四、ゲオの塔
四、ゲオの塔
トムは、街の西出口を出発した。そして、土が剥き出しになっている街道を進んだ。やがて、森に行き着くなり、そのまま踏み込んだ。間も無く、道中、生い茂った枝葉が、陽射しを遮り、夕闇のような薄暗さで、街の路地裏よりも人気の無さが、寂しく不気味な感じを醸し出していた。不意に、物音がした。次の瞬間、些か、臆病風に吹かれながらも、足を止めるなり、身構えた。腹を空かせた獣か、金品目当ての野盜が、繁みの中から現れても不思議ではないからだ。しかし、何も現れなかった。少しして、再び、歩を進めた。ミュールを救い出すまでは、引き返せないからだ。それから、自らを奮い立たせて、早足で先を急いだ。願わくは、何事も無く、この森を抜けたいという気持ちだからだ。しばらくして、どれくらい来たか判らない頃、前方に、原っぱのような一際明るい開けた場所に、気が付いた。少しして、そこへ辿り着いた。その途端、ほぼ真ん中の位置で立ち止まるなり、何気に、周囲を見回した。すると、道沿いの両側の木々の全てが、斧か鉈のような物で、伐採されている痕跡を視認した。それに、根元から上が見当たらない事からして、何者かが運び去ったものだと察した。しかし、今の自分には、関係無い事なので、無視をして、右足を踏み出そうとした。
突然、「いやぁぁぁ! 来ないでぇぇぇ!」と、ミュールの嫌悪の混ざった悲鳴が、降って来た。
その刹那、「ミュールッ!」と、トムは、咄嗟に、ミュールの名を口にした。次の瞬間、周囲を、一通り、忙しく見回した。だが、木々と繁みくらいしか見当たらなかった。
少し後れて、「へへへ。お前が、幾ら喚こうとも、若造は、来ないぞ」と、ゲオのいやらしい声も、焦燥感を煽って来るかのように、降って来た。
「くっ…! 何処だ…?」と、トムは、歯噛みをした。そして、必死の形相で、目を皿のようにして、もう一度、右回りに、周囲を見回した。だが、注意深く見回したが、同じ光景しか視界に入らなかった。そこで、一先ず、深呼吸をした。冷静になろうと思ったからだ。徐に、右を向いて、天を仰いだ。すると、黒い四角錘の尖った物が、木々の枝葉を突き破るかのように聳えているのを視認した。その瞬間、ゲオの隠れ家だと直感して、思わず息を呑んだ。この繁みの奥に、ミュールが居ると確信したからだ。そして、右手で、刀を抜いて身構えながら、地面を踏み締めるように、繁みへ向かって、恐る恐るゆっくりと歩を進めた。ゲオの手下達が、向こう側から襲い掛かられるか、判らないからだ。間も無く、繁みに踏み入り、葉音を極力立てないように、注意しながら前進した。やがて、数歩で通りか抜けるなり、薄暗い開けた場所に出た。その途端、場の景色に溶け込むような感じで、漆黒に塗られた外観の箱を積み上げたような段階的に上へ先細りになっている三階建ての塔に行き当たった。そこで、立ち止まるなり、周囲を窺うように、建物を見回した。手下が、見張りに立っている可能性が有るからだ。しばらくして、幅広い箇所で、約二十数歩有り、それぞれの両端が、一、二歩先からは、繁みで隠れて判別出来ない外壁になっており、ほぼ真ん中の辺りに、左下がりで、平行四辺形状の木扉が在り、その斜め上の三階部の位置には、子供が、すっぽりと抜けられそうな開けっ放しの窓以外に、目に付く物は無いのと、誰も居ない事を確認した。その直後、「ふぅー」と、一仕事終えるかのように、息を吐いた。この場での襲撃は無いと、判断したからだ。その後、「ミュール、無事で居てくれよ」と、祈る気持ちで、呟いた。かなり、急を要する声だったからだ。再び、視線を扉へ向けるなり、歩き始めた。間も無く、扉の前に立つなり、右足で、蹴り開けて、勢いそのままに、踏み入った。次の瞬間、目の前が、一瞬ピンク色に染まり、「何だ!」と、目が眩んだ。その直後、「うっ…!」と、酒と何かが発酵して混ざり合った吐き気をもよおす不快な臭いが、鼻孔に襲いかかられたので、顔をしかめて、思わず足を止めてしまった。視覚と嗅覚の機能をやられて、気分が悪くなったからだ。少しして、目が慣れると、室内の様子が、判明した。内装は、勿論の事、右奥の三、四人が囲めるテーブルと椅子と正面奥に立て掛けてある昇降用の梯子まで、統一されていた。しかし、中央にぶら下がっている深緑色の円筒形の容器と中でやんわりとした白い光を放つ照光石、テーブルの上と床で転がって、中身が垂れ流しになっている無数の口の開いた黒い酒瓶、あちこちに食い散らかした果実や芯などの変色した滓。後は、テーブルの右側で、背凭れ椅子から転げ落ちて、面食らっている丸顔の男くらいだった。それを視認するなり、「汚ねぇなぁ~。俺のブーツが、汚れたじゃないか。ああ、嫌だ嫌だ!」と、呆れ顔で、嫌悪しながら、嫌味を言った。
「こ、小僧! そんな物騒な物を振り回して、仕返しに来たのか!」と、丸顔の男が、驚きの表情で、語気を荒げながら、起き上がろうとしていた。だか、酒瓶と果実の皮に、手足を取られて、滑り転んで、じたばたともがいていた。
トムは、ざまあ見ろと言うように、薄笑いを浮かべながら、その様を見物した。そして、「おいおい、仕返しも、何も、やる前から起きられないなんて、もう、年じゃないのか?」と、おちょくるように、揶揄した。さらに、間髪容れずに、「早く立てよ! この、害虫野郎!」と、捲し立てた。このような不衛生な環境に居られるのは、害虫くらいだからだ。
その瞬間、丸顔の男が、瞬く間に、顔を紅潮させて憤怒の形相へと変貌させるなり、「何だと! おらぁ!」と、吠えた。間も無く、立ち上がり、姿勢を何とか保った。そして、「こ、小僧! もう、生かしちゃおけないぜ!」と、怒りに満ちた目で、睨み付けながら、右手で、腰の剣を抜いた。
「あ~らら。怒っちゃったのね~」と、トムは、おどけながら、刀を両手に持ち替えた。そして、峰を丸顔の男に向けて、正面に構えた。刃を傷めるのは、好ましくないからだ。
その瞬間、「なめているのか!」と、丸顔の男も、両手に持ち直すなり、上段に構えた。そして、「うらぁぁぁ!」と、斬りかかって来た。
「おおっと!」と、トムは、合わせるように、刀身を左に傾けた。それをまともに受け止めた。次の瞬間、甲高い金属音と火花が生じた。その直後、衝撃が、両腕に伝わるなり、一歩半押し戻された。少しして、「くっ!」と、歯を食い縛った。その刹那、「む…」と、些か、右の眉を動かした。右手首に、違和感を感じたからだ。
「おいおい、ビビって、声も出せないのか?」と、丸顔の男が、力任せに、押して来た。そして、「さっきまでの威勢は、どうした? ああん?」と、酒臭い口臭と息を吐き掛けるように、鼻息荒く問い掛けて来た。
その間に、トムも、踏ん張り、「それは、どうかな?」と、勿体振った。そして、不敵な笑みを浮かべた。眼前で、接している自分の刀の峰が、丸顔の男の刃こぼれの酷い剣の刀身に食い込んで、亀裂を生じさせている事実に気付いて、優位に立っている事を知ったからだ。
「小僧! 強がっているんじゃないぞ!」
「俺は、強がってなんかないぜ」と、トムは、澄まし顔で、落ち着き払って答えた。そして、「おっさん、良い事を教えてやるよ」と、言葉を続けた。良い事と言っても、自分にとって、都合の良い事だからだ。
「な、何だ?」と、丸顔の男が、思わぬ言葉に、拍子抜けして、きょとんとした顔となった。
トムは、亀裂の入った箇所へ、顎をしゃくり上げるなり、「おっさんの剣を見てみなよ」と、得意顔で促した。理由くらいは、教えてやっても良いと思ったからだ。
「ん? 何だ?」と、丸顔の男が、大きく両目を見開きながら、刀身を見つめた。その直後、紅潮していた顔から、見る見るうちに、血の気が引いて行った。そして、青ざめた表情で、身震いを始めた。
「俺は、続けてやっても良いんだぜ」と、トムは、半笑いで、強気に出た。後は、返答次第だからだ。そして、「どっちにするのか、はっきりしろ!」と、凄んで、選択を迫った。これ以上、不快な臭いを嗅がされるのは、堪らないからだ。
次の瞬間、「うるせぇ! 剣にひびを入れたくらいで、調子に乗るなよ!」と、丸顔の男が、息を吹き返すかのように、再び、顔面を紅潮させて、激昂した。その途端、「くぉのぉ~」と、続行の意思表示をするかのように、剥きになって、力押しを再開した。
その刹那、「そうかい!」と、トムは、その力を逃がすかのように、右へ体を引いた。押し合いは、ごめんだからだ。
次の瞬間、「な、何ぃ!」と、丸顔の男が、面食らった顔をした。その直後、前のめりに、体勢を崩すなり、勢いそのままに、屋外へ出て行った。そして、蹴躓くなり、「あわわ!」と、突っ伏した。その弾みで、地面へ叩き付ける形で、刀身を折ってしまった。
その間に、トムも、素早く身を翻し、追撃がてら、切っ先を向けたままで、屋外へ出た。間も無く、丸顔の男の真後ろに立つなり、「おっさん、まだ、やろうって言うのなら、ここで、後ろから、ぶっすりと突き立てるけど、このまま立ち去るのなら、命だけは、助けてやっても良いんだぜ」と、勧告した。無益な殺生は好まないが、答え一つだからだ。そして、「どうだ?」と、尋ねた。
「わ、分かった…」と、丸顔の男が、絞り出すように、声を発した。少しして、むくりと起きて、立ち上がり、振り返ろうとする素振りを見せた。
トムは、その動きを察知するなり、「振り向かずに、さっさと行け! その面を見せると、この場で、叩き斬るぞ!」と、行動を封じるように、恫喝した。丸顔の男の顔は、もう、二度と見たくないからだ。
次の瞬間、「ひ、ひぃぃぃ!」と、丸顔の男が、慌てふためきながら、トムの通って来た繁みの奥へと、瞬く間に、姿を消して行った。
少しして、「ふぅ~」と、トムは、大きく息を吐いた。まずは、一人片付いたからだ。そして、警戒の為、その場に佇んで、繁みの方に、注意を払った。去った振りをして、戻って来るかも知れないからだ。しかし、何の変化も無く、静まり返っていた。しばらくして、中に入ろうと、振り返った。すると、小柄な筋肉質の男が、梯子を伝いながら降りて来ているのを視認した。その瞬間、無精髭の男だと判別するなり、速やかに、足音を忍ばせながら、移動を始めた。機先を制しておけば、主導権を得られるからだ。けれども、気付かれないという条件の下、腐りかけの食べ滓や酒瓶に、注意を払う事により、歩行を遅らせていた。その為、無精髭の男が、一段下りる間に、二歩進のが、やっとだった。しばらくして、辛うじて、最下段に足を乗せた所で、何とか、間に合った。
その直後、無精髭の男が、不用心に、下り立つなり、「ぎゃあぎゃあ騒いで居たけど、小僧を始末出来たのか?」と、呑気に、問い掛けた。
「あんたの仲間は、もう、居ないぜ」と、トムは、すかさず、さらりと答えた。
その瞬間、「…!」と、無精髭の男が、息を呑むなり、「な、何!」と、驚きの声を発して、振り返った。そして、動きを止めるなり、「ははは…」と、愛想笑いを浮かべた。
「あんたなら、これが、どういう意味か、分かっているよな?」と、トムは、刀を水平に構えながら、半笑いで、告げた。襲い掛かって来るのであれば、容赦無く切り捨てるつもりだからだ。
「あ、ああ…」と、無精髭の男が、息を呑んで、小さく二回頷いた。
「じゃあ、腰にぶら下げている物を、外せ! そして、捨てろ!」
「へいへい」と、無精髭の男が、左手だけで、腰の錆びた小剣を外した。そして、「これで良いんだろ?」と、投げやりな態度で、自身の足下に転がした。
「よし。次は、そのまま、出て行け! 下手に逆らうと、命は無いぞ!」と、トムは、見据えながら、高圧的に、指示した。少しでも付け入る隙を見せると、ミュールを連れ去られた時と同じ事になるかも知れないからだ。
「ちっ!」と、無精髭の男が、舌打ちをするなり、不服そうな態度で、梯子段から、大人しくゆっくりと右手を放した。そして、不満げな表情で、睨みを利かせながら、左側を通り過ぎた。やがて、戸口に差し掛かると、丸腰では仕方がないと言うように、背中を丸めて、すごすごと出て行った。間も無く、葉の擦れる音がした。
トムは、無精髭の男の姿が見えなくなっても、梯子を上らないで、その場に身構えながら、戸口を向いて、待機した。戻って来るかも知れないと、警戒するべきだからだ。だか、しばらく経っても戻って来なかったので、取り越し苦労に終わった。そして、刀を鞘に収めて、右手で、足下の小剣を拾い上げるなり、持ったままで、段を掴んで、一段ずつゆっくりと上り始めた。少しして、次第に、右手首が、疼きだした。原因は、丸顔の男の斬撃を受け止めた際のものとしか、考えられないからだ。やがて、上り切り、「ぐがぁ…!」と、堪えた痛みを吐き出すように、苦悶の声を発した。その途端、梯子の右脇で、すぐに、両膝を着いて、小剣を落とすなり、「うっ…! くっ…」と、左手で、右手首を押さえながら、額に、脂汗を浮かべて、呻いた。疼きが、激痛に変わったからだ。少しして、乾いた金属音が、響いた。
突然、「どなたか、そこに居られるのですか?」と、その音に反応するかのように、何処からか、ミュールとは違う娘の声がして来た。
その直後、「だ、誰か…、居るの…か…?」と、トムは、声を絞り出して、問い返した。そして、周囲を見回した。すると、下とは対照的に、殺風景な灰色一色の暗い造りだと視認した。次に、右斜め手前には、下と同等のテーブルと背凭れの無い丸椅子が、視界に入った。その奥には、腕の長さくらいの二本の茶色い角材が、数歩の間隔を置いて、横倒しの状態で、胸の辺りまで、掛けて有った。それらが、天井の照光石の照明効果により、空中に浮いているように見えた。しかし、閂だと、すぐに判別した。
そこへ、「何だか、息遣いが、苦しそうですけど、大丈夫ですか?」と、再び、娘の気遣う声がして来た。
「ああ…」と、トムは、険しい表情で、息を吐くように、苦悶の声を発した。そして、「君…、扉を…叩いて…くれ…。くっ…!」と、痛みを噛み殺すように、歯を食い縛りながら、指示を出した。解放するにしても、右手の状態からして、一回しか出来そうにないので、どちらを外してやれば良いのか、判断が付かないからだ。その直後、少しの変化でも見逃すまいと、閂を凝視した。
「はい」と、娘の返事がした。間も無く、左側の角材が、小さな音を立てて、少し動いた。
その瞬間、トムは、すぐに、立ち上がり、その方へ歩み寄り、その前で立ち止まった。そして、潜るなり、「くうぅぅぅ!」と、顔を真っ赤にしながら、歯を食い縛り、左肩で角材を突き上げるように、右端を持ち上げた。少しして、左側へ滑らせた。間も無く、するりと抜け落ちた。少しの間を置いて、音を立てながら、足下に転がった。その直後、仕上げに、寄り掛かるように、扉を押した。
その途端、扉が開くなり、「ありがとうございます!」と、頭頂に、一対の兎のような耳を持つ、背中まで伸びた金髪の色白で、育ちの良さを感じる顔立ちをしている薄茶色い長袖の服に、黄緑の足首まで有るスカートと革の短靴姿の娘が、礼を述べた。
その刹那、トムは、呆けた表情で、娘の顔を見やった。バニ族とは、意外だったからだ。
「私に、何か出来る事は、有りませんか?」と、バニ族の娘が、緑色の瞳を逸らさずに、協力を申し出た。更に続けて、「あのう、何処か、具合が悪いのですか? 顔色が、あまりよろしくないですよ」と、心配そうに、声を掛けて来た。
トムは、我に返り、「ちょっと…、右の…手首を…。うっ…!」と、のた打ち回るくらいの激痛に、顔をしかめるなり、言葉を詰まらせた。ここまでの無理の代償が、牙を剥いて来たからだ。
バニ族の娘が、しずしずと歩み寄って来るなり、「私に、診させて下さいませんか?」と、願い出た。
「分かった」と、トムは、承知した。そして、右手を差し出した。
バニ族の娘が、その手を支えるように、左手をそっとすけて、丁重に、持ち上げた。更に、右手を、患部の上に翳した。少しして、その手が、ほんのりと緑の光を帯び始めた。
トムは、その光を目にするなり、「おおっ!」と、目を丸くして、驚嘆した。初めて見る光景だからだ。そして、見ていて、不思議と気分の安らぐ光だった。
不意に、「チーユ!」と、バニ族の娘が、言葉を発した。次の瞬間、光が弾けて、消滅した。
トムは、面食らった。だが、すぐに、我に返り、「い、今のって?」と、右手首の痛みも忘れて、好奇の眼差しで、尋ねた。今の現象が、何事かと、興味をそそられたからだ。
「か、回復の魔法を使ったのですわ…」と、バニ族の娘が、はにかみながら、答えた。
その瞬間、「き、君! 凄いじゃないか!」と、トムは、思わず、声を張り上げた。バニ族の娘が、魔法を使えた事と初めて魔法を目にした事に、驚きと感動を覚えたからだ。
「そ、そんな。私は、この魔法しか使えないので…」と、バニ族の娘が、謙遜した。そして、「あの、右手首の方は、大丈夫でしょうか?」と、話を逸らすように、兎の耳を折り曲げながら、不安そうな表情で問い返した。
トムは、はっとなり、「ん?」と、バニ族の娘の左手から、右手をゆっくりと引き離した。そして、右手首に視線を移すなり、軽く振った。次の瞬間、信じられない面持ちで、目を白黒させた。先刻までの激痛が、嘘のように静まっていたからだ。間も無く、バニ族の娘に、視線を戻し、「君の魔法は、成功だよ。ありがとう!」と、微笑みながら、礼を述べた。
次の瞬間、バニ族の娘が、兎の耳を真っ直ぐに立てるなり、「良かったぁ!」と、安堵の表情を浮かべた。
「ところで、君は、どうして、こんな所に、閉じ込められていたんだい?」と、トムは、何気に質問した。心優しいバニ族の娘が、このようないかがわしい場所に閉じ込められている事が、解せないからだ。
「家で休んでいた筈なのですが、目が覚めると、このような場所に居たのです…」と、バニ族の娘が、表情を曇らせながら、言い終えるなり、涙ぐんだ。
「そうか。でも、安心しな。俺が、家まで送り届けてやるから」と、トムは、元気付けるように、力強く言った。ミュールを助けるのは、勿論だが、このまま、バニ族の娘も、残して置く訳にもいかないからだ。更に、「君が、ここに連れて来られて、何日くらいだ?」と、尋ねた。
「そうですねぇ。味付けが雑な料理を食したのが一回と、ここに来てから、あなたに出会うまで、一睡もしていませんねぇ」と、バニ族の娘が、右手の人差し指を、右の頬に当てながら、さらりと答えた。
その直後、「ええ! 食事が一回の上に、眠らせて貰えないのか!」と、トムは、素っ頓狂な声を発した。そして、間髪容れずに、「あいつら、最低な奴らだな!」と、語気を荒げた。ゲオ達に、酷い扱いを受けていると思ったからだ。
「いいえ」と、バニ族の娘が、落ち着いた態度で、頭を振って、否定した。
「え? どういう事だ?」と、トムは、意外な反応に、戸惑った。ミュールを所有物としか考えていない連中だから、てっきり、バニ族の娘も、酷い待遇でもされているものだと思ったからだ。
「ここで起こされてから、すぐに、食事が来た回数ですわ。それと、一睡もしていないと言うのは、まだ、眠たくないからですよ」と、バニ族の娘が、誤解を解くように、説明した。そして、「あなたが来られるかなり前に、ここの方々と女の方の騒ぐ声が、聞こえましたが…」と、言葉を続けた。
「なるほど」と、トムは、頷いた。騒ぐ声とは、ミュールの事だと推測出来るからだ。少しして、「君は、今日と言うか、昨夜の内に、連れて来られたようだね。てっきり、何日も閉じ込められているものばかりだと思ったから…。ははは…」と、勘違いに気付くなり、苦笑した。そして、「君も、災難だったね…」と、場を取り繕うように、言葉を付け足した。ばつが悪いからだ。
「いいえ。あなたのような人に出会えて、むしろ、幸運ですわ」と、バニ族の娘が、満面の笑みを浮かべて、答えた。
「俺も、右手首を治して貰って、運が良いのかもな」と、トムも、微笑み返した。バニ族の娘のお陰で、痛みから解放されたようなものだからだ。
「お役に立てて、光栄ですわ」
「君、名前は? 俺は、トム・レイモンド」
「私は、レイミー・フェンダと申します」
「レイミー、俺は、まだ、用事が残っているので、悪いが、ここで待っていてくれないかな? それと、後ろに転がっている小剣を拾って、護身用に使うと良いよ。手下が、上がって来るかも知れないからね」と、トムは、振り返る事無く、右手の親指を立てながら、右肩越しに、後ろを指した。小剣を拾わせておけば、例え、手下が戻って来たとしても、抑止力にもなるからだ。
「分かりました。トムさんも、気を付けて下さいね」
「ああ」と、トムも、小さく頷いた。そして、左斜め前の梯子へ向かって、歩を進めるのだった。