわけない。いるわけがないが、それでも――
どうしても、死にたいというのなら。
ごくり、と、目の前の喉が上下に動く。
その音を耳で捉えながら、俺はにやりと口端を上げた。
「俺も、一緒に逝ってやるよ」
眼を大きく見開いた大男は、次の瞬間力が抜けたように表情を崩した。そのまま片腕で顔を隠したその目尻に浮かぶものを見ないように、手を離して離れる。
両目を腕で隠して大きく息を吐き出した大男は、ぐいっと顔を拭ってその腕を下ろした。
「……お前と、一緒に逝くのか」
「文句あんのか?」
足の裏で、ざり……っと地面を払う。舞い上がった砂埃が、風に舞って流れていく。それを目で追っていた大男は、傍らに置いてあった荷物を肩に担ぎあげた。
「……凪、行くぞ」
「お、やる気になったか?」
同じように荷物を担いだ俺は、答えの分かりきった問いを大男に投げかける。大男はにやりと、挑戦的な笑みを浮かべた。
「お前と一緒に逝ったら、あの世が煩くなって面倒だ」
それなら――
「俺は、お前と征く方を選ぶよ」
その全てを吹っ切った様な清々しい笑顔は、とても綺麗で。柄にもなく、顔が赤くなりそうになる。
「ば、馬鹿じゃねーの。言い方キモい」
ばれないように歩く足を早めると、後ろから腕を掴まれてたたらを踏む。驚いて顔だけをふり仰げば、優しく見下ろす視線とかち合った。
「お前と生きる方を選ぶから、そろそろその言葉遣い直さないか?」
「……っ。嫌だね、これが俺だ!」
ほんの少し前まで漂っていた悲壮な雰囲気は鳴りを潜め、昨日まで当たり前だった気安い空気に俺は笑い声をあげた。
お前となら、どこへなりと行こう。
共に、目指す場所へ。