零距離射撃(カウントダウン)
「一度だけだと言ったはずだが……」
少女の髪から漂ってくる甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「いいじゃないですか、減るものじゃないですし」
そう言う少女は、私の腰に手をまわして嬉しそうに白衣に顔をうずめている。
あれからというもの、彼女は何かと理由をつけては『ご褒美』を求めるようになってしまった。
この事態を招いてしまったのは、確固とした意思で拒否しきれなかった自分にも原因がある。
それはわかっているのだが、どうにも彼女を突き放しきれない。
これも愛情なのだろうか。
教師という立場において、その愛情が生徒に対するものなのか、それとも異性に対するものなのかを推し量ることは許されないことだ。
小さくため息をつくと、顔を上げた少女と目が合う。
犬のように従順で、それでいて猫のように気紛れな彼女の目。
ふんわりとした印象を抱かせるその純粋な眼が私の心を見透かすように仄かに揺れた。
……どうにも居心地が悪い。
手の置き場に困った私は、タバコの箱に手を伸ばした。
「やめてって言ったじゃないですか」
「そうだったか?」
抱きつく少女の腕の力が強まる。
一層の密着による体温の交換は、嫌が応にも心拍数を上げていく。
「ねぇ、先生……」
優しく問いかけるような少女の声が耳にくすぐったい。
彼女の目線は私の右手に注がれている。
「美味しいんですか? それ……」
少女の小さな手が、私の手を包む。
握られているタバコの箱のフィルムが小さな音を立てた。
もう身じろぎもできないほどに、身体がくっついてしまっている。
逃げ場を少しずつ潰されていく様は、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶でもなった気分だった。
「大人の味だよ」
乾いた喉から、やっとのことで返答を押しだす。
それを聞いた少女の口には小さな笑みが浮かんだ。
「じょあキスの味ですね。吸ってみようかな」
先生の匂いだし……そう言って唇を濡らす少女の舌先はえらく扇情的で艶めかしい。
「君には早いよ」
「タバコが?」
「タバコもキスも」
少女のおでこを軽く小突くと、添えられた手をそっと解く。
「そんなことないですよぉ、試してみますか?」
悪戯っぽく煽るようにそう言うと、少女は目をつむり、あごの角度をわずかに上げた。
「クビになったら、私を養ってくれるのかい?」
少女の頬を優しく撫でると、彼女の震えが伝わってきた。
「いいです。私が先生を養ってあげます」
薄眼を開けた少女が宣言する。
「冗談だよ」
「私は本気です」
強がって背伸びをしているけれど、果たしてこれが恋なのか、きっと私たちはまだどちらも確信には至っていない。
……だから、引き返すなら今しかない。
「誰かが入ってきたらどうするんだ」
平日の放課後なのだ。
誰かが美術室に忘れ物を取りに来たついでに、まかりまちがって準備室の扉を開けないとも限らない。
「鍵かけてるので、誰にも見られませんよ」
しれっと、少女が言ってのける。
それはそれで用意周到すぎて怖い部分がある。
それに生徒が部活と称して入っていった美術室に鍵がかかっていたら、それはそれで怪しまれるんじゃないだろうか。
いや、そもそも……
「そういう問題ではない」
そう言って私は少女の身体を引き剥がす。
離された少女が恨めしそうな表情で口を開いた。
「じゃあどういう問題なんですか」
「それはだな……」
「えいっ」
口を開いた瞬間の隙を狙って、少女が再び抱きついてきた。
「こら、離れなさい」
「キスしてくれたら離れてあげます」
「キスはしません」
「んっ」
少女が再び唇を突き出してキスをせがむ。
「目を瞑ってもダメです」
「えー、きーすーぅ」
「はいはい」
段々面倒くさくなってきたので、少女の頭を撫でてやる。
ワガママを言う時は、大抵頭を撫でてやると引きさがることは、この1ヵ月のうちで学んでいた。
あぁ、やはりここのところスキンシップが過ぎるな……頭が痛い。
「そんなんじゃ、誤魔化されないです」
不服そうな声音でつぶやいてはいても、少女の顔には隠しきれなかった微笑みが浮かんでいる。
「コーヒー飲んだら帰るんだぞ」
「仕方ないですね。今日のところはこの辺で勘弁してあげます」
やっとのことで少女から解放され、私はコーヒーメーカーを起動させる。
軽快な鼻歌が聞こえてきたので少女を盗み見ると、やる気が充電されたようで問題集に取りかかっていた。
そんな姿に安心してイスに座ると、思わずため息がこぼれた。
(そろそろ本気でなんとかしないといけないなぁ……)
なんていうことを最近毎日考えていることに気付いて、再び私の口から大きなため息がこぼれた。