境界線
「どやぁ!!」
自慢げに手を突き出す少女。
その手には8月末に行われた大手予備校による模擬試験の結果が握られていた。
「おぉ、すごいじゃないか」
第一志望の有名な大学の判定欄にはAの文字。
夏休み毎日のようにここで勉強していた努力が報われたのだろう。
「この調子で勉強していれば、志望校行けそうだな。でも油断はするんじゃないぞ。
受験生はみな寝る間も惜しんで勉強してるんだからな」
はい、解散。と手を叩いてみたが、少女はその場を動かない。それどころか、怨みがましい目でこちらを睨みつけている。
……まぁ、そうだろうよ。
息をひとつつくと両手を上げて、降参のポーズを取る。
「わかったよ、なんでも言ってくれ」
些細な約束が彼女のモチベーションとなって、この結果を産む手助けになったというのならば、それは喜ばしきことだ。
これから数ヶ月後、彼女は本当の戦い―受験―に臨まなければならないのだから、この勢いを削いではいけない。
私は教師として、彼女の願いを聞くという約束を破るわけにはいかなかった。
「……あの、ですね」
緊張しているのか、模試の結果を示す紙が小刻みに揺れている。
うつむく少女の表情は、その長い髪に隠れて見えない。
「せ、先生に、ギュってしてもらいたいです」
怯えと期待の混じった少女の声が、胸の深い部分に入りこむ。
それは意思や思考といったものを破壊し尽くし、そして少しずつ確定させていく。
「……今回だけだぞ」
一瞬にして乾いてしまった口の中から、やっと言葉が出てきた。
コクンと頷いて、少女が歩み寄ってくる。
美術準備室は異様な緊張に包まれていて、耳が痛くなるほどに静寂の音がうるさい。
その中で唯一音を立てている少女のゆっくりと歩む足音、微かな衣擦れの音、聞こえるか聞こえないかというくらいの息遣いが、鼓膜を震わせている。
元々すぐ近くにいた少女が、ふた呼吸もする間にもう目と鼻の先まで来ていた。
「それじゃあ行きます」
相変わらずうつむきながら小声でそう宣言すると、少女の体重がゆっくりとこちらに移ってくる。
恐る恐るといった様子で少女が白衣に手を回す。
少しの間そうしていたかと思うと、少女は何かに気付いたかのように顔を上げた。
「……タバコの臭い」
少女は眉間に皺を寄せ、不服そうに唇を尖らせている。
「仕方ないだろ」
彼女の額に人差し指を当てると、皺を伸ばすようにぐりぐりと弄る。
うめきながら彼女は首を振って私の指を振り払い、もう一度白衣に顔を埋めた。
「あと、男の人の匂いがします」
「……加齢臭はまだない」
「そういうのじゃないですよ」
ふふん、と鼻を鳴らして少し満足げな少女。
そのままクンクンと匂いを嗅ぎ続ける少女に、気恥ずかしさを覚える。
タバコの匂い嫌いなんじゃなかったのか……。
「先生……私、頑張ったんですよ」
ぽつりと少女がつぶやく。
「そうだな」
彼女のふわふわした印象を与える声が、状況の現実味を消していく。
少女の体から伝わってくる熱と柔らかさが、この状況下ではありえない眠気を誘う。
「だから……撫でてください」
自然と手が彼女の頭の上へと移動する。なんだか催眠術にでもかけられてしまっているかのように、彼女には逆らえない。
「綾ちゃんは、いいこでちゅねー」
残った理性の全てを総動員して、あらがってみた。
「もうっ、そういうのはいりません!」
ぎゅっと、腰に回された彼女の手に力が入る。
仕方がないので言われた通り、彼女の頭を優しく撫でてやる。
柔らかくてサラサラした髪からは、仄かに甘い香りが立ち上っている。
「なんだか落ちつきますね」
「そうか?」
あくびをしながらも、少女に離れようとする気配は一向に見られない。
「言ったでしょ? 私たち、相性いいんですって」
「私は全然落ちつかんぞ」
「私が落ちつくからいいんです」
緊張の中に、どこか眠たくなるような安らぎを覚えていることは、彼女には伝えない。
それとは別に、私には彼女に伝えなくてはならないことがあった。
それは思い上がりであれ、勘違いであれ、告げなくてはならないことだ。
「私は教師だよ」
「そうですね」
少女の声のトーンがやや下がる。
しかしまだだ。予防線を張るのであれば、最後まで言わなくてはならない。
「君とはそういう関係になれない」
冷淡に事実を述べる。
「……そうですね」
悲しげな少女の声。
回された腕の力は既に緩んでいたが、それでも解かれることはない。
「私なんて、君ら生徒たちからするとおじさんだよ」
ゆっくりと首を横に振り、少女が力なく笑う。
「先生の年齢なら、まだまだお兄さんですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいね……けど」
続けようとした言葉は、少女にさえぎられる。
「それに、年の離れた兄がいるんです、私。だから、大丈夫です」
しっかりした口調で少女が断言する。
……しかし、なにが大丈夫だと言うのか。
「私には歳の離れた妹はいないぞ」
そう言うと、こつん、と靴を軽く蹴られてしまった。
「妹扱いはやめてください」
「なんだそれ」
「ふふっ、先生は私を癒してくれればいいんです」
「今日だけだぞ」
「はい、今日だけです」
そう言うと少女は明るく笑った。
罪悪感を覚えながらも、私はその明るさに少しだけ違和感を感じていた。