我、俄然、捨テ犬
「先生って、暇ですよね」
季節は八月、長い長い夏休みも既に中盤に差し掛かっている。
美術準備室の窓から、体育会系の部活動をぼーっと眺めていると、後ろから声をかけられた。
「そうだなー」
学校の先生とは言え臨時教師なのだ。扱いは契約社員のそれに近い。
つまり、週5日の勤務が義務付けられている。
「大変なんですね」
あまり興味がなさそうに呟くと、少女の顔は再び机に向けられる。
広げられた問題集とノート。高校3年の夏休みと言えば、本格的に受験に向けて動き出す大切な時期だ。
それはわかるんだが……
「なぁ、なんでここで勉強する必要があるんだ?」
「先生と一緒にいたいからです」
「はいはい」
この夏休みで何度目のやりとりだろう。
昼過ぎまでここで勉強してから、そのまま塾へ行く。
それが彼女のここ最近の日課となっているようだ。
定型文のような会話も終わり、なんとなく手持無沙汰になってしまったので、窓を開けてタバコに火を付ける。
大きく吸い込んでから紫煙を吐きだすと、少女の怨みがましい視線と目があった。
「タバコぐらい吸わせてくれ」
何か言われる前に、自らを擁護するように両手を上げる。
別に、いいですけど。そういう少女の顔は全然よさそうには見えない。
火を消したものか悩んでいると
「私、家だと勉強に集中できないんです。かと言って、塾の自習室の重苦しい雰囲気はどうにも慣れなくて……」
だから……と続けようとする少女の言葉を最後まで待たずにタバコを灰皿に擦りつける。
ここが落ちついて勉強できる場所というのなら、その環境を整えるのも教師の役割か。
正直、ひとりだと暇すぎてしんどいし。
「コーヒーでいいか?」
「お願いしますっ」
こうしてると喫茶店みたいですね、そう言って笑う彼女に一応釘を差しておくことにする。
「だからと言って、ここで落ちつくのもどうかと思うぞ」
「先生と私、相性いいみたいです」
「相性ってのは一方的に決めるものじゃないからな?」
「うぅ、ひどいです」
現実問題、美術部として活動をしているわけでもないのに、生徒が毎日のように美術室に入っていくのは不思議な光景だろう。
誰かに見られていたら邪推されても仕方がないほどに。
「やっぱり、来ない方がいいですか?」
ちょっと心配そうな少女の声音。
まぁ別にやましいことをしているわけでもないので、何か言われたら正直に話せばいいことだ。
「生徒がベストを尽くせる環境を作るのも、先生の役割だからな……」
それに加え、どうにも彼女は立ち回りが上手い節がある。きっとその辺りも対策は練っていることだろう。
「平日はどうせ暇してるから、いつでも来なさい」
「やったぁ」
鼻歌交じりに少女が問題集を読み進める。
「なんだか飼育委員になった気分です。先生、なんか捨て犬っぽいし……」
とびきりの笑顔とともに聞こえてきた彼女の言葉を、私は理解しないことにした。
*****
「それでね、先生。お願いがあるんです」
ふぅふぅとコーヒーを息で冷ましながら、少女が伏し目がちにこちらを見てくる。
「それは……困ったな」
「まだ何も言ってません」
「君が改まる時は、大体困ることを言ってくる」
ふむ、と頷くように少女が考えこむ。
が、すぐに頭を切り替えたのか「まぁいいじゃないですか」と顔を上げて話を続けた。
「月末にね、模試があるんですよ。
それでね……
もし志望校のA判定が取れたら、
私のお願いを聞いてください」
ひと言ずつ、まるで何かを確認しているかのように告げられる少女の『お願い』。
お願いを聞くというのが、お願いの内容というのも変な話ではあるが……。
「お小遣いなら親におねだりしなさい」
不透明なお願いごとというのは大体が金銭問題だと相場が決まっている。
「そういうのじゃないです」
少女は不貞腐れたように頬を膨らませると、
「……先生にしかできないことです」
目線を床に落として、心配そうに或いは自信がなさそうにそう呟いた。
「まぁ、そういうことであれば」
ベストを尽くせる環境を作る。先ほどの自分の言葉の手前、それが少しでも彼女のモチベーションの足しになるのなら引き受けざるを得ない。
それに、少しだけ少女の表情が気にかかる。
「俄然やる気が出てきました!! 約束ですよ!!」
手を上げて喜びを表現する彼女。ありもしない鉢巻を締める仕草までしている。
気合いが入ってくれたなら結構なことだ。
それにしても……
「俄然だなんて、難しい言葉知ってるんだな」
「前々から思ってたんですけど、先生私のことバカにしてるでしょ」
「そんなことないぞ」
「ちゃんと私の目を見てください」
「ほら、ちゃんと勉強しないといい点取れないぞ」
もぅ、とぶつくさ文句を言いながら、少女がコーヒー片手に勉強を再開する。
特にやることもないので窓から外を眺めてみると、相も変わらず炎天下の中、運動部が走り回っていた。
これが若さか……。
そんなことを考えながら、温くなってしまったコーヒーを一口、口に含んだ。