天井のシミ
3.
「そういえば、先生は職員室に行かないんですか?」
うららかな春の日差しが。ほんのりと差し込んでいる美術準備室。
イスと箱馬を一体化させたような特別教室独特のイスに座り、前後に身体を揺らしながら少女が爆弾を投下した。
あー、と声を発しながら、なんて答えようか迷う。
別に職員室に行っていないわけではない……わけではないんだが、確かに此処にいる時間は圧倒的に長い。
少女から目を逸らし、天井を眺める。
こうして天井のシミを数えると、嫌なことは全部忘れられる。悟りとは天井のシミのことであったか。
「先生?」
そしてまたひとり、つまらぬ疑問に捕われた悩める子羊がここに。
「ほら、見てごらん」
顎で天井を示すと「なんです?」とキョトンとした表情で少女も天井を眺める。
「これが宇宙だ」
……。
少女は何かを考えるように長い間沈黙した結果、「はい?」と一言だけ言葉を返した。
沈黙は痛いが、鋭い言葉はより一層心を抉る。
無念、年端もいかない少女を悟らせるにはまだ早かったか。
「先生はいつも此処にいますよね」
少女が最初の質問を蒸し返す。
ほんわかした雰囲気の彼女ではあったが、言葉じりがどことなく鋭い。
「ああ。どうもあの空間は居心地が悪くてな」
まぁ当たり前と言えば当たり前だ。
臨時教師として一年だけの任期で、それもあの後藤恵美子の紹介ともなれば誰もが敬遠するだろう。
来年には再び彼女が戻ってくるのだから、私と関わる必要は彼らにはない。
大勢の中で孤独を感じるよりも、ひとりでここに居る方が落ちつく。
やることさえやっていれば、特に何かを言われる謂れもない。
「コミュニケーションも大事ですよー」
覗き込むようにして少女が身体を折り曲げる。
わかってるよ……わかってるけど、どうもね。
視線から逃げるように窓の外を眺め、コーヒーを啜る。
既にぬるくなってしまっているが、心を落ちつける味は変わらない。
5月も半ば。ゴールデンウィークが終わるころには、様々な人間関係が形成されてくる。
性格・容姿・態度・スタンス。
高校生でさえ無意識にそれらを選り分けて、仲良く付き合っていく友人を剪定していくのだ。
大人になれば、それはより顕著に表れてくる。もちろん、表だって態度に現わされることはないが。
ふぅ、と香ばしく薫りづいた息を吐く。
そういえば……
「君はどうなんだ?」
始業式に此処で会って以来、放課後になると毎日のように彼女はこの美術準備室にコーヒーを飲みに来る。
彼女のくらいの年齢であれば、放課後は友だちと遊ぶものだろう。
「私は……友だちいないから……」
あー、と小さく唸りながら、少女は気まずそうに微笑む。
「先生と話すのが、毎日の楽しみなんです」
普段は明るいのに、寂しそうにこちらを見つめてくるギャップに思わず胸が高鳴る。
……けれど、彼女の言葉は事実ではない。
「なぁ」
「はい?」
「……授業中のあれは、私の見た幻か何かか?」
「あ……」
口許を手で押さえ、少女が大げさに「しまった」という表情を浮かべる。
いや、普通気付くだろう。
事実は全くの逆なのだ。
彼女は友だちが多い。授業中に見ているだけでも、少なくともクラスの半分の女子とはうまく付き合えているように見える。
あときっと、世渡りも上手い。
授業中に私と目があっても反応を見せることはなく、恐らく友人に私のことは話していないのだろう。
やましいことが無いとは言え、あまり生徒と二人きりになっていることが知れ渡るのはよろしくないので、その辺りは少しだけ安心している。
「てへっ」と舌を出しておどける彼女をしり目に、ちょうどいい機会なので思ってたことを言うことにする。
「君ぐらいの年齢だったら、たくさん面白いことはあるだろう。好き好んでこんなところに来る必要はないんだぞ」
「好き好んでるから来るんです!!」
恥ずかしげもなく、さらっと恥ずかしいことを言われると、少しだけドキッとしてしまう。……少しだけ。
「いいですよー。邪魔だったら帰りますよー」
頬を膨らませた少女が鞄を抱き締める。
唇を尖らせて、ぶーぶーと文句を言っている。
「邪魔とは言ってないが……」
どうせ私もやることないしな。と言葉を続けると、不貞腐れていた表情が悪戯っぽいそれに変化した。
「しかたないですね。じゃあ、下校時間までここにいて、話相手になってあげます」
「勝手にしてくれ」
くすくす笑うと、少女がその日のできごとを話し始める。
そうやって毎日を楽しく生きている彼女が少し眩しく見えた。
こんな日常も悪くないな……さまざまな感情を、すっかり冷めてしまったコーヒーと一緒に飲み込んだ。




