どんな病気も治す薬
階段を踏み鳴らす音がユーリの研究室に響く。
フランが自らユーリに会いに来るのは、悪戯がバレた時か、メラヘンに依頼された薬ができた時の二つしかない。
今は悪戯をした覚えがないので薬ができた、ということになる。
大抵は下らない説教か下らない薬の話だが、万が一性転換の薬ができた時もあるので、ユーリは僅かばかり期待に胸を膨らませた。
「ユーリ、いるか?」
「いない時がないでしょうが! 年がら年中ここにいますよ! 出かける時はあなたが一緒ですし!」
缶詰で薬の研究をしているユーリには愚問だ。それでもフランは建前程度に尋ねることをした。
「で、何の薬ですか!? 期待しちゃっていいんですか!?」
「期待はするな。普段通りの下らない薬だ。飲んでみろ」
フランは乱雑に水色の液体が入った試験管を投げる。それをユーリは慌てて受け取る。
「適当ですねぇ、あなたの薬って実際合理的で人間のためになるんですから、もっと自信持ったらどうですか?」
「そりゃ、お前のただの科学でもできるような薬と比べちゃ便利だろうよ」
「釣れないですねぇ」
イヒヒとにやけながらユーリはその液体を一気に煽る。二人は互いの体を被験体にして薬の経過を見るのが習慣となっていた。
しかしフランの薬は効果が分かりにくいものが多い。例えば食糧難の時に食事せずに済む薬だとか、忙しい時に眠らなくていい薬のようなものだ。
「で、何の薬なんです? 喉を潤す薬ですか?」
「違う、どんな病気も治す薬だ。ま、お前が病気じゃないなら反応はないだろうな」
フランがあっけなく言うが、ユーリは目を剥いた。
「……はいィ!? どんな、病気も、治す薬ですかァァァアアアアア!?」
いくら倫理的におかしいフランとユーリであっても、ユーリはその偉大さを知っていた。
「そんなもん、そんなもん、マジすか……」
驚きを通り越し、もはや恐怖や絶望に似た感覚がユーリを包む。そんなものを飲んじまったのか、と自分のお腹を撫でつける。
「マジだよ。じゃメラヘンでも呼ぶか」
「いやいやいや待ってください。それできたらもうメラヘンの下につく必要ないですよ。これもってどっかに亡命して、そこでノベール賞取って一生豊かにハーレム作って暮らせますよ。我らの目標も50%は叶いますよ」
「残り50%が叶わないだろ」
「そうですね! イヒヒ!」
二人の目的は、性転換の薬を作り、リザードマンを全て男に、他の種族を全て女にすること。
しかし自らの欲望を叶えるためなら性転換の薬なくとも、発明による資金でそれぞれ相手を買えばいい。
「できれば、王女が崩御する前に作らねばな……」
「しかし男が好きなくせに、女を見てあれが男ならなぁ、なんて思うなんて、博士は本当に酔狂ですね!」
現リザードマン女王のアレイドル・リッサー、およそ弱点のない美貌と才能で全てリザードマンを統治する彼女の性質を見て、フランは是非男にして囲いたいと思っている。だから薬を作りたいのだ。
「ともかくメラヘンを呼んでくる。えらくこの薬にご執心だったからな」
「へー、病気なんですかね? ま、確かにコミュ障ですけど! イヒヒヒヒ!」
ユーリが笑っている間に、フランは階下へと足を進めた。
わずか数十分と経たずにメラヘンは研究所を訪れ、即座に二人を宮殿のとある一室に招き入れた。
宮殿の一室はまるで占い師の館のように暗く、静かで、ただ一つのベッドに一人の老人が寝ているだけの部屋だ。
暗黒教団に似つかわしくない煌びやかな宮殿にして、暗黒教団らしいその一室はあまりに異質。
薄暗い橙色の光に照らされた、目を見開いたままの老人の顔をユーリは気持ち悪そうに見た。
「なんすかこの枯れ爺? 妖怪ですか? イヒヒ! 気持ち悪っ!」
二人を連れてきたメラヘンの両目の血管が尋常ではなく震えている。ただ怒りのみによる動きだ。
この枯れて目を見開き、死んでいるか生きているかも分からない老人こそが、かつて魔王を倒し世界を救い、その後魔王の力に憑りつかれ邪道に堕ちてしまい、世界に破滅をもたらさんとしたドグラマグラ暗黒教団の初代団長ラグマという、誰もが知っている教科書に載っているような人物である。
なんなら町のあちらこちらに銅像が立っていたり、今なおメラヘンの服についているバッジも彼を模したものである。
「博士は知っていますか、これ?」
「いや知らん。ともかくこいつに飲ませればいいんだな?」
「……はい」
メラヘンは噴き出るどす黒い感情を抑え、血管の震えを宥めながら、努めて冷静に言った。
フランは多少強引にラグマの口を開くと、液体を流し込む。
痙攣を始め、剥いた目から眼球が飛び出さんばかりに目を剥くが、やがてラグマは動きを止めた。
「……だだだ大丈夫ななななんでしょうね、ししし死んではないででですよね?」
「俺を疑っているのか?」
メラヘンは攻撃的な視線を向けるも、フランは全く意に介さず尋ね返す。
「今更疑うってのもないですよね! なんてったって私達は運命共同体で相互利益のために研究と援助をする間柄、もはや一心同体八紘一宇! あなたのお腹が私の背中ですよ! イヒヒヒヒ!」
ユーリの意味不明な発言を諌めようとメラヘンが動こうとしたとき、ラグマの体が起き上がった。
「……ここは?」
それは声とも思えぬような、ひび割れた壁から吹く小さな風のような音だった。
「らららラグマ様! ラグマ様ごごごご無事ででですか!?」
「……汝、メラヘンか? 老いたな……皺も増えた」
「じゅじゅ、十年ぶりの弟子に言うことが、そそそそれですかぁ!?」
メラヘンは悲しくなりながらも感動の涙に打ち震えている。もうフランとユーリのことなど忘れるほどだ。
けれどすぐに思い出すことになる。
「ふーん、この皺々爺はメラヘンの師匠ですか。有名な人なんですかね?」
「少なくとも俺は知らん。俺は自分の才能を証明できればそれでいい」
ラグマはようやく焦点のあった目で、自分を助けたと思われる二人の科学者を見た。
「汝ら、名を何と言う?」
「なんすかこの爺、この天才ドクターユーリ様を知らないとは」
「言う必要もな……」
い、とフランが言う前にメラヘンが伝える。
「ここここいつらはフランとユーリという科学者でけけ研究にぼぼ没頭しているために何も知らなくて足し算もしし知らないようなやや奴らで」
「落ち着けメラヘン、何を言っているか分からん」
メラヘンが叱責されて驚くと同時に、フランも続ける。
「とにかく研究所に帰らせてもらう。研究の続きがあるんでな」
「ぶぶ無礼者ぉ! こここの方の挨拶もななななしに……」
「構わん。それより少し話していいか?」
「いやでーす! イヒヒ! 私こんな老いぼれの話を聞いている暇なんかありません! 若い時間は光のように過ぎ去るのです、それをこんな爺の話を聞いている暇は……」
「同感だ。メラヘン、物資と資金はいつも通り頼むぞ」
そう言い残して二人は本当にその部屋を出た。
メラヘンは目の近くの血管が震えを通りこして千切れ、血の涙のように出血していた。
それでも、ラグマに頭を下げた。
「ももも申し訳ございませんラグマ様ぁ! あの二人に私の首もすげて猛省を……」
「いらん。儂の命と同等に世に求められる才能であろう。儂を知らんからこそ、優秀なのだろうな……」
この日、フランとユーリの知らぬうちにドグラマグラ暗黒教団の団長は挿げ代わることとなった。
「で、博士、一ついいですか?」
「どうしたユーリ?」
「実はその薬を使って助けたい人が、一人いまして……」
イヒヒ、と困った風に笑うユーリの様子は普段と違い真面目なものだ。
それが気になって、フランも頷き道筋を変えた。
「うひーひひひ! たまらんのうたまらんのう!」
ユーリが連れてきた一軒家には、アニメキャラクターのグッズに囲まれた金髪のユーリに似た整った顔立ちの男がいた。
「兄のユーセイです。異世界からの電波を受け取ってしまい、コエブタ病に罹っています。今も週に一回アヤネルとミカコシとサッチャンの声を聴かないと狂い死んでしまうと言って……まともに話もできません」
ユーリは悲しむというより呆れるように言った。
「ともかく、お前は兄を助けたいんだな?」
「ま、だいたいそうです」
そのユーリの興味なさそうな様子を見れば、兄の命がどうでもいいことは分かる。
「何でも良い。ほら、これを飲ませろ」
「イエス! じゃあほらおじいちゃーん、お薬の時間ですよー、イヒヒヒヒ!」
「うー! ゲームじゃ駄目なんだ、新しい声が聴きたいんだ……」
断末魔のような声をあげながらユーセイは薬を飲む。
ユーセイはラグマのように震えることなく、すぐに平静を取り戻した。
「はっ! 俺は一体今まで何を……」
それを待っていたと言わんばかりに、ユーリは兄の首根っこを掴む。
「何をじゃねーですよ! 私がアンタに貸した金! 金庫の番号を教えてくれることで許してあげます! ほらとっとと金寄越しな糞兄貴!」
そんな風に騒ぎ立てるユーリを置いて、フランはそっと家を出た。
たとえ彼がノベール賞を取ろうと、世界を救った偉大な科学者として後世に語られようと、一生自由に遊んで暮らす膨大な富を得ようと、その悲願が成就するまで彼は足を止めることはない。
この後、ドグラマグラ暗黒教団はフランの作った薬により暗黒の禁呪の研究すら許され、世界を表からも裏からも支配する大国となる。
フランは偉大なる科学者としてユーリとともに語り継がれる、そんな彼らが目的の薬を作るのもそう遠くないだろう。
無論、こういうパラレルもあったって感じで、次回もいつも通り薬作ってますよ