透明な果実
3月31日。私の教師としての契約も今日で終わる。
そういうわけで、珍しくも今日はいつもと違ってやることがないわけでもない。
なんて偉そうに言ったところで、離職する己の私物を片付けて、飛ぶ鳥後を濁さぬように努めるだけなのだけれども……。
元々私物が少なかったせいか、私物をまとめる作業はすぐに終わってしまったため、あとは専ら部屋の掃除に明け暮れることになる。
そこそこ年季の入った部屋なのでピカピカに、というわけにはいかないが、適当に終わらせたら後が怖い。
恵美子さん、そういうところは細かいからなぁ。
自分が出ていった時より少しでも汚いと、即効でクレームの連絡が入ってきそうだ。
苦笑しながら濡れた雑巾で机のちょっとした汚れを拭きあげると、少しは綺麗になってくれる。
同じ箇所に洗剤をプシュっと振りかけて、雑巾でゴシゴシ。
そうして、やっと凝り固まった汚れが剝がれてくれる。
ん、これがなかなかに癖になる。
もうワンプッシュ……ゴシゴシ……。
プッシュ……ゴシゴシ……。
地味だけれども確実に進んでくれる作業が癖になりそうだ。
数十分かけて綺麗になった机を前に、うんうんと一人うなづく。
たかだが一年勤めただけだが、それでもその大半をこの部屋で過ごしてきたのだ。
やはり感慨がないわけではない。
自分の居た証を消していく作業に物寂しさと居たたまれなさを感じつつ、部屋の掃除もまた、そう時間がかかることもなく終了してしまった。
……最後にコーヒーでも飲んで帰ろう。
コーヒーメーカーをセットして、椅子に腰を落ち着ける。
ゴーッとコーヒーが砕かれていく音だけが室内に響く。
暇を持て余して窓の外に咲き誇る桜を眺めていると、外から入り込んでくる日差しが眠気を誘う。
いっそのことこのまま転寝してしまおうか悩んでいると、ゆっくりと扉が開けられる音に意識を引きずり戻された。
振り返ると、硬い表情の少女がいた。
「忘れ物を取りに来ました」
少女が一切の感情を殺した声でそう告げる。
冷たい印象だが、懐かしく、この部屋の雰囲気にそぐう声音だ。
その声についてくるようにして、彼女の背後から冷気が入り込んできた。
「そうか」
忘れ物……。
片付けている時に一通り確認したはずだったが、彼女のことだ、よくわからないところに何かを隠していたのかもしれないな。
彼女がここに来てくれたことが嬉しいような寂しいような、なんとも言えない気分になり、どうしていいのかわからずに、苦笑してポケットに手を入れる。
しかし、ポケットの中にはもう、いつもの相棒は既に居ない。
口寂しさを覚えつつも、ドアの前から動こうとしない彼女に「おめでとう」と声をかける。
「はい?」と首をかしげる彼女に再び苦笑を返す。
「卒業おめでとう、って思ってまだ言ってなかったと思ってな」
そう告げると、「それだけですか?」とどこか不満げな口調で少女が口を開く。
「志望校にも合格したみたいだし」
そういう私の言葉を、少女が後ろ手に閉めたドアの音が遮る。
一歩、少女がゆっくりと近づいてきた。
「先生のおかげです」
口の端を少しだけ釣り上げて少女が応える。
「それで?」
少女の目線が痛いほどに刺さる。
こんなやりとりも、ずいぶんと久しぶりだった。
悲痛な感情を胸の内に抑え込んで、できるだけ軽い感じで
「……彼氏もできたみたいだし……よかったな」と言葉を投げかけた。
胸の疼きは妬みだろうか。決して抱いてはいけない感情に脳髄が揺れるような錯覚に陥る。
「寂しいですか?」と少女が自嘲気味にほほ笑む。
「……馬鹿いうな」
あぁ、もしかしたら私も、彼女と同じような表情をしているのかもしれない。
……なんて、妄執にも似た妄想に囚われながら、手が無意識に胸ポケットをまさぐる。
けれどもやはり、そこに目的のものはない。
しかたなしにさまよう手で頭を掻いて、その手の終着点を見つけた。
「コーヒー、飲んでいくか?」
はぁい、と覇気があるんだかないんだかわからない、いつもの返事をして少女が嬉しそうにいつもの席に着く。
既視感が、胸のわだかまりを少しだけ薄くしてくれた。
少女用のマグカップも出し、1杯分のコーヒーを分けて注ぐ。
マグカップを渡すと、息をふぅふぅと吹きかける。
やがて少しだけカップを傾けてひとくち口に含むと、「あったかい」と安堵の息を漏らした。
「まぁ、そうだろうよ。私が淹れたんだからな」
などと軽口を叩いてみたが、少女は聞いていないかのように目を瞑り、ゆっくりともう一口コーヒーを口に含む。
そうして「ここで飲む最後のコーヒーですね」と、感慨深げにポソリとつぶやいた。
「そうだな」
同じような口調でそれに応える。
この一年、この美術準備室でどれだけ一緒にコーヒーを飲んできたのだろう。
否が応にも、これまでのことが追随される。
「色々なことがありましたね」
同じことを考えているであろう少女の言葉に、「そうだな」と同じように返す。
「コーヒー、美味しいですね」
他愛のない少女の言葉に、「そうだな」と、なにも考えずに(かつてのように)返す。
「先生、私のこと好きですか?」
何を期待してか、突拍子もない少女の質問に
「……別に」と、条件反射のように応える。
コトンと、少女がマグカップを手元に置いて、椅子から立ち上がる。
「先生は、嘘つくのが下手です」
断罪するかのように少女が告げる。
まるで神判を下すように厳かな光景にも見える。
「別に、嘘では……」喉まで出かかった言葉は、最後まで紡ぐことを許されなかった。
少女の身体が飛び込んできて、ふわりと彼女の髪が眼前で舞う。
「おい、こら……」
バランスを崩し、コーヒーが零れないように左手だけが彼女から遠く離れる。
右手は行き場を失い、どうしたものか悩みあぐねていた。
「先生も……卒業、おめでとうございます。」
「あぁ、ありがとう。」
悩んだ挙句、彼女の髪を梳くように頭を撫でてやる。
「先生の匂い、久しぶりです」
甘えるような彼女の声が脳髄を刺激する。
「柔軟剤の匂いかな?」とすっとぼけると、
「先生の加齢臭です」と少女が笑いながら残酷なことを言う。
「冗談でも傷つくぞ」そう告げると、少女が胸に顔を埋めてスーハ―している。
……そこは、嘘だと言ってくれ。
「もう先生じゃないんですよね?」
「そうなるな」
正確には明日からだが、まぁもう任期も終わったようなものだろう。
私が先生と呼ばれることは、きっともうない。
「ねぇ先生……それなら、いいでしょう?」
少女の顔が、再び上を向く。
熱を帯びた視線が、煮え切らない私のそれと交わる。
「君には彼氏がいるだろ」
「ふふっ……あれ、演技ですよ?」
特に感慨もなく、大切なことをさらりと少女が言ってのける。
「は?」
「先生の嫉妬心を掻き立てるための作戦です」
えへん、と胸を張って「効果はバツグンみたいですねっ」と喜ぶ少女を、
「先生……?」
……力強く抱きしめた。
頬をくすぐる少女の髪、重なった暖かな身体、小さく漏れた喘ぎ声、そのどれもが愛しい。
言うまいとしていた言葉が自然と口をついて出る。
「私も……君が好きだ」
一度枷の外れた思いは、もう留めることができない。
「きょ、今日は鍵かけてないですよ?」
珍しく、慌てるように少女が背後を気にしている。
「構うものか」
どのみち春休みだ。生徒もいなければ、美術室があるような廊下の隅っこまで見回りに来る教師もおるまい。
「激しいんですね」
「君がそうさせたんだ」
蠱惑的な唇を塞いでしおうと顔を寄せる。
「まだキスは早いって言ったのは先生ですよ?」
「もう我慢できない」
「仕方のない人ですね」
諦めたようにほほ笑むと、少女が小さく息を飲んだ。
「うん、あげるわ。私の初めて」
その言葉を最後まで聞く前に、私は少女の唇を奪っていた。
強張る彼女の体が腕伝いに感じられた。
時にして数秒だったろうか。
驚いて目を見開いていた彼女も、感触を味わうように瞳を閉じた。
回した手で、優しく彼女の背を撫でる。
次第に抜けていく彼女の体の強張りを感じる。
ガードの甘くなった唇に、舌を滑りこませると
「んあっ」
と雰囲気もみじんもない規制を発して、少女が体を離した。
「もうっ、油断も隙もないですね」
「そういう駆け引きが好きなんだろう? 君は」
「破廉恥なのは求めてません」
「難しいんだな」
「先生が性急すぎるんです」
悪かったな、と頭をかきながら椅子に座る。
飲みかけのコーヒーを再び手に取り息をつく。
やっとひとごこちついた。長いこと、こんな風に落ち着いていなかった気がする。
少女はというと、唇に手を当ててぼさっと突っ立っていた。
「キスの味……。タバコの味じゃないんですね」
「やめたんだよ」
「それって私のためですか?」
少女の顔にいたずらな笑みが浮かぶ。
私はその視線から逃げるように顔をそむける。
「タバコが嫌いだと言ったのは君だろう」
「そうでしたね。ふふっ」
まったく、こういう時にタバコがないのは本当に手持無沙汰で困ってしまう。
仕方なしに頬杖をついて春の空を眺めていると、でも……と少女が続ける。
「優しい先生の味がしたから合格点です」
「それはよかった」
最後のがなければ完ぺきでした。なんて言う彼女の言葉は聞こえなかったフリをしておこう。
「でも残念。先生はもう二度とタバコを吸えませんよ?」
「ああ、覚悟の上さ」
そう告げると、にこやかに少女が笑う。
彼女につられるようにして私も笑う。
それだけで、ずっと悩んでいたことが意味のないことのように感じた。
あぁ、きっとこんな日をこの数か月求めていたのかもしれない。
「さぁ、帰りましょう」
そう言って少女がこちらに向かって手を差し出す。
手を繋いでるんるん仲良く下校……って、
「おいおい、さすがにそれは不味いだろ」
「いいじゃないですか。誰も見てないし、仮に見られても問題ないですよ」
もう卒業するんだし、と彼女は言葉を続けるが、実際問題は大いにありそうなんだが……。
その手を眺めながら誘惑と倫理の境目で右往左往していると、寂しそうにしている少女と目が合った。
「まぁいいか」
その手を優しく握り返す。彼女の温かい感触が、胸に幸せな疼きをもたらした。
「JKと手をつなげるなんて、先生の人生で今日が最後ですよ」
「君も……教師と手をつなぐなんて、今後ないだろうよ」
売り言葉に買い言葉であったのだが、少女は悪戯っぽく笑うと、
「私は、次にまた教師と付き合えばいいだけですから」と宣った。
「それは……困る」
「じゃあ、ずっと捕まえててくださいね」
そういって少女が身体をさらに寄せてくる。
これではどこからどう見ても……ってもう今更か。
少女のほどほどに長い髪を頬に感じる。
あんなにも捕らえどころのないように感じていた瞳が、今はこんなにも近い。
卒業と新しい旅立ち。
そんなありきたりなハッピーエンドに自然と笑みがこぼれた。
あぁ、もうこの美術準備室に未練はない。
彼女と寄り添って部屋を出て、後ろ手に扉を閉める。
「先生は私だけ見ててくれればいいんですよ」
そうつぶやく少女の声が、甘い果実のように耳にまとわりつく。
そんなの今更だ……きっとこれからも、私は少女を手放さないだろう。
校舎を出ると、ふたりの卒業を歓迎するように満開の桜が咲き乱れていた。




