紫煙
1.
「タバコの臭い、私嫌いです」
そう言って彼女は私の手から火を付けたばかりのタバコを奪い取ろうとする。
危ないぞ、と注意を促しながら私はタバコを持った右手を高く掲げる。
腕を右へ左へと振るのにあわせて、目の前の少女の長い黒髪が少し遅れて同じ動きをする。
「じゃあいいです」
数秒ほど踊らされて奪い取れないと悟ると、タバコから目を逸らして不敵に微笑んだ。
この顔は、なにか企んでるな……そう思った次の瞬間、彼女の腕が私の背中に回された。
「えへへ、捕まえたぁ」
悪戯っぽく笑う彼女の笑顔が、すぐ近くにある。それこそ呼吸の音も聞こえてしまいそうなほど近くに。
さらに密着した柔らかい身体からは、まるで誘うように甘い香りを発している。
「これは困ったな」
「そのタバコを捨てたら、解放してあげます」
ため息をついて天を仰ぐと、自然と右手に持って掲げたままのタバコが目に映る。
腕の関節を曲げて、少女と密着したままタバコを一口、大きく吸い込む。
「あーっ!!」
その様子を見ていた少女から不満の声が上がる。
さらに言葉を続けようとしている少女の顔に向かって大きく息を吐く。
紫煙に包まれた少女がコンコンと咳き込む。
煙を振り払いながら、弾劾するようにこちらを睨む目には涙が浮かんでいた。
しがみついていた身体は、もう離れている。
なおも咳き込みながら、少女が訴える。
「タバコの臭い、嫌いって言ったじゃないですか」
「それは……なんと言うか、よかった」
「何がいいんですか」
「私はタバコが好きだ」
「だからなんです? 先生が嫌いとは言ってませんよ?」
むしろ好きです、と小声で言う少女の顔は少し赤らんで見える。
そんな彼女に応えるべき言葉を、私は持っていなかった。
「それは……残念だな」
「もうっ」
ふくれつらをする彼女に、「飲んだら帰るんだぞ」と私はコーヒーを淹れてやる。
「はーい」
準備室に転がっている椅子に座ると、少女はコーヒーを眺めながら足をプラプラさせて遊んでいる。
紺色のスカートから膝が見え隠れしていて、心臓に悪い。
「飲まなくても帰るんだぞ?」
「えー、別にいいじゃないですか。先生のコーヒー美味しいから、飲むの勿体ないんですよ」
「褒めてくれるのは嬉しいが、飲まないとコーヒーも悲しむぞ」
「コーヒーは悲しまないですよー」
ふぅ、とマグカップに息を吹きかけると、少女は一口それを啜った。
「うん、美味しいです。それにいい香り……誰かさんとは大違いですね」
「はいはい。それは申し訳なかったですね」
紫煙と一緒にため息を吐きだすと、短くなったタバコを灰皿に押しつけた。
可愛らしい笑い声が殺風景な美術準備室に響き渡る。
少女の名前は高野綾。この高校に通う3年生だ。
いつからか、放課後の美術準備室に居付いてしまっている。
まったく……困ったものだ。