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春風

2.

桜舞う始業式。

今年の桜は遅咲きで、やっと来た春の陽気に狂い咲いている。

新任教師の一大イベント―就任の挨拶―を終わらせると、さっそく仕事場に足を踏み入れてみた。

美術室というのはどの学校も大して変わらないな。

午後の日差しは少しだけ差し込んでいるが、まだ十分とは言えず、教室の中には冷たい空気が充満していた。

妙な懐かしさを覚えながら、部屋中を見て回る。

自分の通っていたそれとの差異に真新しさを覚えながらも、小さな教室はすぐに見終わってしまう。

前任者の言葉を思い出し、もうひとつ見ておかなければならない場所があることを思い出す。

「準備室はくつろげる空間になっているから、好きに使ってくれて構わない。まぁ、余計なものもついてくるかもしれんが」

そんな彼女の言葉を反芻しながら、教室の脇にある準備室への扉に手をかけた。

余計なものとはなんだろう……そんな小さな疑念を抱きながら。


扉を開けるとムワッとした熱気に包まれる。

電気式のストーブが、それは心地のよい空間を作り出していた。

そんな春真っ盛りの空間に包まれて、窓際に配置されている机では少女が突っ伏して眠っていた。


……さて、どうしようか。

状況を整理するためにタバコに火を付ける。

敷地内は禁煙だったが、別に構わないだろう。

前任者からは好きにしていいと許可を貰っているし、すぐそばの棚にはなにやら可愛らしい灰皿まで用意されている。

煙を深く吸い込むと、頭の中が冴え渡ってくる。

――あぁ、そういえば午前中はずっと吸っていなかったな。

そんなことを考えながら、カーディガンを羽織って眠る少女に近づいた。

長い黒髪はさらさらと柔らかそうに流れ落ち、露出している耳と頬、そして額を乗せている両の手の甲は白いけれど、健康に血の通った肌の色をしていた。

天然無垢の滑らかな柔肌……衝動的に触れたい欲求に駆られたが、さすがにそれをしてしまうほど欲望に素直ではない。残念ながら。

ふぅ、と煙を吐くと、少女が小さく身じろぎをした。

「臭い」

か細い声が耳に入りこんでくる。

起きたか……なら丁度いい。窓に手をかけると、半分ほどそれを開ける。

まだ冷たい春の風が、美術準備室を駆け抜けると少女が顔を上げた。

「寒い」

眠い目を擦り、不機嫌そうに少女が再び「臭い」と呟いた。

その鋭い目は右手に挟んだタバコに向けられている。

「あぁ、すまんな」

灰皿にタバコを擦りつけている間に、少女が立ちあがる。

寝起きのせいなのか、彼女はぼーっとした表情でこちらの一挙手一投足を眺めていて妙に居心地が悪い。

「その……なんだ……私は今日からここで美術の教師をすることになった……」

「知っています、高峰先生ですよね」と少女が遮る。その声は澄んでいるようで、どこかフワフワした印象を与える。

「それで、君は?」

「高野綾。美術部員です」

「美術部は数年前に潰れたと聞いているが?」

「ええ、だから部員は私ひとりです」

しれっとした顔で少女が答える。

あぁ、なんだか嫌な予感がしてきた。

「君はいつも此処に来るのかい?」

「部員ですから」

「あぁ、そういうことか」

前任者の言う「余計なもの」とは彼女のことだったのだ。

確かに、彼女と言う存在は都合が悪い。

それを隠して仕事を振るとは、あの人も人が悪い。

もう一本タバコに火をつけてしまおうか考えていると、少女が不思議そうな表情で覗き込んでくる。

「どうしたんです?」

さて、なんて説明したらいいものか……。とりあえず掻い摘んで説明することにしよう。

「その……なんだ……前任者から『準備室には余計なものがいる』って聞いててな。君のことかと納得したところだよ」

「エミちゃん、ひどいー」

少女が唇を尖らせて不満を主張する。

「エミちゃんって……」

前任者の名前は後藤恵美子という。

昔お世話になった恩師なのだが、私とも一回り以上上の恵美子さんをちゃん付けで呼ぶとか逆に凄いな、この子。

「だって、名字で呼ぶと怒るじゃない? エミちゃん」

確かに、なんの拘りなのか、彼女は名字で呼ぶと非常に怒る。それ以外であれば好きにしろ、と言った感じの人だ。

「でもエミちゃんから先生のこと頼まれてるんですよ。頼りない男だから面倒を見てやってくれって」

「それはまぁ、余計なお世話だこと」

「そんなこと言っていられるのも今のうちです」

さぁ、ここに座っていてください。そう言うと少女は棚にしまわれていたコーヒーメーカーに豆を入れると手際よくコーヒーを作りはじめた。

ミネラルウォーターまで用意している辺り、本当になんでもありなんだな。

「コーヒーはブラックでいいですか? 私たち、ブラック派だったので砂糖とか置いてないんですよね」

もしかしたらスティックが、そう言って棚を漁ろうとする彼女を言葉で制する。

「私もブラック派だよ」

「うふふ、じゃあ一緒ですね!」

何が嬉しかったのか、少女は鼻歌まじりでコーヒーメーカーとにらめっこをしている。

「先生、甘いのは大丈夫ですか?」

「ああ、好きだよ」

「よかった」

そんなやりとりをしながら待つこと数分、香ばしい匂いが部屋に充満した頃にコーヒーが出来上がった。

「はい、どうぞ」

「ありがとう……」

「どうしたんです?」

「いや、お菓子でもあるのかな、と思って」

「学校ですよ、ここ」

じゃあさっきの質問はなんだったんだ。訝しみながらコーヒーを啜る。

うん、美味しい。そう告げると少女は嬉しそうに笑った。

「卒業までの一年間よろしくお願いしますね」

……あぁ、やっぱりそうなるんだな。

彼女のとびきりの笑顔を見ると、そんな皮肉も口を付いて出ることはなかった。


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