ブルー 俺の恋はやや困難(ブルー) ①
日は既に、西の空に傾いていた。
この時間になるとやはりまだ肌寒い。小山野は羽織ったパーカーのファスナーを引き上げる。
口に咥えたタバコにはまだ火が点っていない。
「あ、研ちゃんまたタバコ吸ってるー」
その言葉に小山野が顔を上げると、丁度目の前に一台の自転車が止まる。
自転車に乗っていたのはセーラー服を着た女の子だった。黒の前髪を慣らし、耳に掛ける。
「……まだ吸ってない」
そういって小山野は持っていたタバコに火を点ける。
「あーー、もう、!ダメだって!タバコは身体に悪いんだから吸っちゃダメ」
セーラー服を着た女の子はそそくさと自転車を降り、小山野に駆け寄る。緩やかに癖づいたミディアムヘアがふわりと跳ねた。
「……、大人は、タバコを吸わないと、元気が、出ないんだ」
小山野はその女の子から身体ごと反らす。しかしすぐに女の子は小山野の前に立とうとする。また反らす、追いつく。その繰り返しで二人はくるくると回った。
「ん~~……、ダメったら、ダメ。えいっ!」
何回か回ったところで女の子は、無理矢理に咥えられたタバコを取ろうとする。
三十センチほど身長差のある二人だ。その上、小山野は真正面を向いてはくれない。取ろうとすれば飛びつくようになるのは当然だった。
「……あぶないっ!」
「あっ」
小山野は突然大きな声を出し、伸ばされた手を右手で強く掴んだ。女の子は驚き、少し怯えた表情を小山野に向ける。
火の点いたタバコがアスファルトの上に落ちた。
「……火傷するだろ」
小山野は言って「当たってないよな」と女の子の手を表裏と覗く。
「……うん、大丈夫。ありがと」
女の子は小山野の心配そうに探る姿を見て身体の緊張を解く。しかし顔は伏せてしまった。一生懸命もう片方の手で隠した顔を扇いでいる。
女の子は紅潮する頬を必死に落ち着かせようとしていた。
「どうした?本当に大丈夫だろうな」
小山野はその様子に不安を感じ女の子の顔を覗こうとする。
「……っ。大丈夫、大丈夫だから!……その」
突然視界に入り込んでくる小山野に驚きさらにそっぽを向く女の子。向きながら言葉を言いかけて飲み込んでしまった。小山野が更に不安がり顔を追いかける。
「あの!……。手を……」
それを女の子は言葉を言いなおすことで防いだ。
「あ、悪い。痛かったよな」
小山野はいつまでも握ってしまっていた手を離す。 そしてさっと女の子から数歩下がった。気が付かないうちに大分強く女の子の手を握ってしまっていたらしい。小山野の手は血の気が薄くなっていた。
「あ、ううん。痛かったとかじゃ……なくて」
少し切なそうに女の子は掴まれていた手を擦る。まだ頬は赤い。
二人の間に少しの沈黙が生まれる。女の子はまた下を向き前髪を耳に寄せる。小山野もぽりぽりと顎の辺りを掻いて間を埋める。
遠くで鳥が鳴いた。
日差しは茜色になり、二人の世界を染めていた。
「……自転車、置いてくるね」
「……おう」
そういって女の子は自転車に駆け寄る。そして自転車のスタンドを蹴り上げようとするがうまく蹴れていない。「えいっ、えいっ」と焦る姿は小山野の目にリスのような小動物を連想させる。
「……ぷっ」
「あっ!研ちゃん今笑ったでしょ」
小山野の小さな笑いを聞き逃さなかった女の子は首だけで振り向く。悔しそうに頬を膨らます様は正に頬袋に食べ物を詰め込んだそれで、小山野の横隔膜を引くつかせる。
「そんなに笑うことじゃないでしょお!研ちゃんちょっと意地悪だよ」
「……悪い悪い。そんなことより早く置いて来い。店、始まっちまうぞ」
小山野がいうと女の子は慌てたように前に向き直る。そして自転車のスタンドを勢いよく蹴り上げ小山野が背にした建物の裏に回っていった。
小山野はそれを見送ると落ちたタバコを拾い上げる。既に火は消えて、タバコは灰色の棒になっていた。それをポケットから取り出した携帯灰皿にしまう。
「お、やばいやばい」
小山野を驚かせたのは目の前の建物の照明の点灯だった。
肴処 うさぎ
ここは小山野がアルバイトをする個人経営の居酒屋。値段はそこそこだが、料理は確かなものだと近隣住民に評判の店だ。出されるのは基本ベースを日本料理とし、しかし季節の食材を旨くする為ならその限りではない。もちろん居酒屋というだけあって酒の揃えもよく日によっては遠方からの客も絶えない。
店内照明が点いたという事は、そろそろ客を入れる準備が出来たということだ。休憩がてらの一服に時間を使ってしまったようだ。小山野は店内に向って駆けだそうとする。しかし、ポーズだけして立ち止まった。
「……一本吸う時間くらいあるよな」
小山野は新しい一本を口に咥える。
「また吸ってるよー」
小山野がタバコに火を点けると自転車を置いてきた女の子が戻ってきた。
小山野の喫煙をどうにか止めたそうな顔だが先ほどのように飛び掛ることはしない。
「まだ吸ってない。すぐ行くからおまえは店長にうまく言っておいてくれ」
そういって小山野は口から煙を吐き出す。「その一本だけだからね」とジト目の女の子は明かりが点いた店内に入ろうとする。
「あ、『藍』」
そう声をかける小山野に女の子は嬉しそうに女の子は振り返った。
「……おかえり」
「うん。ただいま」
藍は満面の笑みを小山野に残し店の中に入っていった。
小山野はそれを見送るとまたタバコを口に咥える。少し多めに吸うと、タバコはパチッと音を鳴らす。
小山野は立ち上がり天に向かって煙を吐き出した。灰色のもやは溶けるように空に消えていった。
無言でまだ吸いかけのタバコを携帯灰皿に入れ、それをポケットに閉まった。
そしておもむろに両の手で顔を覆う。
数秒の間。
「……かわいすぎるっ!」
小山野は辺りに響かないよう息を多めに吐いて叫んだ。
「くそっ!手、すげー強く握っちまった、すげー可愛い。なんだよあの蹴りは。可愛いにもほどがあるだろ!」
小山野は捲くし立てた。しっかりと両の足を大地に突き刺すその姿勢からは、微塵も感じ取ることの出来ない軟弱な声を上げていた。
「……俺は大人であいつは子供、俺は大人であいつは子供、俺は大人で……」
そして次にぼそぼそと呟くと、小山野は黙った。黙ったまま覆った両の手を一度顔から離し、今度は勢い良く顔に叩き付けた。
バチンッと電気がショートしたような音が響く。
「……よし、冷静だ」
そういって小山野は顔面にいもみじを二つ並べたまま店の中に戻っていった。
小山野 研二郎二十七歳は悩んでいた。
好きになってしまった相手が高校生の女の子だということに。