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形而上学


季節は六月。

蒸すような暑さは、この美術準備室も例外ではなく。

「あーつーいー」

覇気のない少女の声がより一層の暑さを感じさせるようだ。

彼女は手に持った下敷きで自らを扇いでいて、ぺらぺらという音が絶え間なく鳴り響いている。

「あつーいー、腕疲れたー、あーつーいー、せんせー、クーラー」

「はいはい、今つけますよ」

吸いかけのタバコを灰皿に擦りつけ、ガラガラと音を立てて窓を閉める。

机上のリモコンを操作して、小さな壁掛けエアコンを動作させると、キュピンという電子音に続いて、ゴォォとやや温い風が回りはじめる。

「この暑さの中で、よくエアコンなしで生きていられますね」

未だに下敷きをぺらぺらさせながら、少女―高野綾―が感心したような呆れているような顔をしている。

「午前中は日陰だから、エアコンなしでも快適なんだよ」

「じゃあ明日は午前中に遊びにきますね」

「授業を受けなさい」

「はーい」つまらなそうに言いながら、少女がイスから立ち上がり、コーヒーメーカーの前まで移動した。

コーヒーを淹れてくれるのかな? と思ったが、そういうわけではないらしい。

機械の前で微動だにせず、ただただにらめっこしている。

「せんせい……私、今日はコーヒー作りたくないです」

心底嫌気がさした口調で、少女がはぁと溜息を付いた。

これだけの暑さだ。彼女の気持ちはわからないでもない。

「……そうか」

気のない相槌を打つと、少女の瞳の奥に一瞬だけ光が見えたような気がした。

「ジュースが飲みたい……」

そうつぶやく彼女の視線は遥か遠くを見つめている。

額に滲んだ汗を拭いながら、少女はそれがあるであろう方向―自動販売機オアシス―から目を逸らさない。

一心不乱に想いを馳せる様子は、沙漠をオアシスからオアシスへと移動するキャラバンのようでもある。

「じゅうすがのみだいよぉぉぉぉぉぉ」

心の声を欲望まま口から出すその様子は……あぁ、うん。等身大のダメな女子高生だな、やっぱり。

「奢らんぞ」

何かを期待するようにチラチラとこちらの様子をうかがっている彼女の背中に声をかける。

「いいじゃないですかー」

頬を膨らませて、「けちー」と悪態をついて不満そうにしている少女。

「学校側からのお達しでな」

部活や課外活動以外などの特殊な事例を除いて、少人数の生徒をひいきする真似をしない。

この学校に来て唯一指導されたことだ。

あれ、そういえばこれ部活動なんだっけ。じゃあ別に奢っても問題にはならないのか。

…………。

「誰も見てないですよ」

心の葛藤を知ってか知らずか、少女が悪戯っぽく微笑む。

「規範は見られていない時にこそ守るべきものだぞ」

モラルと人徳は見られていない時にこそ役に立つ。別に自販機代が惜しいわけではない。断じて。

「んー、難しいよぉ!!」

頭を抱えて考える少女に、えも言えぬ満足感を覚える。

これが哲学だ。形而上学だ。あぁ、神はなぜ我らに試練を与えたもうのか。

さてと…………

「部屋も冷えてきたし、私はコーヒーを淹れるよ」

席を立ち、コーヒーメーカーにミネラルウォーターを入れて、豆を挽く。

「あ、先生ずるい。私も飲む」

「今日は暑いから飲まないんじゃなかったのか?」

「先生の淹れてくれたのなら、暑くても飲めます」

「そういうものか」

「ふふん、そういうものなんですよ」

得意そうな顔をして、少女が足や身体を揺らしてリズムを取っている。

鼻歌まで歌って、なにやら上機嫌なようだ。

そう言えば、彼女の来ている時はいつも淹れてもらってばかりで、私がコーヒーを作ったことはなかったな。

なんとなく照れくさく思いながら、ふたつのマグカップにコーヒーを注ぎ込む。

「えへへ、先生の淹れてくれたコーヒー、美味しいですよ」

これが愛情の味ですね、と笑う少女に「そんなものは入れてない」と言いながら私もコーヒーに口を付ける。

「なんでですかー」残念そうな、それでいて嬉しそうな少女の笑い声が狭い美術準備室に響いていた。


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