幸せになれる薬
研究者のユーリは何となく、階下に下った。
別に悪戯をしてやろうだとか、開発した薬を報告するということもなく、ただ何の気なしにフランの元に足を運んだのだ。
そして彼の異変に気付いた。
「……博士、どうしたんです?」
いつも降りてきた時にフランは研究に没頭して薬の調合や魔力の練成などをして、何か大きな音を立てない限り反応しない。それなのに今日はぼんやりと虚空を見つめているだけだった。
口元はだらしなく開き、目もぼんやりと何かを見ているように何も見ていなかった。
「ああ、ユーリか」
フランには普段の鋭さがまるでない。女性に対する無差別の殺意も作業を邪魔されたという殺気もない。
「何をぼんやりしているんですか! ちゃんと野望に向かって作業してくださいよ!」
普段、関係のない研究をしているのはユーリなのだが、そのツッコミも加えて彼女はフランが過剰に反応するだろうことを言った。
けれどフランはへらへらと笑って言うのみだった。
「ユーリ……俺は史上最悪の薬を作ってしまったかもしれない……」
それを、似つかわしくない笑顔で言うのだ。
ユーリは怖気を感じながらも尋ねる。
「……何を作ったんです? 一体何があなたをそんな風に変えたんですか?」
ユーリにとって恐ろしいのは、フランの表情がだらしなく、赤子のようでありながら、しかも多幸感に満ち溢れていることだ。
まるで今が人生の最盛期であるかのような、覇気の抜けた表情、普段のフランから予想もできないような姿。
「……これは最悪最低の薬だが、飲むことを勧める。素晴らしい薬さ、最低の、最高傑作だ」
そう言ってフランは桃色の怪しい液体の入った試験管を手渡した。
ユーリはそれをまじまじと見つめ、目を閉じて口へ運んだ。
自分でも恐怖と狂気の入り混じる行為だと思う。それでもユーリは飲まずにいられなかった。その液体の中の魔力、今のフランを見れば、研究者のユーリはそれを飲む以外の選択肢はなかった。
そして体中から滋養と活力が溢れるのを感じた。血液は燃え滾るように蠢き、睡眠不足で充血した眼はさっぱりと開く。
体中が走り出したいと叫ぶ。七十兆の細胞全てが何かをしたいと力いっぱいに唸る。
なのに――ユーリはだらんと、体中から力を失くした。
体以上に精神にその影響は及んでいた。筆舌できないほど無上の感覚、今すぐ死んでもいいと思えるほどの多幸感、脳味噌が、いや全身が幸せの液に浸っているかのような錯覚、まるで母親の体の中で眠っているかのような安心感。
「……これは……なんですかぁ? 博士ぇ……?」
溢れる幸福感を隠そうともせず、最高のディナーを味わった後のような雰囲気でユーリは尋ねる。
「これは、幸せになれる薬だ……」
「ああ、道理で……」
漲る。力も活力も、今なら何でもできると、未来になんでも作れると、あらゆるものが自分の味方だと信じられる。この世が自分のためにあるとすら思う。
そんな想いを抱きながらユーリもフランもあらゆる目標を失った。だってもう既に最高の幸せなのだから……。
幸せって何なんでしょうね。でも決して手が届かないものがよく幸せの例えになりますね。走る馬の頭に先にぶら下げられたニンジンとかね。